裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

13日

水曜日

ハタリ前田のクラッカー

 ジョン・ウェインがこんなに強いのも。朝7時起き。フロ入って8時15分、タクシーで心斎橋のホテル日航大阪。ここの朝食ビュッフェを食べる。あまり食欲ないがスモークサーモンのマリネがあったのはうれしい。これとトースト、半熟卵。歩いてサウスタワーホテルに帰る。心斎橋で開いている本屋見つけて、神戸のガイド買おうと思ったがどこもまだ閉まっている。東京だと通勤客相手に駅周辺の書店とか、どこかしら開いているんだが。大阪人、本読まないか? 信号が変わる寸前に横断歩道、もう渡り始める大阪人のセッカチさは変わらず。統計によると、日本中で一番歩くのが早いのが大阪人、ゆっくりしているのが九州人、とはるか昔、永六輔のラジオで聞いたが、イメージを裏切らない。私もセッカチではかなりのものなので、それで大阪が性に合うのかもしれない。

 しばらく休んでCNNなど見、11時過ぎ、昨日買ったオモチャ類と、うどんすき食べた後の抽選でK子が当てたワイン持って、心斎橋にとって返す。岡田斗司夫に頼まれた蓬莱の肉まんを買う。515蓬莱というところで買い、ちょっと行くと蓬莱本店というのがある。見ると、微妙に肉まんの種類とかが異なっている(ような気がする)。どっちを買うべきだったのか? とちょっと悩む。書店、今度はさすがに開いていて、神戸ガイドを買い、明日の落ち合い先をK子と決める。

 そこで別れ、タクシーで新大阪駅。中年の運転手さんの話がオモロイ。ヤクザを乗せて、前の席に座った奴がいきなりフロントガラスの前にピストルを取り出して置いた話など。“そんときは、気色悪うおましたで”って、東京ならそんなもんじゃすむまい。おみやげ売り場であんプリンを買い、昼飯用に好物の柿の葉寿司を買って、新幹線に乗り込む。12時4分、東京行き。

 車中、大江健三郎『取り替え子(チェンジリング)』読む。義兄・伊丹十三(作中では塙吾良)の自殺をめぐる、作者(作中では長江古義人)の精神の彷徨。大江文学を読むのは実にひさしぶりだが、かつての、あの難解極まりない文体(それを解きほぐすようにしてガシガシ読み進んでいくのが快感だった)に比べ、平易で極めて読みやすい文章になっていることに一驚する。それが文学的向上なのかどうかはさておいて、これまでの大江作品に共通するコードはいくつも散りばめられているものの、おもむき自体はかなり異なったものになってしまっている。

 名前こそ変えているものの、作中の塙吾良は、ほぼ伊丹十三と等身大である。覚えのあるエピソードもいくつも出てきているところを見ると、これは大江健三郎の、あの当時の日常と思考の、忠実な記録なのだろうか。ビートたけし、おすぎ、岸田秀といった人々への嫌悪感が素直に表明されているところなど、実に面白い。しかし、それと、本人の『政治少年死す』(作中では『政治少年の死』)発表後の、なにやらおとぎばなしの世界のようにリアリティのない、三年おきに現れて彼の足の上に砲丸を落として傷つけていく右翼グループの描写などは、等位置に視線がある、と読んでしまっていいのだろうか。作者が、我身に起こったそのテロルを、他人ごとのように客観的に描写する(警察にすら“これは外部の体制によって処置されるべきものではない”という理由から届け出ない)ことで、この小説は、肝心の義兄の死の理由すら、はるか霧の彼方へとおぼめかしてしまうのである。

 その他、各所の描写に、これが“文学”というものだとしたら、私が文学離れをしたのも無理はない、と思えるような、気取りと嫌味を感じる。カセットレコーダーのヘッドフォーンの形を、子供のころ谷川で捕ったタガメのようだ、という理由で、田亀、田亀と(その字面の違和感を計算の上で)繰り返して使っているが、さほど意味のあることでもないと思えるし、第一タガメに似ているヘッドフォーンと言うのが、ちょっと想像不能である。地の文の中で“ビビった”というような言葉使いをしているかと思えば、パソコンのことをマイクロコンピューターと恐ろしく古いコトバで表現しているし、日本語の“現場”から大江健三郎も離れて久しいんだな、という感想しか浮かばない。

 とはいえ、車中の三時間ほど、私はこの本に没頭し、読み通してしまった。それはやはり、才能と死、そして時代、というテーマが、人にとって永遠だからであろう。物書きという、一般人よりは死をいささか近く考える職業にとって、それがどのように文学的におぼめかされていようと、彼岸のことではないのである(この感想を私は新幹線の中でメモに書き付けたが、まさかその晩に、無茶苦茶なリアリティをもって人の死のことを考えることになろうとは)。

 時間通り東京駅3時着。タクシーで芝第二スタジオ。OTCのIさんたち、入口で出迎えてくれる。スタジオ入り。今回は前回の小松沢さん、陸川さんに代わって、青木光恵ちゃん、フィギュア王のヌカダ編集長などがコメンテーターである。前後してスタジオ入りした岡田さんに515蓬莱の肉まんを渡す。海拓舎の原田社長が岡田さんに原稿催促に来ている。私もつかまって、喫茶コーナーで催促受ける。岡田さんと私の本、両方揃って出せば全国の書店の反応がかなり大きいので、是非に、と頼まれる。とりあえず、了解。肉まん、原田さんにも渡す。

 番組収録、今回は前回にくらべ、かなりサクサクすすむ。やはり前回の収録の後、大反省会が開かれた由。岡田斗司夫、今回も躁の極みで、まるで小学生のように落ち着かず、あっちこっち出歩くは、放送禁止用語を撒き散らすは、アシスタントのお姉ちゃんをコキおろすは、クリエイターで出演した子に“萌え〜”とわめいて大執着するわ、と、見ているだけで飽きない。私は前回と同じく、マトモな批評に終始。

 応募クリエイターも、今回はバラエティに富んでいる。イタかったのは自主特撮作品『Pマン』を制作した、三十過ぎ無職男たちの集団『創映会』。自分たちの作るものが、本当に子供たちにうける、特撮ヒーローの王道であると信じて、笑わせろとかもっと安っぽく作れという、こちらの指摘をまるで聞かない。自己評価と、他者評価とのギャップを認めようとしないのである。自分たちの夢を実現させるには、現実とのオリアイの中で、地道に着実に、その夢の立脚地を広げていくことだ、という戦略を、純粋であるが故にたてられないのである。

 それと対照的だったのが、かの『バイオハザード』のCGを担当した笹原和也氏。年商一億二千万円という会社社長である。旧作のリメイクに、三○○○万円の予算を出してほしい、という大型売り込みである。こちらは若くして名をなした人特有の、強大なる自信に満ちあふれた態度で、いわゆるウリコミのやり方が不器用このうえない。創映会とは違った意味でのプライドのかたまり、といった感じである。彼の場合は、自分の才能や実績にプライドを持つことがアタリマエなのだが、その露出が、自分の評価を上げるためでなく、回りを鎧う甲殻になって、相手との交渉という目的をを妨害している。岡田斗司夫が、ちょっと親身に、“プレゼンツのコツ”を伝授していたが、果たして聞いているかどうか。

 今回、われわれが一オシだったのは、岐阜の山奥の村の“アート交流大使”として招かれて、そこで二年間生活しながら作品制作を続け、大使就任期間が終わっても、そこの村に留まって制作を続けている本間希代子さん。作品も幻想的で大変にいいけれど、本人の、いちいちの動作や表情が可愛らしいことこの上ない(もう可愛らしいなどと言っては失礼な年齢なのだが)。岡田さんと青木さんが“あれ、実際はかなりムネあるんちゃいますか”“Cはあると思うね”“寄せて上げてのブラ使えば、もっと行くんちゃうか”“いや、背中が案外痩せとるからそこまでは行かんやろ”と、すさまじくヒドイ話題ではしゃぎまくる。

 サクサクと収録終り(昼はノリ弁)、8時半にはオーラス。ずいぶん能率をあげたものである。本間さん、名刺を渡しに楽屋まで来てくれる(こういうことしたのも今回の出演クリエイターの中で彼女だけである)。これから深夜バスで岐阜まで帰る、というので、岡田、青木、私と、OTCのIさんの車(ヤフオクで三十万千円で買ったやつ)で浜松町まで送っていく。

 本日は一人の夜なので、これからサ店に行くという岡田・青木とつきあおうと思っていたら、岡田斗司夫に“いや、ちょっと二人で話したいことがあるから来ないで”と言い切られる。躁時期の男というのはこういうことを平気で言う。苦笑して、仕方なく、一人淋しく渋谷のマンションに帰る。後で焼肉でも食いに出るか、と思っていたところが、帰ってみたら、それどころではなかった。留守録に、数人の知り合いから、元・官能倶楽部メンバーの塚原尚人氏の訃報が伝えられている。驚いて官能倶楽部パティオをのぞく。どうやら事実らしい。司法解剖に回され、今日あたりが葬儀であった、とのことである。大いに驚きはしたが、意外性はまったくない。やっぱりこうなったか、という感じである。

 塚原氏は今年はじめあたりから、睡眠薬と向精神薬を大量に服用し、夏ころにはそれでリストカットしての自殺未遂まで起こしている(いずれもネットで自分からそれを吹聴し、こちらにも伝わってきていた)。てっきり自殺か、と思ったのだが、ネットあちこち回って情報を仕入れたところによると、仕事の打ち合わせを終えた後でのクスリの服用量を誤っての事故死であるらしい。自殺でなかったことのみが唯一の救いだろう。だが、私が真っ先に思い浮かべたのは、ボードレールがポーの死に対して述べた“このような死はほとんど自殺、ずっと以前から準備されてきた自殺というべきものである”という言葉であった。意識的、無意識的に関わらず、彼の死は、彼自身によってコースを定められ、そこに突き進んでいった末のものであった(やはり自殺なのでは、という未確認情報もあった)。

 彼の死について、述べたいことは多々、ある。今年一月の日記で、私は彼の人間性を徹底して批判した。その意見を変える気はさらさらない。この死と、それにまつわる、私の知っている(本人から直接聞いた)範囲内の情報においても、その死の理由についていろいろ予想がつく。だが、まだ彼の魂が中有に迷っているであろうこの時期に、それを述べるべきではあるまい。せめて四十九日過ぎまでは待とうと思う。だが、改めて、才能と死、ということをしみじみ思う。彼は若手官能作家としては人並み優れた才能を誇っていた人物であった。そして、彼が結果、このような死を迎えたのは、まさにその才能の故であったと思う。才能が無い者の悲劇を、私は数え切れないほど知っている。だが、才能がある故の、そして、その才能が、自分の望んだものでなかった故の悲劇も、また十指にあまるほど知っている。彼の悲劇は、まさにその典型的な例であった。それだけにやり切れない。また、腹立たしい。

 いくつかのネットで、彼の死をやたら美化して慨嘆している人がいる。ナニヲ言ッテイヤガル、と憤りを覚える。伊丹十三が死んだとき、桜金造が、伊丹監督に自分くらい恩を受けた者はいないだろうが、と前置きして、しかし監督のこの死に方は最低の死に方である、とはっきり言い切っていた。しかり、塚原尚人の死もまた、最低の死である。二十七の早すぎる死は確かに痛ましい。しかし、その痛ましさに酔って、彼の死を正当化しようとする者は、懸命に生きている、他の全てのモノカキを馬鹿にしているのだ、と私は思う。同業者の死にこういう言葉を投げることはつらいが、それが彼にしてやれる最後の真心だ、と思う。

 食欲もなくなり、家でコタツにうずくまって、クサヤの干物とチーズで酒を飲む。鶴岡に電話するが、彼は朝、このニュース聞いて、興奮してまだ外を飛び回っているとのこと。飲んでも酔わず、一時半ころ、就寝。(15日記述、16日一部改稿) 

Copyright 2006 Shunichi Karasawa