裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

5日

火曜日

国事犯をお知らせします

 内乱罪で逮捕されました。朝、劣等感に苛まれる夢を見て目覚める。朝食、ピタパンとカキフライ等昨朝と同様。漢方薬などがそろそろ切れかかる。正月に実家でまとめて購入した方が安上がりなんだが仕方あるまい。Web現代、原稿最終手直しして 送信する。

 それからずっと官能倶楽部座談会原稿まとめ。うーん、どうやって手をつけていいものやら、といった感じ。対話は漫才のようで面白いのだが、まとまりがまるでない上に、食べ物の話題ばかりで。昨日送った小説原稿は“物凄い”と言われる。いや、出来のことでなく、キチガイぶりが。

 昼はおとついの鴨湯豆腐のダシが残っていたので、これを温め、冷飯にぶっかけて掻き込む。それとクリスピーチキンひと切れ。座談会原稿、乱暴にザクザク進める。キャラがそれぞれ立っている人ばかりなので、まとめやすくは、ある。内閣改造人事のニュースなど聞きながら仕事すすめる。改造人事と改造人間、一字の違いであることを発見する。いや、発見したからと言って何の意味もないが、四十数年、これに気がつかないで生きてきたのか、という感慨が胸の中に急にわきあがった。世の中にこれほどどうしようもない感慨もあるまいなあ。

 残念ながら座談会原稿、2時までにアゲるつもりでアゲられず、日比谷東宝本社まで、『ゴジラ対メガギラス』試写に行く。3時半からの試写なので三○分前に出かけたが長蛇の列。驚いたら、これはその前に特別上映される、『名探偵コナン』の劇場用CMの試写だった。集まっているのがネクタイ族ばかりである。代理店や、スポンサーたちに見せるためのものなのだろう。白髪頭のビジネスエリート風おじさんたちがコナンを見るのか、と思うとオカシクなる。十五分待たされて(その間に外で銀行探そうとしたが、あの回りって案外ないのだね)、入場。最終試写だが、こちらもほぼ八分の入り。期待度が高いのだろう。

 平成ゴジラに関しては私は“だから作るなと言ったじゃないか”と、日本で百二十四番目くらいには言う権利を有する人間である(大学生のころ、『ぴあ』で“いま、ゴジラを復活させたって満足のいくものになるわけがない”とさんざ論争した)。怪獣というのは、高度経済成長時代の闇雲なパワーと、米ソの冷戦で核の見えない脅威が蔓延していたことに対する、日本人の意識下の恐怖の具象なのである(ダイレクトに具象である、と言うのではない。その通奏低音があったからヒットしたということである)。それをよみがえらせることに対する、客を納得させるモチベーションが、いまの世には何もない。気の抜けたコーラのようなものにしかなるまい、というのが私の予想で、それはこれまでの平成ゴジラを観てきた限り、まず、当たってきたと言えると思う。前回の『ゴジラ2000』で、その気の抜け方は頂点に達した。後、われわれに残された希望はひとつしかなかったのである。
「映画人の中にだって、東宝の中にだって、ゴジラがこれでいいと思っているわけではない人物が、一人くらいはいるに違いない。もし、もしそういう人物がメガホンをとることになれば、あるいは、ひょっとして、もしや・・・・・・」

 今回メガホンをとる手塚監督がそういう人だ、という話は、安達Oさん(市川崑組での助監督仲間)から聞いて知っていた。そこにおいて、期待度はぐんと高まっていた。不安は、今回が初監督作品だということで、演出手腕が未知数なことと、たとえどんなに監督が才能があっても、東宝というシステムが、すでに優れたゴジラ映画を作り得ないような仕組みになってしまっているのじゃないか? ということだった。相手怪獣がメガヌロンだ、ということも、期待すまいぞ、とこちらの心にブレーキがかかる理由だった。モゲラだって、ゴジラの対戦相手としては役者が小さすぎた感アリだったのである。ラドンのエサごときが、いかに巨大化しようと、ゴジラにタチウ チ出来るかよ、という感じだった。

 怪獣映画は難しい。マニア向けに作ると、評価は高くなるが客は呼べなくなる。一般大衆向けに作ると、ノイジィ・マイノリティたるオタクたちの総反発をくう。ここらへんの処理をどうするのか、という部分も気になっていた。前置きがやたら長いがそれくらい、ゴジラ映画を観るにはアレコレ気を揉んで出かけていかざるを得なかっ たのである。

 まず、自分の中のマニアである部分は、冒頭のニュース映画の白黒映像でバンザイを叫んだ。架空歴史モノとして世界観を構築するのどうの、という設定は実はどうでもいい。例の菅井きんのシーンまで丁寧にリメイクして、マニアにとって神域に等しい第一作への壮大なオマージュを冒頭に掲げたことで、こうるさい連中をダマらせ、さて、後は自分の好きなように撮っていくぞ、という手塚新監督の、観客操縦のテクニックに、私はウナった。こいつはタダモノではない。慾を言えばナレーションを当時のニュース映画の竹脇昌作調でやってほしかったが、そういう注文をつけさせてオタクに知識自慢をさせるのもテなのではないか、とさえ思った。

 はっきり言って、その後のストーリィ展開は陳腐である。脚本をもう少し何とかできなかったのか、と、何度もスクリーンにむかって毒づきたい気持ちになった。演出の力量がいいだけに、アラが気になりすぎるのである。しかし、今や私を含めたオタクたちは、この映画の味方になっている。メガヌロンも、所詮トンボという迫力不足を克服しようと必死である。与えられた大役を一生懸命に勤めている大部屋俳優、という感じで、これまでの大根怪獣どもとは一線を画している。トンボの生態とはとても思えないが、一匹のメガギラスを育てあげるために、何百匹ものメガニューラ(メガヌロン、メガニューラ、メガギラスと変態する)が、吸収したゴジラのG細胞をサナギに注入し、力尽きて水面に浮かびあがっていくシーンでは、涙が出た。そりゃ、あんなカタチの怪獣が飛べるわきゃないとか、観覧車の上にとまれるわきゃない、とか、これだけ体重差があるゴジラを引きずれるわきゃないとかいう、柳田理科雄的な野暮ツッコミはいくらでも出来よう。だが、カイジュウものというのは、こういうウソを許容しないと楽しめない世界だ。そのウソを許容してもらうために、どこかにワンシーン、“これに免じて許せ”という場面を置くのが、映画というものの演出である。手塚監督はそれを心得すぎるほど心得ている。

 映画マニアが怪獣モノを撮るときのネックが、プロレスを嫌がることである。旗本退屈男を撮るのにチャンバラを嫌うようなもので言語道断なのだが、『ガメラ3』などはこの弱点がロコツに出た作品だった。今回のゴジラは、メガギラスと、盛大に殴りあう。カミツキを見せる。そして、最後は王者の貫禄をもって、メガギラスを爆死させる。メガギラス、よくやった。負けはしたけれど、力いっぱい戦っての、その負けっぷりも見事である。怪獣映画は、こういうところをきちんと見せることに眼目があるのである。完成度では『ガメラ/大怪獣空中決戦』に一歩を譲るが、映画のスケールではそれを上回っている。

 役者では、市川崑映画の常連だった伊丹十三の息子の池内万作が、市川組助監督出身の手塚監督に出演しているのが縁を感じるキャスティングである。しかもこれが、親父をホウフツとさせるクサイ演技で印象的。横ならびのシーンで他の者がしゃべっているときでも、口をモグモグさせたり髪をかきあげたりして、自分の方に視線を集めようとするショウモナイ癖が、実に親父ソックリで笑ってしまう。戦うヒロイン、田中美里は意外な好演。時代だなあ、と思うのは、彼女が映画を通じて、色気を一回も見せないで、徹頭徹尾、戦闘マシーン人間として描かれている(その底に上官への女性らしい思慕があるのだが)ことだ。脱いで見せるのは、ヒーロー(?)役のモデル出身の美青年、谷原章介の方なのである。これには参った。

 まあ、昔『ゴジラ対メカゴジラ』を観たとき、前作の『ゴジラ対メガロ』があまりの出来だったので、無暗に評価が高くなってしまった記憶がある。今回もそのデンかもしれないが、手塚昌明を得て、二十一世紀のカイジュウ映画は安泰である。これだけの功績を上げながら、次回のゴジラはあの(以下五十七文字削除)。とはいえ、これがヒットすれば(させなければならないが)、手塚監督は東宝でかなり企画を通 しやすい位置に上がれるだろう。次回作が楽しみである。

 見終わって、一旦家へ帰って仕事するつもりだったが、時間的に無理とわかったので、そのままタクシーで新宿へ直行。開田夫妻と、新感線の逆木圭一郎さんと、紀伊国屋前で待合せ。あやさんの希望で、また幸永に行く。芝居の話、オタクばなし、映画の話など、いろいろ。逆木さんは物静かではあるが、芝居について語らせるとさすが能弁。うまいうまいとスライステール、ホルモン、カシラ、豚骨タタキ、ゲタカルビ、ハツモトなど食べすぎ、ホッピー飲みすぎ。初めて飲む人と一緒の席でベロベロになったのは醜態。もっとも開田さんも、最後にはグラスから水を飲もうとしてそのまま胸にジャバジャバとこぼすほど酔っていた。ハツモトというのは大動脈らしいがまるきり味も食感もイカである。うまい。豚骨タタキはウルテだと聞いて、なら気管か、と思ったが、メニューにはやはり食道と書いてあった。ナンノコトダ。

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