裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

12日

火曜日

クジラ陽気なかしまし娘

 ひさびさに内容とタイトルが一致したな。朝7時起き。寝床の中で『精神科学人間恠奇録』(対象14年)を読む。目がカユイ。いよいよ結膜炎かと戦々恐々とする。去年もこの関西旅行でこれにやられたが、年中行事になってはたまらない。風呂に入り、6階(このホテルは6階がロビー階)レストランで朝食バイキング食べる。オレンジジュースが自分で絞る方式のやつで、さすがにフレッシュ。明石焼きがあるので驚いたら、パンケーキであった。部屋に帰って、10時過ぎまでダラダラ過ごす。部屋のテレビでCNNを見る。これを見ると日本のニュースがタルくて見られなくなるのはさすが。ブッシュ対ゴアの、“対”がただの“v.”と表記されている。これも確かにversusの略記として認められているが、ふつう日本では“vs.”の表 記が普通なので、ちょっと目にとまった。

 11時、タクシーで阪神電車駅高架下のかっぱ古書街に行く。数店、駆け足で回るが、1時間後には紙袋にズッシリ重みが加わる。山野一郎(徳川夢声などと同時代に活躍した人気弁士)の『人情映画ばか』初版が見つかったのがうれしかった。梅田のデパートでタートルネックのセーターを買う。三十数年昔、舟木一夫(だったか三田明だったか)が『タートルネックのいかす奴』って歌をうたっていて、その当時からタートルネックが流行りはじめたことがわかるが、その当時から歌は非常にダサいと思っていた。1時、梅田アクティ14階のうどんすき店『かな泉』で、裏モノ会議室の金成さん、詰めにくいさんと会食。裏っぽい話いろいろ。裏モノは実は高学歴者・学術関係者が多いのだが、詰めさんのソレには聞いて少々驚く。

 昼から酒とビールかなり入り、喫茶店で酔いを覚ましたが脳が完全にマヒした感じで、固有名詞がまるで出てこない。まるきりのバカの会話となる。こんなに酒に弱いハズではなかったのだが、旅先の解放感で回りが早いんだろう。4時過ぎ、ホテルに帰ってしばらく寝る。

 夕方、アメリカ村へ出る。途中、携帯でぶんか社から電話。『唐沢堂怪書目録』で取り上げた熊田プウ助氏が、そのお礼を言いたいので連絡先教えていいか、という内容。どうぞどうぞ、なのだが、あわただしい中なので、自宅にFAXしておいてくれと言っておく。アメリカ村、私の目的はガジェットおもちゃ。某店でチロリン村のトランプ遊び解説書(トランプ自体はおそ松くん)を見つけ、五○○○円で買う。続いて入ったマイク・カンパニーでチロリン村の砂あそびバケツ(この絵がちょっと病的でオモシロイ)を八○○○円で見つけ、チロリンつながりで買おうとして、ふと、脇のウインドーの中に、ブリキ製のゾウのオモチャを見つける。これに一目ぼれ。値段見せてもらったら三万八○○○円。衝動買い。今回の旅行は五○○円玉貯金の積み立てと、同人誌の印刷代が売上で返ってきたので行っているので、金がほとんどかからない。ここらで使うのもいいか、と思い、気前よく支払う。お大尽だと思われたか、出口まで店員がついてきて、またどうぞお越し、と頭を下げた。他に数店回るが、大阪の中心部でほとんど見かけなくなった、ドアのところの“ゆびづめに注意”が、探 せばまだいくつも残っていることを発見し、うれしくなる。

 そこから歩いて西玉水まで。二日続けてクジラ。本当は別の店に行く予定だったのだが、かえって二日連続でクジラ食う方がゼイタクな気分になれる、と思い、そう決めた。これは正解だったと思う。一年に一回か二回しか来られない大阪の店で、堪能するまで同じものを食べるというのはなかなか出来ることではないし、それに店の方でも、同じものの場合、いろいろ工夫をしてバリエーションを楽しませてくれる。餅鯨、昨日は白味噌仕立てだったが、今日は茹でたてのところを薄切りにし、酢味噌で食べさせてくれる。要は脂身を茹でて、脂をすっかり抜いてしまったものだが、口に入れるとほとんど味つけをしていないのに、なんとも言えない甘味が、トロリととろけて、旨み成分が舌にじゅう、と染みわたり、クジラというもののエッセンスを凝縮して味わった感じがする。タケノコ煮も、“二日続けるとちょっと味が薄く感じるから”と、昨日よりいささか濃い味にしてくれる。しかしながら、これは薄味の方がやはりよかったように思う。ホンのちょっとの違いなのだが。あと、山菜の天ぷらは、さすがにこれだけ早いとアクというものがほとんどなく、野性の甘味と春の香りが馥郁と口中にただよう。

 そして、大豆と煮きあわせたサエズリ(クジラの舌)のウマサ! これが私には本日の絶品。クジラの舌というのは、牛や豚のタンと違い、筋肉はほとんど発達していない。下顎にくっついてしまっているので、自ら動くことのない、退化したふわふわのスポンジ状器官だ。その肉と脂の中間のような部分の持つ旨みに、大豆の甘味が絶妙にマッチして、口に入れると、じゅわあ、と、その双方の味が合体したエキスがにじみ出し、わが舌に速やかに吸収されていく。少なくともこの瞬間、人生の意義というものが食べた者には極めて明確になる。この料理を食べることがすなわち人生の意義なのである。クジラの舌に大豆を合わせて煮く、ということを発明した人間が誰だか知らないが、デリダだのヴィトゲンシュタインだのよりも、世の中のためになる功績はあげたように思う。

 大満足でひきあげる。道頓堀近辺の歓楽街のにぎわいはさすがである。呼び込みの兄ちゃんが、“ァアイオチャンノァアゥィラァウェオォワイ!”と繰り返していた。何のことやら、としばらく耳をすませて聞いていて、やっと“可愛い子ちゃんの花び ら舐め放題!”であるとわかる。『光の塔』の宇宙語みたいである。帰って、バーに でも飲みに行こうか、と話していたのだが、その満足をベッドに持っていくことの方を夫婦二人とも選び、クジラの香りをぷんぷんと全身から発したまま、フトンの中にモグズリ込んで寝る。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa