裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

10日

木曜日

ヤシロエイター

 車椅子の剣闘士。朝6時ころ目が覚めてしまう。寝床で読書。朝食、ソーセージと胚芽パン。オタクアミーゴス会議室のクレしん論争(というほどのものじゃないが)が面白い。午前中はずっと太田出版のと学会本原稿10枚にかかりきり。引用が多いのでメンドくさい。天候、いまだ不安定。今日はK子は官能倶楽部のメンバーと、内藤みかさんの家に行く。私は別行動。

 原稿完成させてメール、1時。クレしんが明日までなので、もう一度観に行こうと思い、有楽町まで出る。時間が早かったので、竹葉でうな丼食って昼飯。隣に座った中年男性が、どう見てもチンチクリンな福助さんなのに、薄化粧して、しぐさのいち いちが色っぽい。歌舞伎座関係の人か?

 ヤマハ楽器でCD買い込み、劇場へ。さすがに場内に観客は十人ほど(次の回にはもう少し家族連れが入ったが)。みんなオタク。予告で三谷幸喜『みんなのいえ』をやっていたが、三谷監督自身が最初登場、なぜかハシゴ片手に舞台となる家の中に入り込み、いろいろと説明をする。ヒッチコックの『サイコ』の予告のパロディということが一目でわかる秀逸な出だしなのに、その後はごくフツーの予告編になってしまい、残念である。なんで最後まで監督の語りでやらなかったか。これでちょっと、観に行こうかという気勢をそがれてしまった。

 で、二回目の『嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』。オタアミでの論争の中心は、果してケンが、“一旦70年に時計を戻して、そこからまた未来をやりなおそう”としているのか、“70年代で時間をストップさせて、そこに停滞しようとしているのか”という点。そこの確認だったのだが、最初は現在の21世紀を“俺たちの未来はこんなものじゃない”と否定するやりなおし派であったケンが、映画の後半になると、夕日町を永遠のものとして語っており、停滞派になってしまう。脚本や演出そのものが、夕日町の懐かしさのトリコになってしまったのじゃないか、と思われる破綻で、これは意外だった。この破綻は計算なのか、偶然なのか。なんにせよ、最初の感想で、あまりにウェルメイドなところが欠点、と書いたが、あれは訂正。この破綻がこの映画を語る際のポイントになるかも、という気がする。

 その他いろいろ考えさせられながら劇場を出る。“カラサワさんじゃないですか”とトクサツ系の人に声をかけられる。やっと今日初めて観て、二回続けて観てしまったそうである。地下鉄丸の内線に乗り、池袋まで。ジュンク堂にて、永瀬唯氏の『腕時計の誕生』(廣済堂)刊行記念トークセッション。ジュンク堂は大きくなってから(前もいいかげん大きかったが)初めて。各階で手にとった本を、一階に持って降りてそこで支払い、というシステムはえらく客を信用したものだ。しかも、一階に降りるエスカレーターがすぐに出口に直結しているので、そのまんま持って出ようと思えば持って出られるような環境。別にガードマンも立っていない。手に本を持ったまま階下へ行くとき、何か落ち着かなくて困った。

 私がここでトークしたときはまだ改装前で、喫茶部はただスペースを空けて椅子を並べただけ、というものだったが、今はきちんとした喫茶店になっている。開始の6時半ギリギリまで人が集まらず、ちょっとハラハラしたが、真際になってどんどんと入ってきて、二○名ばかり。補助椅子を出す盛況となった。久しぶりの永瀬大人、派手なバンダナなどを頭に巻いて、相変わらず。図版を豊富に使って、腕時計の歴史を講義。いかにも彼らしく、一般に流布している通説がいかにデタラメであるか、を徹底して切っており、永瀬節をたっぷりと聞いた。彼のこういう好戦的論陣を以前に、“些末なミスつつき”と評していたサイトがあったが、実にその“些末にこだわる”ところこそが永瀬唯の本質なのである。

 腕時計がそのウェアラブル性で懐中時計を駆逐し、そして今、かつての懐中時計的な持ち歩き方をされている携帯電話に駆逐されつつある歴史の皮肉、というテーマは大変に刺激的でドラマチックで面白いが、まあそれらは本の中でも書かれていることである。今回の話でもっとも興味深かったところは、腕時計の歴史をどこまでさかのぼれるか、という探究に、多くの資料館を回って、昔の人物写真、イラストの類を膨大に集め、ひたすら、その人物たちの左手首(時には右手首)をチェックし続けたという、単純原始的極まる、しかし非常に斬新な方法の苦労話にある。これこそ、オタク的フィールドワークと言えるだろう。私が一番感心し、感動したのはその方法論にであった。

 永瀬さんの高説を電話で聞くときには、いつ果てるともしれぬという不安感があるのだが、こういうトークセッションではまさか4時間も5時間も話し続けはすまいという安心でゆったりと聞ける。一時間半ほどでお開き、ちょっと雑談。植木不等式さんが来るという話だったので、来れば一緒にどこかに流れようかと思っていたのだが来らず。著者から直接謹呈された『腕時計の歴史』持って、せっかく池袋に来たのだから焼きとんでも、と思い駅周辺をウロつくが、何と、池袋の町もすっかりキレイになってしまい、路上に椅子を並べているような店が一軒も見当たらない。まったく、ケンじゃないが、街に匂いがなくなっちゃったなあ、と落胆する。ようやく、東口裏の北口へ抜ける通路(ここもキレイキレイになっちゃった)側の通りに一軒、『男体山』という、昔ながらのホルモン焼き屋を見つけて飛び込む。

 ここがちょっとアタリで、レバとタンのタレ焼きが思わず“ふむ”と言う味。レバ刺しを頼んだが、これはまったく生臭くなく、絶品。いささか味の素は使っているけど、それは昔からの池袋の焼きとん屋の味だ。男体山漬け、というのがメニューにあるので、“それ何ですか”と訊いたら、ニンジンを細く切ったものとスルメを漬け込んだここの名物だそうで、それも頼む。一人で梅割り焼酎飲んで、ホルモン食いながら本を読む。学生時代に帰ったみたいだ。もっとも、学生時代にはこんなにいく皿もおかわりおかわりは出来なかった。ここらへん、現実の過去より、ノスタルジーの方がむしろ勝っているよな。

 満足して出ようとしたら(9時ころ)、なんとスコールのようなドシャ降り。電車で帰ろうと思っていたが、仕方なくタクシーにする。渋谷までの道じゅう、ずっとウインドをダダダダダダダダダ、とマシンガンのように雨滴が叩いていた。K子まだ帰宅しておらず、先に寝ようかと思ったら、電話。意外な人物からで、中田雅喜さん。彼女、先に月形龍之介にハマって、ワイズ出版からとうとう月形本を出してしまった人だが、今度は天津敏にハマり、その縁で『星を喰った男』を読んでくれたとのことで、その感想のお電話だった。しばらくえらく濃い天津敏ばなしで盛り上がる。仁侠ものとか時代劇とかでなく、『殺人鬼蜘蛛男』のどこに天津敏が出ていたか、というようなカルトレベル。

 やたら盛り上がっていたら、キャッチホンで、これまた盛り上がっていそうなK子から電話。みかさんのところで飲み足りなかったので、ソバ屋にいるから来て、とのこと。よっこらしょと出かける。こういうハシゴもひさしぶりである。あやさん、談之助さんも一緒。中が一杯なので道路に出ているテーブルで(雨は上がっていた)、ソバ湯割り焼酎でカンパイ。うまいもの談義など。みんな、何か異様なハイテンション。あやさん、ノスタルジー派の私に、カイダのようにティガでもアギトでも平成ゴジラでも、新しいものを許容しないと楽しめないですよ! と迫る。私は、いや、自分のアイデンティティを確立させた作品にこだわるのがオタクというもの、と反論。談之助さんが“そう言えば談志はどんな芸人でも、そいつが「志ん生に比べてどれだけオモシロイか」で評価してましたな”と。談志は、落語業界に初めて出現した“落語オタク”の落語家でもあった。

 今回『クレしん』はストーリィ上はケンとひろしの対立をモチーフにしているが、実はひろしが21世紀を自分は生きるんだ、というマエムキな姿勢の根拠としているものが“家族”“親子”“家”という、極めてクラシカルな、それこそケン以上のノスタルジーに依存しているものでしかない。実際に彼らが歩んでいく21世紀は、夫婦とか家族という絆の根拠すらが問い直される、シビアな未来になることは間違いない。昨今のフェミニズム系の言説を見渡せば、それが不可避なことは明らかだろう。この作品はそこを描いていない(アタリマエで、クレしんでそんなテーマ描かれたらたまったもんじゃない)。旧来の価値観を無根拠に自分のアイデンティティにしているひろしを、私は凄まじく愛おしいと思うと同時に、“甘い”とも思う。そして、そんな未来を、かなり乱暴な行動を起こしても阻止しようとしたケンの態度には、やはりシンパシーを抱かざるを得ないのである。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa