30日
金曜日
スーファミなんか怖くない
あなたもスーファミにハマりますか〜。朝5時に目が覚める。日本酒だけの酔いだとこうなる。締めくくりは蒸留酒がいいらしい。ゆうべ細田氏のことを思い出したので、ひさしぶりに例の若桜木虔氏との“作家の志”論争のログを引っ張り出して所在なさに目を通してみた。もう六年も前のことなのだなあ。グダグダするうちにまた寝てまた目が覚めて8時起き。朝食はロールキャベツスープとライ麦パン。メンズプライスマガジンの原稿を書く。お盆進行に旅行とコミケが加わり、七月はなかなか大変な予想である。もっとも、一年のこの時期に忙しくないモノカキは食べていけないであろう。
4分の3まで書いて11時半、歯医者へ。左の犬歯に一部分、欠けたところがあって、そのことを言ったのだが、今日は別のところ治療される。それでも、数年間気にしていた門歯の脇の虫食いを治してもらった。帰りに宇明家で一口ギョーザ定食の昼飯。仕事場に戻って大車輪でメンプラ11枚弱、書き上げてFAX。そこでようやくシャワー浴びる。朝から暑い。梅雨あけだろうか。寝室にひっくり返り、こないだのポルトガル中世聖歌を聞く。ものがなしくなるような、癒されるような、不思議な響き。ザビエルなんかもこれを聞いたのだろうか(ザビエルはスペイン人だが、ポルトガル王に招かれて、そこで王から依頼されてインドへ布教に行っている)。もっともこういうものを聞きながら、原稿料の計算などという俗なことをやっていた。
起き出して次なる仕事。光文社ゲラチェック、イーストプレス見本原稿、それから各出版社連絡。青林堂、部数は保証するとのこと。とはいえ、執筆の優先順位 は工藝舎にあり、こっちの方をそうなると急がないといけぬ。なんだかんだで混乱する。
7時、買い物から帰ったらマンションの非常ベルが鳴り響いている。外側を見回ったが煙や火が出ている形跡はなし。誤作動だろう。しばらく鳴り続けていたが、1時間ほどで止む。管理人は留守していたらしい。その鳴り響くさなかに海拓舎Fくんと芝崎くん、テープ起こし原稿持ってきてくれる。芝崎くんはこれと朝日の手塚本のカケモチで大変だろう。ここも、海拓舎と朝日で優先順位の争いが。鳴呼。
作家の志論争であるが、この当時の私はどちらかというと細田氏の意見に組していたのだが、論争が長引くにつれて、若桜木氏という作家の、それまで考えもしなかった“多作”を柱とした作家としての在り方に非常に興味を持った。読者として一人の作家を追いかけているうちはその作家の志も大事だが、産業としての小説業界全般 を俯瞰するとき、彼のような“量”の人の存在を視野に入れないと、見えてこないものもあるのではないか、と思ったのである。ちょうど好美のぼるという、貸本マンガにおける多作の帝王について研究していたところであったし、その好美氏が終生、ライ バル視していたという大物中の大物・手塚治虫の本質も、あの人が生涯を通じて多作 であった、ということが重要なファクターになっている。いや、細田氏だって、この論争中、プロの作家になりたいなら三○代の十年の間に一○○冊の本を書き、“作者名で読まれる作家”になれ、みたいなことを言っているのだ。十年間、一年十冊!
そこまでしないと作家名で本を買ってくれるモノカキになれない、というのは凄まじい現実である。私など、なんだかんだで多作だのマシンガン刊行だのと言われているが、まだまだ、著作数一○○冊には及ばない。そこらへんになれば、昨日の出版社も企画をボツにせず、作者名で本を出してくれるようになるかもしれない。
まあ、結局業界の評判を少なからず落としたあの大バトルだが、結局のところ、両者のいい年した社会人とは思えないオトナゲナサが原因だろう。ただし、作家はオトナゲナイ部分がある程度許容されなくてはいけない職業であり、編集者は逆にオトナたるべきことが常に要求される職業である。ことのはじまりは細田氏が、志があるのないのという、オトナゲナイ断りの手紙を若桜木氏に送ったのが根本原因であることは確かなのだ。“大変結構なものではございますが残念ながら当社では出版致し兼ねます”で済ましておけば、あんなことにはならなかったのだ。その後の論争中での言い分は、ほぼ八割方、細田氏の方が正しい。しかしながら、細田氏はそもそもの発端の部分で、一編集者としての分を越えてしまっている。もし、細田氏が本当に、若桜木氏のような作家がJUNE小説を書くことを業界の危機と感じ、自らがタテとなってもそれを阻止せねばと思っていたとしたならば・・・・・・それは自意識過剰というものである。
なんてことを考えつつ、夕食の準備。カツオ叩き、スズキのスープ蒸し、肉豆腐。K子が、映画の中の食べ物についていろいろ話したので、ならばとビデオで『料理長どの、ご用心』見る。70年代的ゴージャスムービーの代表。ロバート・モーレー、フィリップ・ノワレ、ジャン・ピエール・カッセルといったヨーロッパの芸達者たちのオアソビ的競演が、この当時は映画のウリになっていたのだな。