裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

18日

日曜日

レ・ドク・トも一度見直せ右左

 ベトナムシリーズ。この人、一貫して左だったけどな。適度に涼しくて寝やすい晩であったが、寝汗かかないので、逆にパイチュウのアルコール抜け切らず。朝、チキンサンドとリンゴ。ネットの雑用少し片付け、原稿書き。

 K子に弁当。今日は豚と玉葱のトマトソース煮。ご飯には錦松梅。仕事したくない気分だが2時までに週アス一本完成。出来もまあまあ。外出、道玄坂上のヒゲ張(こないだヒゲ長と書いてたな。まあいいが)まで出向き、先日の自家製ルーローと比較検討するためにルーロー飯、ルーローダブルで。さすがに柔らかさはこっちの方が格段だが、丼用に味付けが濃いので、我が家の方が上品な味ではある、などと自賛す。ついでに皮つきバラ肉、もやし、スープなどとり、暑い日なので生ビール一杯。

 道玄坂はホコテンでえらい人ごみ。青山の方まで出る。紀の国屋の店先に、“皇太后陛下のご崩御をお悼み申し上げます”と出ていた。さすがは御用達。“ご(御)崩御”というのは御が重なると思うが、つけるべきなんだろうか。

 買い物して帰り、横になって足利紫山『毒語心経提唱』など読むうち、ビールの酔いが残っていたか眠くなり、グースカ。目が覚めたら朝出なかった寝汗が出きって、体が何かスッキリしていた。

 串間さんの『子供の頃の大疑問』のことを昨日書いたが(串間さんが“照れるじゃないですか”と言ってきた)、串間努が書くレトロ本と他のレトロ本の違いは、そこに表出される高度経済成長期のイメージの新鮮さだろう。レトロものに新鮮さがある、というのは変に聞こえるかもしれないが、凡百の“あったあった”という個々の読者の記憶を喚起して同世代間のアイデンティティ確認をするだけの本とは異なり、彼の書く本の中には、彼の頭の中に確固として整理しなおされ、構成され、形づくられた高度経済成長期のイメージが息づいている。それだから、単なるモノの歴史の記録が、時代と結びついて躍動しているのだ。司馬遼太郎の描く日本史が、無味乾燥な学者の記述とは全く異なり、生きた人物像がそのまま、現在のわれわれにつながっている、という感覚を抱かせるのと同じなのである。学問としては無味乾燥な事実も必要だろう。しかし、われわれが切実に必要としているのは、歴史が今現在のわれわれの存在につながっている、という、脈動する感触なのである。現代の歴史、ことに文化史はモノの存在を無視しては語れないことが明白なのにも関わらず、アカデミズムにはこれを抑える方法論が(金も、だが)ない。串間氏の資材をなげうった活動こそ、現代思想などに数倍するリアリティと実効性を持った、現代ソノモノの考察なのである。TINAMIXのスポンサーさん、 なぜ東浩紀などでなく、串間努に金を出さないかね。

 夕食、ちょっと凝ったものいくつか。鳥挽き肉の揚げ団子(すりおろしたツクネ芋を衣代わりにする)、カボチャと鳥モツの蒸しものなど。テレビで『知ってるつもり?』のよど号事件検証を見る。ハイジャック犯たちの声明文、“われわれは明日のジョーである”は今、聞くとだいぶ恥ずかしいよな。“僕はシンジくんなんだ”というのと同じだよなあ。それからマグマ大使(せっかく買ったんだから)でピドラの回。ゴアって、まるでジャイアンですな。

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