裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

29日

水曜日

ミゼラブル神代も聞かず竜田川

「面目ないてんで井戸に身を投げた」「そりゃあ噫無情な話だ」。入院初日でなかなか寝付けず、ウトウトしてるうち朝6時の起床時間。私は朝は何もすることがないのだが、それでもみんなと同じく起こされる。6時に起こしておいて朝食が8時てのもひどいが、ゼイタクを言うべからず。朝食はアツアゲの煮物、ワカメ味噌汁、小魚佃煮。昨日までの日記を井上デザインにメール。あと『アニメージュ』にアイアンジャイアント応援原稿。抗生物質のアレルギーテストで注射4本打たれる。

 9時、教授回診。もう『白い巨塔』そのままに、総勢十数人のお医者サンたちが外科部長の今給黎(いまきいれ、と読む)教授の後ろにくっついてゾロゾロ。それぞれの患者の執刀医の先生がベッドの前でレントゲン写真を手に、ひざまずかんばかりにして説明する。私のところでは、今給黎センセイ、左足の方ばかり面白がって(?)見て、“親指にタコがないねえ”などと興味深そうにいじっていた。隣のベッドのお爺さんは、どうも若い担当医の診断があやふやだったらしく、教授、ベテランの先生に“君、いっぺん診てあげてよ”と言う。若い先生は冷や汗ものであろう。

 昼はもう春爛漫という天気で、ポカポカ暖かく、よく眠れる。地下の売店でお茶とT字帯を買う。T字帯は手術後に使うもので、患者負担。昼食12時半。パン二ケ、大豆とハム煮物、コーンクリームコロッケ、ホタテフライ、サラダ、ブリック牛乳。いかにも栄養士のたてた献立という感じ。看護婦さんに足の毛を剃ってもらう。手術のときに邪魔にならないためだが、私はそんなに毛深くないのですぐ済む。途中で看護婦さんに用事が入ったので、半分は自分で剃るが、慣れないので数ケ所傷をつけてしまい、後で恥ずかしかった。看護婦さんは若い子で、
「カラサワさんてお仕事なんなんですかあ」
 と訊く。
「ものを書いてるんですがね」
「ああ、やっぱりぃ。サラリーマンじゃないなあ、と思ってたんですよぉ」
「サラリーマンにしちゃ怪しげすぎる、と思っていたんだろう」
「ええー、それは私の口からは言えません」
 言ってるも同然(笑)。

『恐怖の臨界』、前の『モンスター・ショー』がホラーマニアのオタク的研究から出発してポストモダンに行き着く内容なのに対し、こちらはカルチュラル・スタディーズの方法論者たちが、最初からポスト構造主義的見地でホラーを読み解く内容。いわば、上から下々の世界に降りてくるという姿勢。当然ながらその分、ホラーファンには物足りない。翻訳も生硬で読みにくい。とはいえ、随所にナルホド、と膝を叩かせる視点が出てくる。
「カンフー映画やソープオペラや、ホラーを理解するのも、ある一定の言語運用能力が必要なのだ。このレベルの解読によって、ある特定の受け手が、たとえばイデオロギー的には対立するテキストを楽しめるのはなぜなのかを説明できるだけではなく、なぜ別のグループには理解不能なものにあるグループが楽しみをみいだすのかをも説明できることになる。それはある特定の人々が、なぜほかの人々の文化的活動にとってパニックの原因や恩着せがましいものとなるのかを部分的に説明してくれる」
 例えば東浩紀グループのアニメ評論が、多くの純粋アニメオタクたちにとっていまいちピンとこず、それどころかどこか押し付けがましくて腹立たしい感じを与えるのも、東氏たちにこの言語運用能力が欠けていることが原因なのであろう。

「これらの批評家たちは、一般的に使用される文化的コードによってホラー・テキストを論じようとして失敗したり、それらを“ハイ・カルチャー”にまで高めようと試みたりすることによってしばしば妥当性を失ってしまう」
 著者はその例として、フランケンシュタインや狼男の映画をフェリーニ映画を批評する文脈で読み解こうとし、結局『サテリコン』こそ最高のホラー、というトンチンカンな結論に達してしまったR・H・W・ディラードの著書を例にあげている。日本のアニメや特撮文化批評における同系統な連中に腹立たしさを覚えていたものだが、事情はアチラ(この本は英国製)でも同じらしい。大衆文化はそれが歴史的・社会的文脈の中で果たす機能の面から研究されるべきなのにもかかわらず、ゲイジュツ作品としてこれらを評価しようと、権威的アプローチをくりかえす評論家たちに、著者のジャンコヴィックは皮肉な視線を浴びせている。

 3時ころ、やはり病院食ばかりではおなかが空き、売店でセンベイを買ってきてボリボリかじる。海拓舎のFくん見舞い。電池とテレカ(通信用)くれる。ゲラを病院に送ってくれるように指示。入れ替わりに学陽書房Hくん見舞い。イチゴ持ってきてくれた。なんとか5月発売はズラしたくないと話す。明日の手術のときに他の患者とマチガエて肝臓を取ったり腕を切り落としたりしてしまわないよう、識別の札を腕につけられる。マルタになった気分だ。

 6時半、K子来院。Tシャツやパンツの替え。彼女一人の食生活はなかなか悲惨らしい。誰か誘ってやってくれ。出版社関係のFAXや手紙類に返事書き、手渡す。問題は明日の手術後、午後にどれだけ動けるか、ということだが。7時、夕食。大根と牛肉コマギレの煮物、焼き魚、おひたし。味噌汁がないのがちと寂しいが、焼き魚の味は結構。食べて日記つけ、今日は睡眠不足気味なので、すぐに寝る。明日は朝から 手術。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa