17日
金曜日
サイテー軍艦
東宝特撮シリーズ。朝7時半起き。8時朝食。花粉症にてクサメ連発。十年前にはアレルギーなんてケほどもない体だったのだが、年をとって免疫力が落ちた。午前中に、K子の実録怪奇ものの原作、二本書く。明治三十年代の怪盗“変化の仁吉”事件(役者あがりの泥棒が浅草水天宮の姫神に化け、マグネシウムを使った“特殊効果”で人を惑わす)は新潮社の『日の出』昭和十一年新年号付録『探偵捕物実話集』からネタをとったが、刑事が連夜現れる女神と会話し、あまつさえその色気に参る、などは出来すぎた映画みたいな話であって、ホンマかいな、という感じ。まあ、実際に体験した刑事の談話なのでまるきりウソでもなかろうが。実話はいろいろと複雑な人間模様がからむが、マンガのことなので極端に単純な話になおす。
K子に弁当。冷凍のホタテをもどしてインゲンと中華風の炒めものにしてオカズ。自分は業界誌のコラム原稿一本書き上げてから、マンション一階のソバ屋でカツ丼。メシを食いながら小谷野敦『江戸幻想批判』を読んでいたら止まらなくなり、以前、ざっと目を通したのだが、改めてじっくりと読み直す。杉浦日向子などの江戸楽園論に以前から疑問を持っていた身なので、著者の前近代幻想批判は非常に興味深く、痛快にも感じる。“浄瑠璃や歌舞伎を知らない、馬琴や黙阿弥を読まない、落語を聴かない、そういう連中に先導されて賑わっているのが<江戸ブーム>なのだから、お寒い話である”という捨てゼリフはこの著者の真骨頂だろう。
ただ、“論争の書”だそうだからある程度タメに書かれているのかもしれないが、著者の前近代幻想批判の論述のたびに出てくる、フェミニズム欠如の指摘、階級的視点欠如の指摘、儒教イデオロギー批判などが、しまいの方になってくると何やら息苦しさまで覚えるほどの圧迫感をこちらに与えることが気になった。まさに、著者が身を置く現代のアカデミズム業界がそのような“近代の正当”の上に立脚せざるを得ない状況があるからこそ、そこから自由な前近代はパラダイスだった、などという幻想が生まれ出てくるのだよ(小谷野自身は、“正しいこと”でしか自分のアイデンティティを確保できないそこらのつまらぬ連中とは一線を画しているが)。
新宿へ行き、沖縄行きのための金を下ろし、明日朝用のサンドイッチを買う。帰りにタクシーに乗ったら、ラジオ『やる気まんまん』で“そっくりショー”の話題が出ていた。小野栄一さんって知ってる? という吉田照美のフリに小俣アナが“えーっと、顔の小さい人で、目尻が下がって、あれ、佐山俊二さんと混同してるかな?”などと言っていた。おいおい、私がこの番組のスタジオに足を踏み入れた最初は、ゲストの小野栄一を連れていったときなんだぞ。まあ、このとき既に伯父は事業の失敗で鬱状態で、ラジオでなんかとてもしゃべれない、と言いだし、私とマネージャーの二人で引きずっていくのにえらい苦労をしたものだが。なお、この話題が出たのは視聴者からのお手紙コーナーで、自分の伯父は昔そっくりショーで勝新太郎のそっくりさんで出て準優勝し、それからバラエティーショーなどで人気が出てタレントに転向、家業もやめて、片端から女を作って伯母とも離婚、そのうち人気も落ちてどこへいったやら、というのが来たからなのだった。この人物、確かに一時は伯父のオノプロダクションに所属した看板タレントの一人で、香港だかどこだかに招かれてクンフーアクション映画にまで出演(もちろん座頭市役で)するほどの人気者だった。後に独立し、最後は東北のキャバレーのショーだったかに出演中、心臓発作で倒れ、病院に運ばれる途中“まだショーは終わっていない、幕を降ろすな!”と叫んで息を引き取った。ホンモノの死よりずっとドラマチックである。これで一本、小説が書けるな。
夕方、やたら肩が凝り、マッサージに行こうかな、とは思うが仕事で行けず。ごまかしごまかし原稿書く。インターネットの調子悪く、すぐフリーズ。いったいどうしたか。連休あけに見てもらわないといけない。8時半、船山。K子と待合せ。金曜だけあって、8時くらいからの予約がいっぱいだとか。シッタカの煮付けと黄身寿司が前菜で、刺身、牛肉とタンの石焼き、春の煮物、ハマグリ天麩羅、炊き込みご飯、味噌汁。味噌汁はボタンエビの頭をムリョ五十尾分くらい茹でてとったダシで作る。作る段階から見ていると、ひいたダシ自体がもうエビのジュースといった感じで、その味の濃厚さ、比べるものもなし。ひとすすりすすって恍惚となる。