裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

13日

月曜日

ラファエロ切れろは芸者のときにいう言葉

 タイトルに意味はない。朝7時半起き。8時朝食、昨日買い物し忘れて何も材料がない。棚の奥にコンソメスープの素があったのでスープスパゲッティ。まだ日記ソフト調子悪し。平塚くんにメールして入れてもらう。原稿一本、薬局新聞。それから光文社のもの7枚仕上げ、1時、プリントアウトしたもの持って、ヒゲも剃らずに時間割で打ち合わせ。完成のメドのみ、Hさんとツメる。

 昼は東急ハンズ前の立食いソバ屋でザル。春菊天つけて。帰って風呂浴びて、電話数本。せわしなさに目が回りそう。例の自殺未遂の子は命をとりとめた模様。みんなホッとしているようだが、私は少なくともこういうことで自己主張する子というのを許容できない。世間にむちゃくちゃに甘えている。死にきれもしないのに自殺するなどということを恥と思え。あまつさえ家族にも迷惑をかけて、死んでお詫びをしろ、と言いたくなる。何か変だが。

 3時、家を出て上野へ向かう。山手線車中で石川准『人はなぜ認められたいのか』を読む。全盲の社会学者によるエヴァンゲリオン分析が、実際にその作品を“見た”人のとらえかたと比較して、なかなか面白かった。岡田斗司夫も東浩紀も竹熊健太郎も永瀬唯も、否定にしろ肯定にしろやはりそこに“アニメとしての出来”というファクターを導入せざるを得ないわけだからねえ。ただし、社会、文化、国家という共同体の枠組みより上に個人のアイデンティティを無条件に置き、マイノリティとしての個々の人格を尊重していくことが何より大事、という著者の優等生的理論はちと空虚であるとしか感じられない。個人が何にも頼らずに己れの実存を証明することがいかに困難か。逆に言うと、社会とか国家とか権威とかというシステムは、その証明を代替する役割を担って作られたのではないか? 今、問われるべきなのはそのシステムの稼働性なのである。

 4時に着いてから、一時間、時刻を間違えていたのに気づく。あちこちほっつき歩いて時間をつぶし、5時、快楽亭と合流。大人のオモチャショップ『アラジン』の社長と挨拶し、上野店を見せてもらう。店内は狭いが、品揃えはさすが。この社長、もとは子供のオモチャ屋の小僧から出発し、ディズニーショップなどをいち早く日本でも普及させた人ながら、小子化問題などで企業の先行きに見切りをつけ、大人のオモチャへと方向を変えた人。これからの大人のオモチャは、老人問題、身障者問題などと結びついて、社会全体が考えていかねばならないものとなっていく、とリキを入れて説く。この人の本を快楽亭と一緒にプロデュースしようという話。

 駒形橋近くのちゃんこ鍋屋に、K子も呼んで飲みながら話す。ここのちゃんこ屋は快楽亭が発見した隠れた名店で、もと力士の主人が経営しているが、その主人というのが、腹などは私の方がまだあるんじゃないか、というくらいのソップ型。本当に力士だったのか? と首をかしげるほど。ただし、ちゃんこの味は抜群。K子、むかし東京スポーツでアラジンのグッズ紹介のカットなどをアルバイトで描いていたこともあり、社長とも話がはずんで少しハイ気味。10時近くまで飲む。帰り、四谷三丁目のセイフーで明日の朝食の材料など買い込み、11時帰宅。

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