裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

21日

木曜日

剖検ダン吉

 この南方の孤島に漂着した少年の死体を解剖した結果……。朝7時45分起床。ミクシィ、日記つけなどして9時朝食。サクランボ、アスパラガスのスープ(美味くて美味くて)。『猫三味線』の予算割り出し。東京での紙芝居撮影のダンドリ作り如何にかかっているが、これは佳声先生の都合で、こっちでどうなるものでもない。それと東京から連れていく役者、スタッフのアゴアシマクラが案外かかりますねえ。

『バロン』の宣伝で来日したテリー・ギリアムが
「一番苦労したのは?」
 との質問に
「弁当だよ、弁当! あいつらはよく食うんだよ!」
 とわめいていて、いかにもモンティ・パイソン的ギャグだと思っていたんだが、半ば本気だったのかも、と思えてきた。これもいまイマジカの方で算段してくれている が、とにかくしっかりした予定を組んでおかないと。

 12時、タクシーで渋谷道玄坂、のつもりが、運転手さん道をよく知らず、NHK前から歩く。渋東シネタワーにて『スターウォーズ エピソード3・シスの復讐』観る。二見本アガリのご褒美と、夕方からの対談のお題なので。前半退屈、中盤混乱、後半部分で大笑い。とはいえ円環を力わざで完結させたルーカスにはやはり敬服。

 シリーズ完結ということで世間では改めて旧三部作を観直したという人が多かったようで、やはり『帝国の逆襲』の評価が高いようだが、私はやっぱり『エピソード4/ニューホープ』リスペクター。というか、エピソードいくつとかは本当は呼びたくない。『スターウォーズ』と呼べるのはあれだけ、と未だに思っている原理主義者で ある(世界中にもかなりの数、いるらしい)。

『帝国の逆襲』は単に出来がいい映画にすぎない。主人公の出生に深いドラマがあることがわかって、ヒロインの愛情が意外な人物に向けられて、その意外な人物の自己犠牲がカッコよくて、哲学を語る隠者がテーマに奥行きを与えていれば、そりゃ映画 としての質は上がるに決まってる(監督がアーヴィン・カシュナーだし)。

 でもさ、『スターウォーズ』って、そういうことを評価する映画じゃなかったはずでしょ。それまでの重くて暗いアメリカン・ニューシネマの覆いをひっぺがして、
「内容なんかなくていい。活劇の連続こそが映画の原点だ!」
 と高らかに宣言したのがあの映画だったんでしょ。新しいことなんか、誰も望んでいなかった。あの映画は技術のみが当時の最先端で、それ以外のベクトルは見事に後ろを向いていた。それが確信犯、意識的だったからこそ、当時の若手映画作家たちがバカにして使わなくなっていた冒頭の20世紀フォックスのファンファーレをわざわ ざフルバージョンで復活させたわけで。

 ダース・ベイダーが悪いヤツであることに意味なんかいらなかった。お姫さまを救出するのに、それがヒーローの役割だから、以上のモチベーションはいらなかった。ラストの凶暴なまでのハッピーエンド(壊れたR2は修理されるし、オビ・ワンは肉体は消滅してもちゃんと生きてるし)もあそこまで徹底されると感動だった。薄っぺ らだって人間が描けていなくたって、カッコよければそれでいいのであった。

 だいたい、悪役というのは現実世界では自分こそ正しいと思っているわけで、シンボルの兵器に『死の星』とかつけやしねえだろうに、堂々とデス・スター、デス・スターと連呼するところのナンセンスがたまらなかった。そこらへんを小野耕世だの石上三登志だのといった好き者評論家が大評価する一方で、荻昌弘あたりの“良識”評論家たちがにがーい顔をしていたのが痛快だった。荻さんはとにかくこの映画がキラ イで、日本でいよいよ公開される、というときに
「もうアメリカじゃブームは過ぎてる。恐竜は死んだのだ。日本人はあまり騒ぐな」
 などと発言していたし、ズービン・メータ演奏の『スターウォーズ』のレコード試聴会で
「こんな映画より『海流の中の島々』を観ろ」
 などと主催者が青くなるようなことを言っていた。淀長さんは活劇大好きな人だったが、
「あれだけ活躍したロボットたちが最後に電気を切られて動きを止める、その“面白うてやがて悲しき”姿がこの映画の真のテーマだ」
 などと“本当にこのオジサン、観たのか?” と思うようなことを書いていた。

 しかし、われわれにとっては、旧来の映画評論家たちがどこをどう褒めたらいいのかわからなくて右往左往する姿がとにかく痛快だったことも事実だ。そして、それは深刻ぶったアメリカン・ニューシネマ(実は私はそれも好きだったりするのだが、それはまた別として)全盛時代への抵抗という、権威への挑戦、映画を芸術の域に閉じ こめ一部の教養階級のなぐさみものにまつりあげる風潮への“反逆”だった。

 痛快なものの最良の褒め言葉は“痛快だ!”であり、作品の中の片言隻句、枝葉末 節をつかまえてエラそうに
「この監督の意図するところは」
 などと“人より深いところを見ているぞ”自慢に終始するカイエ・デュ・シネマ的 蓮見重彦的映画の見方に対する壮大なイヤミだったのだ。

 そう、『スターウォーズ』は実は世界最大に金をかけた、宇宙的規模のイヤミ、であったのである。それが、興行的には歴史的大ヒットを記録したけれどもアカデミー賞をはじめとする権威からは無視されて、ルーカスはやや、不満だったようだ。

 人間、金を手に入れると、次は権威が欲しくなる。『帝国の逆襲』でちょっと裏切られた気になったのは、主人公の内面に奥行きをつけ、ハッピーエンドを拒否したことだった。日和ったなルーカス、という感じだった。でも、まだ救いだったのは次の『ジェダイの復讐』が、ちょいと深刻ぶった場面もありながら基本はバカ映画のハッピーエンド、に戻っていたことで、私の中で、これでルーカスが力つきてくれればとにもかくにも目出度し目出度し、であった。

 それが、エピソード1で復活を果たし、あるまいことかそれまでの三部作に手を入れて、ラストなどを改変してしまった! あのイウォーク盆踊りをカットしてしまっ た!
「オレの『スターウォーズ』に手を出すなあ」
 である。映画は、いや映画ばかりでない、あらゆる創作物はそれを世に問うた時点で、創作者の私有物ではなく、それを享受し支持したファンたちとの共同作品になるのだ。いくらクリエイターとはいえ、それを勝手にいじくる権利などはない。やるなら別バージョンで新作を作ればいいのである。こっちはそんなクソ、観ないだけの話だ。仕事だから1も2も観たけれど(もともと私はスターウォーズを人より先に見るためにこの業界に入ろうと思ったのではなかったか。嗚呼)クソ以外の何ものでもな かった。

 で、エピソード3である。映画は相変わらずどうしようもない。ジェダイナイツはあんな露骨なパルパティンの正体ひとつ見抜けぬ無能揃いだし、はっきり言えば民衆の声を無視するエリート集団と化しており、あれならアナキンでなくともシスの方を選びたくなるだろう。CGは動きすぎで目が回るし、ナタリー・ポートマンはデカ顔面のブスだし、パルパティンの野心がセリフで説明されるだけでさっぱり伝わってこないし。唯一、演技的に“観ているだけで”満足できるクリストファー・リーはアッ ケなくやられてしまうし。

 しかし、私がこの映画でニヤつくのはとにかく、
「全てはエピソード4につながる」
 ということだろう。野心的、挑戦的、かつイヤミ的過ぎたが故に、その後のスターウォーズシリーズから浮いてしまった感のあるエピソード4をどう、この“重厚な”ものになってしまったシリーズの中に再定着させるか。ルーカスが己の尻拭いに四苦八苦している姿がとにかく浮かび、その手の伏線に気がつくたびにニヤニヤしてしまう。なによりダース・ベイダーとアナキンの身長差をどう埋めるのさ、と思っていた ら、ああいう手、いや足を使うとは。大笑いでありました。

 ラストでモフ・ターキンまでピーター・カッシングのそっくりさんを使って出してきたときには思わず拍手しちゃった。そして、最後をどのシーンで〆るのかと思っていたら、なんとタトゥーインのあの二つの太陽。そうか、あの二つの太陽をルークと レイアのアナロジーにしたてたか。

 思えばエピソード4で私が最も好きだったシーンは、あの二重太陽をバックに、宇宙飛行士の夢絶たれたルークが、アニメのキャラみたいな演技で石ころを蹴る、あのシーンだった。鬱屈を表現するのに石ころをけっ飛ばすという、定番中の定番という演出、お偉い評論家さんたちには絶対評価されない演出をあえてやらかしていたあの 頃のルーカスは、私の中のヒーロー、とってもカッコいい反逆児だった。

 功成り名遂げた反逆児はやがて権威主義者になる。いまや『スターウォーズ』は権威だ。このシリーズは純真な少年・アナキンの愛と転落の物語だが、その姿はジョー ジ・ルーカスそのものに重ね合わされる。

 しかし、歴史は繰り返す。いつか、権威には反逆者が現れる。厳然とそびえるルーカス帝国に刃を向けるもの。いま、どこかの星で二つの太陽の前で石ころを蹴っている彼に、心からの言葉をかけてやりたい。
「May the Force be with you!」

 出て3時15分、そのまま対談場所の時間割に直行。岡田さん例により遅れるということで、編集のK女史とちょっと話し込む。30分遅れで『創』対談。お題は“夏のSF映画”。しかし、さっき観たばかりの映画というのは語りにくい。よかった部分、ダメだった部分、いろんな感想の断片がまだ脳内を浮遊していて、パズルのピースがカチリとハマっていない。終わったあと、ややアケスケな話も出る。岡田さんKさんに向かって曰く、
「ね、悪い子の話の方がいい子の話よりずっと面白いでしょ?」
 呵々。

 帰宅、アサ芸KさんからゲラFAX。イマジカエンタのSさん、昨日の話し合いでは予算等の話は2、3日待ってくれと言っていたのに、明日にでもデータが欲しいと 言ってくる。テキパキ進むのは好ましいとはいえ、あせる。

 いろいろメール。関口誠人さんから『ダメな人のための名言集』見た、よかったとメール来たが私にはまだ届かず。留守中に来て再送になってしまっている。その幻冬舎のYさん(とても可愛い)とメール、打ち上げを某日に指定したら、
「その日は井上デザインさんのお誕生日なので」
 とのこと。井上くんは大丈夫と言ったらしいが、
「でも、せっかくの誕生日は奥様と過ごさせてあげたい」
 というのでYさんの方でNGにしたとか。Yさん(とても優しい)である。もっとも井上くんの奥さんは売れっ子ライターで始終飛び回っているから、きっと平日の夜 は家にいない。

 Fさんから電話、店を残念ながら閉めることにしたとのこと。やはりなあ。うまく行く件あればダメになる件あり、人生いろいろ。鶴岡から電話、そのいろいろな状況の推移を面白がっている。確かにいま、私の周囲の動きは傍目には本当に面白いかも知れない。本人はただアタフタしているだけのような印象だが、やはり後で振り返っ て一番面白い体験をしているのは私なんだろうな。

 今日はパイデザが来宅するのでウチでメシと思っていたのだが、I川さんから今後の打ち合わせ兼ねて一杯のお誘い。ちょっとおめでたい進展が某件であったのでその件で。こっちもそれについては話したい気分なので中野駅で9時半、待ち合わせ。近くの居酒屋でビールで乾杯。この懸案、去年の暮れにある件でミスして、落ち込んで 再起を決心してからのものだった。

 不安と悲観論の中で始めたことの結果が、ちらりと見えてきた。まだ萌芽でしかないが、先行きの希望を大きく広げる小さな芽が、7ヶ月かけてやっと葺いてきた。よくもここまで来たりつるかな、である。10時半までそのことでオダをあげ、I川さん連れて家に。パイデザ夫妻と合流してアナゴ、野菜天ぷらなどで飯。ニュースでロ ンドンのテロ。しかし市民みな余裕シャクシャク。

 母、ちょっとI川さんに専門分野で相談を受けていた。12時半まで。部屋で『新潮45』読む。マイミク偽史学者さん(原田実さん)のトンデモ本大賞レポ。レポというより副島隆彦小論だが、さすがの内容、含蓄に富む名文。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa