裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

6日

水曜日

マイミクに善処いたします

 あなたのマイミクシィ承認については……。朝8時起床。朝食は9時。スイカ、アスパラガスの缶詰のスープ。服薬いろいろ。前は目の疲れがパソコンの使いすぎでひどかったのだが、明目仙という錠剤でいまは目薬をほとんど使わないほどになっている。成分を見ると“鯉の胆、ブルーベリーエキス、マムシの胆、珍珠(真珠)、メグスリノキ、八ツ目鰻濃縮末……”など、およそ目に効くとされているものを節操なく調合した、という感じだが、効くものは効くらしい。値段が高いのが欠点。

 朝刊に永島慎二死去(6月11日)の報あり。67歳。『フーテン』『漫画家残酷物語』『そのばしのぎの犯罪』など、この人の作品には強烈な魔力というか麻薬性があり、一旦とらえられてしまうと、いわゆる社会的成功とか大衆への迎合とかというものを忌み嫌うようになる副作用があった。私は最初に読んだこの人の作品が梶原一騎原作のスパイもの『挑戦者AAA』だったので(ダイヤモンド以外ナンでもかみ砕く電磁入れ歯、という凄い秘密兵器が出てきた。もちろん老人のスパイが使うのであ る)まだ中毒性は軽かったが。

 フーテン教の教祖とも言うべき人だったが、いろいろと聞いたところでは、その裏では案外きちんと生活設計を立て、ヤクザだったか沖仲士だったかの大物の伝記漫画をやたら高額な原稿料で描いて家を建てたということだった。そこらへん、ガロ系のつげ義春に比べ、やはりCOM系の人というのは手塚治虫のお仕込み(漫画家で食えなくなったときのための生活手段は確保しておくことというのが常に手塚治虫が言っていたことだという)があるなという感じであり、またカルトになりきれないところ でもあったろう。

 朝日記つけ、いろいろ連絡。札幌公演はまだ本決まりにならず。今週中に決定だとか。アップされた『社会派くん』に訂正個所あり、その旨メール。スケマネはひどい風邪らしい。本当に彼女が倒れたら、私はともかく、各出版社パニックになるのでは ないか?

 曇天の中、11時出勤。昼食は茶漬け。薔薇族コラムで使用しようと思っていた本がどうしても見つからず。FRIDAYコラム一本書き上げ、メール。それからフィギュア王原稿。これも3時までに書いてメール。ふうと息をついて、永島慎二のことを思い、ふと読みかけだった武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(文藝 春秋)を手にとるが、読み出してとまらなくなってしまう。

 永島と親交のあったつげ義春のことを以前赤塚が
「彼は芸術家。ボクはプロだ」
 と評していたことがあったが、まさにこれはプロによるプロの評伝。思えばまだ5歳のとき、アシの手術後のリハビリに通っていた整体(というものでもない、揉み療治のお爺さんの家)の玄関においてあった少年サンデーで、初めて『おそ松くん』にめぐりあったときの衝撃と興奮はいまだに覚えている。『チビ太の移動式歯医者』の巻だった。そのあまりの面白さに、ダダをこねて家に持って帰って二十回は読み返したろう。それまでの藤子藤雄や森田拳次のギャグとはあきらかに違った、新しいナン センスがそこにはあった。それは子供に媚びているのでなく、
「どうだ、この面白さがわかるか」
 という、真っ向からの挑戦だった。子供を子供扱いせず、対等に勝負をしてきていた。ここに立ち帰らねばな、と思う。

 読者を神様として大事にし、わかりやすさにつとめることがプロの第一条件なのだが、それは往々にして仕事の質を下げてしまうことの言い訳になっていく。自戒せねばならないことである。それにしても、プロであり続けることを拒否した永島は結局漫画を捨て(晩年は水彩画教室をやっていた)、才能が枯渇してなおプロであり続けることを選んだ赤塚はいまや眠り続けることで伝説となっている。50を過ぎてから の赤塚の仕事にははっきり言ってかつてのファン全てが
「先生、もう描かないでください」
 と心の中で思っていただろう。しかし、われわれはまた、赤塚不二夫のいない世界などに生きていたくないのだ。赤塚は自らの意識を絶つことで、読者に“応えた”。神秘的な感じすらする。

 読み終えてざっとした感想を日記にアップ、二見原稿にかかる。途中で週プレのMくんから電話、ゲラをこれから送るとの件。一カ所、ちょっと評論家ぽいモノイイのところがあったのだが、
「ここはわかりにくいので表現を改めてください」
 と指示あり。さっきの思いが反復されて、わかりやすさと質の両立は難しいなあ、と苦笑。Mくんの案をそのまま採用。手直ししてもらう。

 二見原稿二本、編集Yくんとおぐりゆかにメール。10時、代々木駅でK子と待ち合わせ。フランス料理『煮込み屋』。エスカルゴと肉団子のトマトソース煮。それとチーズ。肉団子はあっさりしていて、ここの料理にしては量もまずまず食べきれる分量、なかなかよし。すでにK子はここの主の如くふるまい、お客も“あ、ソルボンヌ先生だ”的な反応。会話もはずむ。K子はもっといたかったらしいが、明日のこともあり、12時で出る。帰宅してメールチェック、連絡待っているところでまだ来ないところあり、ちと心配。

※『赤塚不二夫のことを書いたのだ!』評
武居俊樹・著。『レッツラ・ゴン』の読者にはクソ武居虫記者、でおなじみ。

 かつての天才漫画家・赤塚不二夫はいま、自分の誕生日もわからず、病院のベッドで二年以上、昏睡状態にある。そんなショッキングな描写(前々から言われていたが公式に語られたのはこれが初めてだ)で始まる本書は、9年間担当を勤めた著者が、赤塚不二夫最盛期に、文字通り一心同体で仕事と遊びにつきあってきたエピソードをたっぷり語った後、こう締めくくられる。
「赤塚不二夫。生涯漫画執筆枚数八万枚。 もう執筆しないとしてだ」
 これをしてハードボイルド描写、と言う。
 赤塚に惚れ込み、その天才性に惹かれ、その幼児性に苦笑しつつ、徹底して彼を愛しながら、その愛を紡いだ時代と場所は、笑いと馬鹿騒ぎにまぎれながらも、漫画雑誌黄金時代の、小学館/講談社という二大出版社の水面下における熾烈な闘いのまっただ中であった。サンデー独占だった赤塚を抜いてマガジンで『天才バカボン』を立ち上げられた著者は、編集長の内田勝、担当の五十嵐記者に“まいった”と負けを認めながらも、やがて赤塚を焚きつけ、人気絶頂期のバカボンをサンデーに引き抜くという大胆なことを行う。五十嵐とは同じ担当として、いつも一緒に飲み、遊びながらだ。これがプロの世界。
 赤塚もまた、友達がいなければ寂しくていられない性格であっても、バカボンのス タッフ会議でこう発言する。
「今、マガジンのギャグって、森田拳次の『丸出だめ夫』じゃない。あの程度のものが通用するのって、良くないと思うんだ。森拳は、オレの友達だよ。だけど、あの漫画ぶっ飛ばしたいの」
 自分の才能、自分の人気、自分の努力、それらひっくるめて自分の存在価値をかけての勝負。この意識があったから、赤塚はギャグの神様になれた。
 ヘンなことを言うようだが、才能あるヤツとか、天才とかはこの業界、ゴロゴロしている。最初からある程度のゲタを履いていなければそもそも勝負の土俵に上がれない。だからそんなことは言わずもがな、だ。そんなものは二の次として、親友を蹴落としてまでギャグのトップをとろうというこの勝負根性。これが赤塚を覇者にした。
 もちろん、運もあってのことだろう。しかし、運を引きつけることの出来る人間と出来ない人間の差は如実である。“みんな仲良し”からは何も生まれてこない。全ては少年マンガの黄金時代の高揚感のなせるわざだとしても、読んでアドレナリンが湧いてくるエピソードだ。
 そして、著者は気づいているのかいないのか、気づいてわざと書いていないのかも知れないが、その大高揚の中で著者を含めた雑誌社が、赤塚をヒートさせ、エキサイトさせ、スタンピートさせたことが30代で彼を燃え尽きさせ、“長い晩年”を送らせた挙げ句、冒頭に記された状態にしてしまったのではないか。
 そこへの言及は本書にはない。なくてもかまわないと著者は思っているのかもしれない。私たち読者も、そう思わざるを得ない。不思議なことに人間は、万全に生き、終わりをまっとうした人の一生にロマンや夢を感じない。ある一時期にエクスプロージョンし、人生を燃やし尽くした一生の方に、絶対に魅力を感じる。
 一人の伝説の天才を、白い灰になるまで使い尽くしたことを、著者は後悔しない。少なくとも、それを表明しようとはしない。短かった全盛期を燃やし尽くし、いまは 長い眠りを続けている友の姿をじっと見つめているだけだ。
 これをハードボイルド、という。
 ひとつ、不満。“書いたのだ!”はマガジンの五十嵐氏が書いた本につけるべきタイトル。武居さんなら“書いたニャロメ!”“書いたのココロ”ではないかね、文藝 春秋さん?

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