18日
日曜日
がまがえるオランダ人
カガミデアセデル。朝、7時半起床。朝食の用意しながらハリケンジャー。夏らしく水着(敵幹部)の出るお約束。怪人チューピッドの矢に当たってヒロイン七海に惚れてしまったクワガライジャーが、鷹介と吼太に“どうすればいいんだろう”と相談し、“かわいい動物を贈ったら?”という二人のアドバイスに従って、デートに“可愛いだろ?”と、牛をひいてくる、というギャグ。ギャグとしては大したことはないが、実際に本物の牛を用意して映像として成立させてしまうところがいい。牛一頭の借り賃っていくらだろう。人気番組ならでは出来ぬことだが、本家でこういうことをやられると、ギャグ入れることで勝負するしかない自主制作ビデオはつらいだろうと思う。
朝食、ミニトマトとサツマイモ。果物は当然二十世紀。食べ終わってメールなどをチェックする。外は雨。引き続き秋の台風シーズンに突入か。母から電話、これまでは引退の9月が待ち遠しくて仕方ない、長いわねえと言っていたが、すぐ眼前でその準備に大わらわらしい。すでにお得意さまには挨拶状も刷り終えて、やることはやって、来週にもアメリカの友人が来日するので、ニューヨーク移住の準備をはじめるそ うである。
読売新聞書評欄、長谷川清美『叩かれる女たち』を大原まり子氏が書評し、当該書第一章で取り上げられているオルタカルチャー裁判を“小谷真理が夫の巽孝之のペンネームであり、本人は男性であるという記述をされた”という要約で紹介。この新聞の書評欄は、一概に言って一般読書人にはとっつきにくい人文系の本を、そういう本に興味のある人たちにはとうに知られきった頃にタイミングを外して、一般読者には何のことやらよくわからない身内コトバの解説で紹介する、という特色を有しているが、この本の評も文章がブツ切れで、あの事件だの現在のSF界のジェンダー問題意識の高まり(ホントウに高まっているのか、という疑問はさておいて)だのについて知識のない人には、いったいどこらあたりが読むポイントなんだか、さっぱりつかめぬ、主語の在処も判然とせぬ悪文で紹介している。なんで作家と名乗るものがこうまで質の低い文章を、と首をひねり、何度か意味をとるために読み返してみるうちに、どうもオルタ裁判のところでワルモノとして山形浩生という実名を出したかったが故に、全体のバランスを著しく崩し、後の章の紹介を端折らなくてはいけなくなってしまったらしく推量できた。うらみは深し、といったところである。裁判の結果がどうだろうとテクスチュアル・ハラスメントがどういう意味だろうといいけれど、そのことの強調に気を取られてこんなひどい文章を書くようでは、そもそも物書きとして問題ではないかと思う。
昼は金成さんからもらった梅干しと、あのつさんからもらった茄子を薄切りにして塩で揉み、ショウガとシソの千切りを混ぜて速成かくや。夏っぽくさっぱりとした昼餉。雨の晴れ間をぬって東急ハンズに行き、金槌を買ってくる(一本あったのをK子が仕事場に持っていってしまった)。あのつさんから貰ったクルミを割るため。まな板の上に新聞紙を何重にも敷き、その上でクルミの殻を叩き割るという作業を開始したが……いや、驚いた。三角の金属片ひとつで簡単に割れる、最近の軟弱なクルミと違い、野生のこれの堅いこと堅いこと。軽くゴンゴンと叩いてもヒビひとつ入らず、エイと力を込めて金槌を振り下ろすとグシャッとつぶれて粉々になってしまう。力のいれ具合が実に難しい。しかも、商品のクルミに比べて、中身の量の少ないこと。とはいえ、新聞紙に脂がにじむほど、その実の中身は濃く、素朴ながら滋味にあふれている。なんとか、ほぼひと袋の殻を割り、小鉢に三分の二くらいたまったそれをしみじみと眺める。
外出し、青山のナチュラルハウス、紀ノ国屋で買い物。帰宅してちょっと資料をいくつか読み込む。今日になって気がついたが、メタローグという出版社から刊行されている雑誌『レコレコ』から、神保町ドキュメントの取材企画記事依頼がおとついの深夜、FAXされていた。神保町に行った日の晩に神保町がらみの企画が届く。西手新九郎のちょっとした暑中見舞い。その算段もぼんやりと考える。
8時、夕食の準備にかかる。もらったキュウリの梅和え、蒸し鶏と春雨の中華風サラダ、クルミを摺ってミソ、醤油、砂糖、煮きり酒とあわせて作ったクルミミソに、タコとミョウガのぶつ切りを和えたもの。それとキャベツを貝柱の缶詰の汁で蒸し煮して、汁にトロミをつけてかけたあんかけキャベツ。クルミミソは濃厚、酒の肴に最適である。ビデオでチャールズ・マンソンのドキュメントを見る。アタマのいい連中は結局、アタマの悪い(だからカリスマ性を持てる)ヤツに簡単にとらわれ支配されてしまう、という、オウムのときにも露呈した原則がここにも。アタマがいい、というのは実は実人生においては弱者である、ということの別の謂なのだ。そのことを、アタマがいい人たちは皆認識しなくてはいけないのだが、いっかな認めようとせず、従ってこのような事件は繰り返し繰り返し、何度でもどこでも、起こるのである。