裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

23日

土曜日

駒込、アバター、西日暮里

遺伝子操作で北区住人とそっくりの生物を作り出し……。

※通院 イベント出演

朝7時半起床。
洗顔して着替え、家を出て病院まで。
時間カッキリ数秒と狂わず受付に。
おかげでほぼ待たずに診察。
去年の暮れに撮ったレントゲン撮影の結果を聞く。
心臓、ほぼ健康状態に復しているとのこと。
クスリの内容を、ミリ数減らしてもらうなど、
いろいろ手を加えてもらう。
処方箋持って薬局に行き、帰宅。

朝食代わりのエッグソーセージマフィンとジュース
摂って、入浴、屈伸等のストレッチ。
ストレッチはきちんと記録つけ始める。
いきあたりばったりではいけない。

訃報コミュにジーン・シモンズ死去の報。
かなりコメントがついていたので、そんなに
ファンがいたのかと思ったら、キッスのジーン・シモンズ
かと思って驚いた人がたくさんいたのだった。
英文ならばキッスの方はGene、こっちのシモンズははJeanで
間違いようがないのだが。

代表作のところに『シーザーとクレオパトラ』(1945)
が入っていたものがあったが、この映画は主演がビビアン・リー。
シモンズはハープ弾きの少女役で、顔も一瞬しか映らぬホンの
チョイ役だった。もっとも、この映画の出演者に、後の亭主である
スチュワート・グレンジャーがいる。

そのビビアン・リーの亭主だったローレンス・オリビエの目に
とまり、『ハムレット』(1948)ではオフィーリア役に
大抜擢。はっきり言ってそんな美人とは思えなかったが、
精神に異常を来し、城の床に伏したあたりのシーンで太股が
チラリと見える、19歳のその色気は40年代の
あんちゃんたちにはもう、たまらなかったろうと想像できる。

やがてかの曲者スタンリー・キューブリック監督の『スパルタカス』
(1960)に出演、スパルタカス(カーク・ダグラス)と結ばれて
彼の子を身ごもる女奴隷役。時代の変遷を物語る色っぽいシーン
(スパルタカスの前で衣服を脱ぐ)もあるのだが、そこでは31歳の
シモンズの端正さが逆に作用して、妙に堅苦しくなってしまっていた。
アカデミー賞候補に2回もなる演技派でありながら、いまいち
女優としての華麗さに欠けるイメージがあったのは、理性が勝って
いた、そのキャラクターにあったかもしれぬ。

晩年は声優としての仕事が多く、『ハウルの動く城』のソフィー役は
訃報記事でも触れられていたが、他に『ファイナル・ファンタジー』
等にも出演していて、日本製アニメに縁が深かった。
大物俳優の晩年仕事としてのアニメ出演はもはやハリウッドでは
定番になっており、オーソン・ウェルズの遺作が『トランスフォーマー・
ザ・ムービー』というのも、あながち“落ちぶれた”というイメージ
ではなくなっていると思う。

ともあれ、『ハムレット』のイメージでもう前時代の女優、という
風に(恥ずかしながら)思っていた女優さんが、ついこのあいだまで
現役だった、ということに嬉しさと、80歳という年齢は、現代では
まだまだだろう、ということに寂しさを感じる。
黙祷。

12時、昼食、母の部屋。
カレーうどんと野菜サラダ。
うどんなどではお腹が空かないか、と、ちょっと多めの盛りに
なっている。ここらへんはダイエットにならない。
カレーうどん自体は非常に美味。
多すぎるよ、と言いながらほぼ全部平らげてしまった。

5時半、家を出て中野芸能小劇場。
某シークレットイベント。
IPPANさんのプロデュース。
同じくゲストの木原さんと挨拶、ルナのDVDをお願いする
Oさんとも挨拶。他にスタッフとしてぎじんさん、しら〜さん、
新田五郎さんなど。
ぎじんさん、うれしそうに。
「こんな高価な機器を使えるのは嬉しいなあ」
と。

銀河万丈さんなどの来場もあり。
挨拶されるが、『UFOロボ・グレンダイザー』のズリルの
声を聞いて(当時は田中崇名義)“この人はやがて悪役声優の
第一人者になる!”とわめきたてた当時を思い出し、感慨無量。
私よりちょうど10歳年上、とは思えない若々しさ。

最初にちょっと出て挨拶、その後、木原さんと出て二人でトーク。
観客の反応極めてよし。木原さんはプロ、というより木原浩勝
というキャラクターとしてプロの売り方をしている、と
言える。私は進行、誘導係に徹す。とはいえ、“まとめの唐沢”
的な役割は果たしたつもり。

終って、Aプロの若手が木原さんの周囲に集まって延々と話を
聞いているので、アオキング、Oさんを連れてメシを食いに。
金竜門行こうと思ったがどうも貸し切りらしく、ではレトロ酒場
と思ったがここも土曜で満員、致し方なくとらじにする。

Oさんと雑談しているうち、上映終ったしら〜さん、新田さん
など来る。IPPANくんはいつものようにすぐ帰った。

なんと木原さんが若いみんな15人を引き連れてきた。
とらじの二階とあってもギリギリのところだったが、ちょうど
テーブルが空いたところだったので事無きを得る。
とらじに場所をとっておいてよかった!

そっちのテーブルでは一時間近く、木原さんの独演会となっていた。
それを尻目にこっちは好き勝手な雑談で盛り上がったが、
向うのテーブルをあぶれた若い二人(一人はなんと、
まだ19歳とか)が、オジサンたちの昔ばなしに、実に熱心に
食い付いてきてくれて、新田さんはじめ、やや感動。

1時間ほどして木原さんが帰ったあとは、そっちのテーブル
の13人が今度はこっちのテーブルを取り巻いて、私たちの話を
聞き漏らすまい、と熱心に耳を傾け、
「それはいつ、発表されるんですか」
「ずっと前からファンです」
とか、キラキラした目で言う。ありがたいのであるが、やや
コソバユくもある。
とはいえ、彼らに請われるままに私もOさんもしら〜さん、
新田さんも彼らにサジェスチョンを。私は業界に生きる秘訣の
ようなものを語り、芝居ということの神髄ぽいことを語りと、
マー、エラソーニ。
彼らの望むイベントをどうにかして実現させたいと、口約束さえ
してしまった。

12時、解散。みんな帰りの電車は大丈夫だったのか?
帰り道、新田さんが
「あそこまで素直に昔話を聞いてくれると、逆に何か不安に
なりますね」
と。同感。タクシーで新中野に帰宅。
最近、イベントに対する私の、
「出演してしゃべれば楽しいしそれなりのことをしゃべるし
ああ、出てよかった、と思うのだが、出るまでは大儀で大儀で、何とか
出ないですむ方法はないかと考える、家を出る一瞬前まで何とか
休めないかと思う」
という性質が顕著になってきた。

帰宅、1時半就寝。徳南晴一郎氏死去の報あり。
その人生の、世の中というもの、運命というものへの親和力のなさは
自伝『孤客』にあきらかで、異常な読後感のあったことを思い出す。
孤客とは誰がつけた書名が知らないが、まことに実をついた
タイトルであるなあ、と読んでため息をついたものであった。
晩年に意外な評価を受けたことは徳南氏にとってどういう
意味があったのか。他者の伺い知られることではないと思うが、
今は慎んで黙祷を捧げたい。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa