26日
水曜日
三菱キムタク銀行
当行では有利なジャニ系タレント運用をサポートいたします。朝7時半、食事のベルで目を覚ます。別に前日飲み過ぎたわけでも徹夜したわけでもない。あまりに眠りが快適で、寝過ごしてしまったらしい。まさに春眠暁を覚えず。もっとももう夏近いようだが。朝食はホウレンソウとベーコンのサラダ、キャベツ炒め、スープ。果物はスイカ。ゆっくりと食事をとり、入浴。今日は中野の区役所にちょっと用事があって行くので、9時ちょっと前に出ればいい(と、いうか9時にならないと窓口が開かない)と思っていたら、その窓口に持っていかねばならない書類が新中野の家にはない ということが判明。時間を無駄にしてしまった。
仕方なくタクシーで仕事場に行く。もっとも、遅く出たことの収穫もあり。この日記に何度か書いている“バトーおじさん”、なんと正体(と、言うほど大げさなものでもないが)が判明した。わが住まいするマンションのガーデナーだったのである。なるほど、それで毎朝、私の通勤とスレ違うわけだ。最初カメラマンだと思ったのは彼が大きなカメラを何台も下げていたからだったが、あれは庭の写真を撮影して、庭作りのプランを立てるためだったのだな、とようやくわかった。今朝は小さなハサミで、中庭の立ち木の枝をチョキチョキ切っていた。バトーが手入れしている庭を毎朝 眺めて出勤できるとは、なかなかな生活である。
仕事場でメールチェックいくつか。スケジュール詰め、いろいろ。イベント関係で日がカチ合う事態もあり。弁当、お菜はサバ。太田出版からと学会本『トンデモ本の世界S』と同『T』見本刷り、届く。ざっと目を通すが、活字になってみると、ゲラでは気にならなかった文意の不明瞭が気になってくる。困ったもの。それにしても、今回はことに各執筆者の取り上げている本の間口の広さ、バラエティの豊富さが顕著であるような気がする。何故かと学会を批判する人間に限って、トンデモ本の定義を勝手に決めて、“これを守らないと学会(の、こいつ)はけしからん”みたいなことを言う傾向がある。『T』の中で皆神龍太郎さんも書いているが、
「と学会が批評の対象としている本の中で超常現象関連本はごく一部のテーマに過ぎない」
ことは、見れば誰にもわかることであるのだけれども。
と学会がやっていることというのは、トンデモ本の大海に向かい、数人の物好きが石を投げているようなものだ、と思わないことはない。会が設立されてまだ間がない頃だったが、超能力批判で著名な安斎育郎先生の講演会を聞きに行ったことがある。安斎氏はそのとき、某テレビ番組が大々的に取り上げた超能力者の技が、いかに単純なトリックであったか、ということを見事に証明し、喝采を浴びていた。だが、講演後の質疑応答のとき、手を挙げた白髪の超能力信者(で、あろう)老人が、安斎氏を 指さし、強い口調で
「あなたはたったひとつの例を挙げて、それがインチキだということを証明してみせたに過ぎない。世界中で報告されている全ての超能力実験をあばいてみせることなど出来はしない。超能力の存在を否定することなど出来はしないんです!」
と糾弾した。そのとき、安斎先生は、ちょっと困った顔をされながらも、ニコヤカに微笑みながら、
「確かにそうです。しかし、こうやって、ひとつひとつの実例をあばき、それを人々に知らしめる活動を通じて、世の中の人に懐疑精神の大切さを植え付けることが出来れば、私のやっているようなことも、あながちムダではないと信じます」
と答えて、老人の質問をかわしておられた。
と学会の活動に対する、“批判するだけでは何も生み出さない”という非難の声はときおり耳にするが、私はそういう声に対しては、“批判があるという事実を示し続けるだけで、批判には意味がある”と答えることにしている。例えばUFOを信じている人々は、“UFOがないというのなら、その「ない」ということを証明してみて欲しい”と言う。ものごとが“ある”ことならば、それを眼前に示せばすぐ証明できるが、“ない”ことを証明するなどということは、まず不可能に近い。そのような、“ない”ことの証明を“悪魔の証明”という。この証明を使えば、どんなトンデモな ことの言いつのりも、自由自在である。
しかし、その悪魔の証明に対抗する方法として、最も愚かなのは、“そんな証明の強制は悪魔の証明だから、こちらが応じなくてはいけない義務はない”と拒否してしまうことなのである。相手はその言葉を引き出したくてそれを持ち出すのである。
「ほらみろ、偉そうなことを言って、あいつはUFOひとつ否定できない、インチキな奴らなんだ」
という嘲笑を振りまいて、こちらの信用を失墜させようとする。そのような証明要求には耳を貸さず、こちらはただ足元を見て、資料を揃え、常識をバックボーンに、ひとつひとつの事例を、モグラ叩きのようにあばいていく。非常に手間はかかるし、実りの少ない行為ではあるかもしれない。しかし、トンデモに対する最も確実な反駁手段はこれしかない。その行為を繰り返すことで、相手のタネがつき、世間が、“どうも最近、新しいトンデモ説が出てこないのは、結局のところああいう話がインチキだったのではないか”と思うようになるまで、地道に批判を続けることが肝心なのである(もちろん、トンデモ本の中には無くなって欲しくない人畜無害なものが多い。ここで言っているのは一部の狂信的トンデモ系の話である)。
最近の人はイラチなところがあるから、常に一刀両断ばかりを期待し、地味な批判行為を“粘着”などと称して誹謗するかも知れない。しかし、ちょっと学問の世界などをのぞいた経験のある人であれば、学者の基本は粘着気質であること、という常識はわかってくれるはずだ。と学会員は学者ではないが、そのような態度を目標にしている。もちろん、単なる粘着にならないためには、こちらの考えにもし誤りがあった場合は即座にそれを改めるという真摯な態度を基本にすることは言うまでもないが、粘着は必ずしも咎められるべきものではないのである。安斎氏をはじめとするジャパン・スケプティックスも、と学会も、いささか粘着的ではありながら、今日まで、トンデモを見つけだし、そのトンデモたる由来を指摘するという行為を続けているので ある。
……こんなことを言い出して、さなきだに長いと呆れられているこの日記をさらに長くするのは他でもない、私のこの日記の記述を“悪魔の証明”である、と言い出し ているところがあるからである。
http://diary.hatena.ne.jp/claw/20040526
はっきり言って、最初は呆れ返り、故意に誤読しているのかな、と疑ったが、こちらの日記の文章をちゃんと引用しているところを見ると、単に文章読解力がないだけなのだろう、と判断せざるを得ぬ。あるいは、何か特殊な思想信条に縛られて、文章を正確に読みとる判断力に、フィルターがかけられているのだと思う。
もう一度、きちんと私の日記(5月17日付け)を読み直していただきたい。私はどこにも、“あの三人に自作自演がなかったことを証明させろ”とは書いていない。 私が書いているのは
「彼ら三人の潔白を信じる者からこそ、この際その自作自演疑惑をきちんと解明し、国民の前でその疑いを晴らすべきだ、という主張が出てしかるべき」
であろう、という仮定の主張である。そして、自作自演説派の“悪魔の証明”要求に対し、それを無碍にハネつけることは、彼らの
「“ドサクサにまぎれてうまくごまかしてしまったが、絶対狂言だったに違いない”“調べられるとヤバいから、触れることも許さないという態度をとっているんだ”と いう、無言の思いこみを増幅させるだけだと思うのだ」
と、きちんと書いているのである。私は、まさにその“悪魔の証明”に対して、これまでと学会がとって来た方法、無視したり切り捨てたりするのでなく、地道に疑問に答えていくという対処方法を勧めて、それをしなかった場合の危険性を、あの17日の日記で指摘しているのだ(後で気がついたが、先の記述に私が言っていもしない“証明してみろ”という言葉をつけ加えて、掲示板に投稿している者がいた。こういうのは単なる卑劣な悪意であって相手にするにも価しない)。
私が名文書きでないことは確かだが、日記のあの文章が、文意のそんなにとりにくい悪文であったとは思えない。現に、きちんとその内容を汲み取ってくれた読者や編集者複数から、賛意や補足情報などのメールなどを貰っている。この程度の文章を、故意にまれ過失にまれ誤読して、悪魔の証明と決めつけ、排除しようとするのは、まさに、自作自演派の“やはり、擁護派の連中は多少強引な決めつけをしてまで、あの三人を表に出せと要求する意見を封じようという陰謀をはたらかせている”という、あらぬ疑惑を増幅するだけだろう。擁護派の善意が、かえってあの人質三人に、“逃げ回っている”というイメージを与えてしまっているのである。いま、何より大事なのは、あの三人が(苦しいだろうが、つらいだろうが、これ以上疑念が濃縮されることを防ぐためには)、誰の助けも得ないフリーな状態で、マスコミの質問に答える場に立つことなのではないだろうか。
朝日新聞『ピンホールコラム』原稿一本、ネタは以前にも使ったことのあるものだが、その中の一部分にポイントを当てた形のコラムに仕立てる。字数が少ない原稿を書く場合、まずざっと書き下してみて、その後でハミ出た部分を、あっちで二文字、こっちで五文字と削って、規定字数に整える作業、これが案外、ゲームみたいで面白かったりする。文筆家の作業は字を書くばかりではない。字を削るのも仕事のうち、 なんである。
6時、ロフトプラスワン。今日は笹公人さん、川上史津子さんとの『トンデモ短歌会』の第二回目。前回の盛り上がりぶりから、今回は単に進行を担当すればいい、ということがわかっているので、非常に気が楽である。いつものように、宝珍さんが来て『念力家族』を売る他に、モンド21のディレクターさん(川上さんの番組を作っている)から、優秀歌の商品の差し入れなどもある。笹さんに『トンデモ本の世界』 二冊進呈、斉藤さんと、次の企画のことなども少し話す。
7時半開演、前半は初めてのお客さんのために『えろきゅん』『念力家族』をそれぞれに朗読(私も『えろきゅん』の中の、女の子のセックス体験談を“女の子の気持ちになって”朗読してくれと川上さんに頼まれて読んでみる。変な快感はある)してもらい、続いて、ロフトのサイトにアップされた投稿歌を取り上げて、お二人に講評してもらう。全然作風が違う歌が同じ作者の別ペンネームだったり、腕にタトゥーが入っているというパンクな女性歌手(笹さんの知り合い)だという人からの投稿が、自分が出産したばかりの赤ん坊のことを、妙に古風な歌風でしっかり歌っていたりという意外性が楽しい。後半、特別ゲストの関口誠人さん(元C−C−B)を壇上にお迎えしてさらにトーク、また会場のお客さんからの作の講評にも加わってもらう。
実は最初、楽屋に関口さんが訪ねてこられたときは、いったい誰なのか、ちょっとわからなかった。C−C−Bと言えば仮にもアイドルグループだったはずだが、あの原色に染めていた髪を坊主にして、おっさんヒゲを生やし、また、そのしゃべりが妙 にそのスタイルに合っている。聞いてみたら私より一つ下だそうだ。ご本人も
「私なんかもですねえ、昔とは似ても似つかぬ姿になっているわけでして」
と言っていたが、また、その詠む歌がいや、この風貌に実にあいまったエロ親父の歌。しかし、あきらかにそこには言葉に対するキラキラしたセンスが、かつて浮かんでいた水面から水底の方深く沈み込んで、しかしてなお、渋く輝きを発しているという感じ。自分の中で否定すべきものとしてとらえていた80年代の、その一種の象徴みたいなC−C−Bが、いい具合に熟成して目の前に現れてきてくれたなあ、という 感じであった。
10時半に終わる。お客で来てくれたQPさん、銀河出版のIくん、ぐれいすさんなどに挨拶。ぐれいすさんと困ったくん話など。語学終わってから来たK子も含め、銀河ステーションのリョウくん、川上さんと、その友達の役者さん(なんと大門正明の息子さんだとか)、それに宝珍さんとで打ち上げ。青葉でいろいろ雑談しながら、干し豆腐、中国竹の刺身、アヒル塩漬けなどでビールと紹興酒。青葉の店員さん、もうこちらの注文パターンを読んでいて、“ソレカラ、あひる?”とか、“ソロソロ、紹興酒、イク?”などと言ってくる。苦笑。11時半くらいにタクシーで帰宅。