25日
火曜日
珍念の人
志に燃えるのはいいが、所詮小坊主。朝6時50分起床。入浴、歯磨。歯磨の際に研磨用ペーストつけて磨き、またデンタルポリッシャーでゴシゴシと。昨日、眼鏡をあつらえる際に、左右の糸切り歯がイヤに黄ばんでいるのを発見し、ちょっとショックだったため。いつも歯は念入りに磨いているはずだったのに、この黄ばみに気がつかなかったのは、いつも歯を磨く洗面所の灯りが黄色光なので、黄ばみの色が相殺されてしまい、白いとばかり思っていたのだ。手塚治虫がジャングル大帝でレオの色を白にしたのは、最初は普通の黄色いライオンにするつもりが、仕事机のライトの色がやはり黄色だったため、もう塗ったと思って白いままで出してしまったため、というウソっぽいエピソードがあるが、あれは本当なのかも、と思えることであった。
朝食、例により野菜アラカルト。25分のバスで通勤。やっと初夏らしいカラッとした好天である。メール等での連絡、数件。鶴岡から電話。日記つけながら応対。彼は98年からずっと早稲田で非常勤講師を務めているが、それに加えて今度は、静岡大の講師も務めることになったとか。行ってみて回りに何もないのに呆れたということだが、仮にも国立大。アカデミックなところにはやたら好かれるらしい。金には全然ならぬとボヤくが、大塚英志氏が“フリー職業の人間は現代日本ではアパートひとつ借りるのにも苦労するから、大学関係の肩書きは持っていた方がいい”と言っていたのは、ある程度真実である。逆に言えば、アパート借りるくらいにしか役立たない のが現在の大学の御利益だが、とにかくめでたいことではある。
他にもいろいろ雑談。彼を弟子にして10年になるが、初めて有効かも知れないと思われるサジェスチョンを貰った。人間、何か役には立つものだと感心。太田出版から『トンデモ本の世界S/T』二冊、完成との連絡あり。他に『FRIDAY』はいよいよ連載(6月半ば)ゴーサイン、朝日新聞社からも次のコラム原稿締切の件で電話。6月は梅雨で月の半ばは体が動かなくなるから、今のうちに用意が必要である。
弁当は豚肉味噌漬け、卵焼き。食べながらDVDボックスの届いたで『みんなのうた』を見ようと思ったが、デッキ不調で見られず。やむを得ずビデオで、このあいだトニー・ランドール訃報の記述で触れた海外版ビデオの『アルファベット・マーダーズ』を再見。最初見たときはうっかり見逃していたが、中でお遊びのシーンがある。ポアロがエイスティングス(ヘイスティングスをフランス訛りで呼ぶのでこうなる)と一緒に警察署を出るシーンで、殺人事件のことを話しながら署に入っていく老婦人とすれ違い、“誰だあれは?”と首を傾げる。これがマーガレット・ラザフォード演ずるミス・マープルのカメオ出演。ポアロものに先駆けてMGMは、マーガレット・ラザフォード主演で“ミス・マープル”もの映画をシリーズで撮影していたが、たぶんこのランドールのポアロは、ラザフォードのマープルものの成功を受けて作られた作品なのだ。どちらも当時の流行でコメディ・タッチを取り入れているので狭量なミステリマニアには評判が悪いが、テレビが一般的でなかった時代、シリーズものの映画化作品がそういう大衆娯楽路線を取るのはごくアタリマエのことだったのである。ランドールのポワロは結局シリーズ化はされなかったが、あの、過去の映画化作品にはやたらに点の辛い『アガサ・クリスティー生誕100年記念ブック』(早川書房) でも、
「しかしランドールは効果的なメイク、抑えられた演技で予想以上のポアロを作り上げたことを記しておかねばなるまい」
と(しぶしぶながら)認められているのだ。ちなみにマーガレット・ラザフォードは、ミス・マープル映画と同時期にリチャード・レスター監督の『月ロケットワイン号』で、グランド・フェンウィック公国のグロリアナ大公妃を演じ、世の好きモノたちを驚喜させている。
1時、銀座へ出て博品館劇場へ。タクシーがドジなところで降ろしたので、銀座八丁目をこの暑い中ぐるりと回るハメになった。劇団NLT公演で、淡島千景・淡路恵子主演の『毒薬と老嬢』。先にミス・マープルの姿をビデオで拝し、それからアビーとマーサの老毒殺犯姉妹の芝居を見る。老婦人づいた日ではある。学生時代、出久根達郎さんの経営していた古書店『芳賀堂書店』でこの舞台の初演時の台本を買って、その面白さに夜を徹した経験がある。逆に言うと、そのイメージがあまりに強かったため(また、都合よくテレビでフランク・キャプラのこの映画を放映したため)、舞台はもう見ないでもいいや、と思ってしまい、初演時からずっとアビーを演じてきたNLT主催者の賀原夏子の演技を見逃してしまった。これはいくら後悔してもしきれない。今回アビー役は淡島千景、いくぶん賀原に比べると品がよすぎるが、どちらか というとアビーには適役だろう。で、観てみることにしたのである。
ゆらい演劇というのは、なかんずく翻訳劇はそうだが、冒頭の状況説明部分というのがクドくて、話に入っていきにくい。この舞台も例外ではなかったが、映画ではケイリー・グラントが演じた、一族中唯一のまともな青年で劇評家のモーティマー(演ずるのは客演の渋谷哲平!)が、壁際の、物入れ兼用の長いすの中に、叔母たちが隠した死体を見つけたあたりから、急激に面白くなっていき、ストーリィはもう知っている分、それぞれの役者たちの演技に集中して楽しめる。淡島千景と淡路恵子は女優の格としては淡島の方が上なのだろうが、演技は淡路の方がずっと確か。淡島はかなりセリフの噛みも目立つ。ただ、ほんわかとしたムードが常にただよい、何というのか、それこそ宝塚とSKDの品の差というのか、それが次第に出て、舞台をリードしていき、最終的には淡島千景の舞台、というイメージで終わってしまうのは、さすが というか何というか、舌を巻いたものであった。
渋谷哲平が意外の大好演、しぶとく生き延びているなあ、という感じ。自分をセオドア・ルーズベルトだと思いこんでいる人畜無害な狂人・テディ役の倉石功は、セオドア・ルーズベルトという、アメリカで最も愛された大統領のイメージが日本人にいまいち通じないのでちと損をしているが、大柄な体型は活かされている。映画版ではピーター・ローレが大怪演した整形外科医・アインシュタイン(この役名も凄いね)をNLT代表の川端槇二が演じていて、ズバ抜けた達者ぶりを見せる。こういう役者の芝居を観ることが出来るのが演劇鑑賞の醍醐味だ。で、この作品のキモである凶悪犯・ジョナサンは若手の池田俊彦。達者だし、ガラも凶悪犯に合ってはいるが、クラシカルなイメージが基調のこの芝居で、フランケンシュタインの怪物そっくりというメイクが、妙に現代風でポップなものだったのはいただけない。むしろ髪型など『フランケンシュタインの花嫁』の、エルザ・ランチェスターをイメージしているようなところもあって、悪くはないのだが。しかし、なんといっても、原作では怪物役を映画で演じた“ボリス・カーロフそっくり”と表現されているキャラ(初演時は本当にボリス・カーロフ本人がこの役を演じるという大楽屋オチがあったそうな)である。 基本に忠実に、ユニバーサル風のモンスターメイクでやってほしかった。
この作品のテーマは“慈善”である。歳のせいか遺伝のせいか、静かに狂気の世界に足を踏み入れた老婦人二人は、屋敷に下宿しにくる孤独な老人たちを、はやくこの苦の世界から逃れさせて神の御許に送ってやりたいという、やむにやまれぬ慈悲心から、彼らに毒酒を盛る。そして、自分たちの善行に対する自己評価の過大さが、彼女たちをして、次々と連続殺人に走らせる。慈善、良心、信仰、同情……といった、耳に心地いい、それを施すことで自らも善行を積んだという満足感を味わえる言葉が、その快感故に、一歩足を踏み出すことで、凄まじくハタ迷惑な行為へと変化する。第二次大戦の真っ最中にこんなブラックな芝居が書かれ、上演されて大ヒットしたアメリカという国の凄さに感服すると同時に、21世紀、国家自体が、大がかりなアビーとマーサになってしまった感のあるアメリカに、いささかの皮肉を感じざるを得ず、とか言いたいが、こういうウェル・メイド・プレイをそんな俗な比喩で汚すのはやめておこう。それにしても、“整形外科医を連れて顔を変えながら旅をしている凶悪殺人犯”というアイデアの何とブッ翔んでいることか。赤塚不二夫がこの設定が好き好 きで、『おそ松くん』などで何回も借りてきては使っていたのを思い出す。
地下鉄で帰宅、途中でキオスクで夕刊紙数紙買う。『日刊ゲンダイ』は、小泉訪朝後の支持率上昇がよほど腹に据えかねたのか、“小泉訪朝世論操作疑惑”というタレ紙を垂らしていた。ほう、あのアンケートはヤラセという疑惑があるのか、と思い、買って読んでみたがナンだの内容で、大手マスコミがやたら5人の子供の姿を報道するもんだから世間は小泉を評価してしまった、これではマスコミが世論操作しているのと同じだ、というもの。疑惑というからには、何か政府が後ろから数字に手を加えた、というような事実がなくてはサマにならぬ。それよりも、“日本は本当におめでたい人ばかりの国だ”という記事には呆れてしまった。これまでこの新聞は、まるで国民の声をわが紙が代表している、と言わんばかりの態度で、政府を攻撃していたの ではなかったか。
前に中山千夏が、自分たちの活動に理解を示さぬ選挙民たちに不満を唱えたのを見て、私が市民運動というものを見切ったことを書いた。それは彼らの活動や思想が正しいとか正しくないとかの問題ではない(何とかの壁の人たちも読んでいるかも知れないのでもういっぺん書くが、“彼らの活動や思想が正しいとか正しくないとかの問題ではない”)。彼らが結局、口にするところの民主主義を理解していないことの表れだと認識したためである。民主主義社会というものは、それであるから正しい、という絶対的無謬性を持つ制度ではない。主体が民衆であるということは、社会を動かす当事者たちに、ノブレス・オブリッジも要求できず、高度な政治理念を所持も期待できず、ただ、感情と好悪と好奇心と、周囲の状況によってのみ、自説を動かす人々を相手にする政治システムである、ということだ。逆に言えば、正しさを義務化されていないからこそ、大衆は強い。横山ノックの不祥事は、彼を選んだ大阪府民に責務を(自分たちの街の評判が著しく落ちるということ以外)負わせはしないのである。そういうオバケみたいな存在の支持を獲得する競争が、民主主義における政治活動というものだ。たとえどんなに正しい議論の持ち主であっても、社会的な支持を得ることができなければ三文の価値もない。
「私たちは正しい。それを支持しないみんなの方が間違っている」
というセリフは、それを口にした段階で、民主主義を標榜する権利を失うのだ。
小泉訪朝を最悪と表現した家族会のもとには千四百件を越すメールや電話があり、その2/3が発言を非難する内容であったという。これを批判し、日本人の政治的無知と感情的未熟さを憂うる発言をして済ませてしまえば、ネットにおける床屋政談としてはことが済むだろうが、そういう“愚かな民衆と、そのダメさに気づき指摘できる乃公の賢さ”という精神的マスターベーション的結論でコトを済ませていては、日本は百年たっても変わりはしない(私のこの文章だってまあ、マスターベーションなのだが、そういうことを言い出すと千日手になって身動きが取れなくなるので敢えて見ぬフリをしておく。とりあえずマスターベーションであることを自覚はしている、 ということで)。
民主主義国家は本質論では動かない。民衆が動くのは利害と感情によってのみであり、民主主義国家の政治家として資格があるのは、その利害と感情をコントロールして、民衆をいかに騙して誘導させられるか、そのイカサマのテクニックに長けている ものでしかない。イカサマというと如何にも言葉が悪いが、
「バレなきゃイカサマじゃないんだぜ」
という荒木飛呂彦の名言(『ジョジョの奇妙な冒険』)もある。少なくとも、国民の利害感覚と感情の発露を、肯定的にとらえることの出来るもののみが、民主主義国家を動かす権利を有することは確かだろう。このデンで行くと、民主主義を最もよく理解した政治家はヒトラーということになるが、しかり、ヒトラーは民主主義が生んだモンスターである、ということは夙に指摘されている。民主主義はヒトラーを生み出すシステムなのだ。ただし、ヒトラーを倒したのもまた民主主義なのだが。
8時6分のバスで新中野まで。8時50分、帰宅して夕食。アサリ釜飯、トンカツとポテトサラダ、ホウレンソウのおひたし、小松菜とアブラゲの煮物。DVDで恒例『アタックNO.1』、第10話『忍び寄る陰謀』。キャラクターたちの動作が今回はいちいち大仰で、芝居がかっており、かなり笑える。あと仕事場で見られなかった『みんなのうた』DVDボックス第一巻。1960年代のこの番組はまるで歌声喫茶のような雰囲気。ロシア・東欧系の歌が非常に多いが、珍しくオーストラリア民謡という『調子をそろえてクリック! クリック! クリック!』があった。別にパソコンのマウスの歌ではなく、ヒツジの毛を刈る歌なのだが、“そらたちまち羊はまるはだか”というメロディー、どこかで聞いた記憶があるのだが思い出せない。替え歌になっていたのではないか。