裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

22日

土曜日

本田ちよ、泣くんじゃない

 ローンはつらいけど。朝7時半に食事ベルで目を覚ます。やはりクタビレていたのだな、と思う。朝食、大根と水菜のサラダ、ブロッコリとソラマメのボイルド、それにスープ。食べてから入浴し、ゆっくりと小雨の中、出勤。43分のバス。仕事場到 着は9時半。

 神無月ひろさんからメールが来ていたので返信、日記つけ、資料等を少し整理。どどいつ文庫伊藤さんから、銀座のヴァニラ画廊でやっている橘小夢の春画展が今日までだ、という電話。行こうと思っていたものだが、ドタバタしているうちに最終日になってしまっていたか。何とか時間やりくりします、と伝える。郵便受けに入っていた小包を、何かと思ってあけたら、なんと島敏光さんから、“笈田敏夫さま”と書か れた『恐怖奇形人間』の台本が贈られたのだった。
「父の遺品の中に入ってましたが、僕が持っているより、これは唐沢さんに差し上げた方がいいと思いますので」
 との手紙つき。有り難いというかおそれおおいというか、しかし実に嬉しい。

 11時まで雑用やって、15分に家を出る。銀座松坂屋裏の第二カマタビル4Fのヴァニラ画廊。このカマタビルというところも、銀座らしい雰囲気の、古くて狭くていい感じのビルである。エレベーターの狭いことといったら感動もの。人が並んで二 人、やっと乗れる程度でしかない。

 で、秘蔵春画展。まだ午前中だったが、すでに中に何人か人がいた。北斎、国貞、豊国などの版画と、肉筆画、春画の巻物などが展示されている。それらに加えて、奥の方の壁に“伝・橘小夢”と表示にある(伝、としているのは春画という性質上、記名がなされていないからである)肉筆画が数点、展示されていた。江戸川乱歩がその才能を認めて“ビアズリーに国貞の衣装を着せた”と評した人だが、西洋風の、快傑ゾロみたいなマスクをした泥棒が、和装の女性を犯す画などに、典型的なその作風が表れている。また、年増女が美青年(と、いうより美少年)の陰茎をまさぐる図であるとか、男女の座位でのセックスを後ろから描き、それを姿見に映して見ている図など、アイデアも豊かで、ほんの数点の展示であるが、見ていていつまでも見飽きない ものがある。

 コピーのパンフを買おうとしたが、すでに売り切れ。場内にいた人に“これはもうないんでしょうか”と訊いたら、奥から、この画廊のマネージャー(?)らしき若い女性を呼んでくれた。後で送ってくれるとのことなので、名刺を渡す。“東京文化研究所”という社名に興味を持ったらしく、いろいろ話しかけてきたので、しばらく会話。梅田佳声先生の紙芝居の話などをしたら、非常に興味を持ってくれ、
「見たいです、どこでやるんですか」
 と言う。メアドを聞いて、あとで石響の資料を送るから、と約束。さっきパンフのことを聞いた人は、実は橘小夢の息子さんであった。

 芳名帳に名を記そうとしたが、すでに余白がないくらいにビッシリであった。かろうじて、一段抜けがあったのでそこに記す。ページを繰ってみたら、レオ澤鬼氏も来ていたし、小人芸人のまめ山田も来ていたのに驚いた。なにはともあれ、最終日ではあったが、見逃さないでよかったという感じ。どどいつ文庫さんに感謝、である。帰りに松坂屋地下で、今日行く本多きみ夫人邸へのおみやげを買う。
http://www.vanilla-gallery.com/pages/gall12.html

 そこからタクシーで渋谷へ。時間割に直行し、ミリオン出版Yくんと打ち合わせ。図版資料の受け渡しである。あとは雑談。Yくん、うわの空一座の紀伊國屋公演には二日目の、私が最初に観た会を観て、やはり前半のカラ回りにはかなりとまどいを感じたらしい。島優子の出からはぐんぐんと舞台が求心力を持っていって、最後では
「不覚にもちょっと涙ぐんでしまいました」
 とのこと。“あそこの舞台は、二回いかないと安心できないんでねえ”と、劇団に代わって弁護しておく。

 それからまたすぐその足で、新宿へ。あわただしい日である。小田急線で成城学園前。改札を出たら、すぐ目の前に快楽亭が立っていた。開田さんは梶田監督と、すでにアルプス(駅前の喫茶店)に行っているとのこと。しばらく、佳声先生のことなど話す。おみやげを買ってきたあやさんと合流して、『テレビTaro』の編集者を待つという快楽亭を残してアルプスへ。梶田監督とご挨拶、しばらく雑談して待つがなかなか快楽亭来ない。あやさんが迎えにいく。時間を間違えていたか日を間違えていたか、とうとう待ち人来たらずだったとか。

 タクシー相乗りで本多邸。伺うのはこれで4回目。犬のゴンがうれしげに飛びついてくるのはいつものことだが、今日はそれに加えてもう一頭、真っ黒い巨大なラブラドール・レトリーバーが駆け寄ってきて吃驚した。本多監督の息子さんが買っている犬の“ドナン”。息子さんはずっと沖縄の方にいらしたので、この犬の名は“どなん泡盛”からとったものだとか。きみ夫人、ロフトでお会いしたときから少し小さくなられたかなという感じだがお元気さは変わらず。梶田監督、“わたしもようやく80になりました”と挨拶すると、“なに行ってんの、梶ちゃんなんかまだ若いわよ、私なんかもうあと少しで90よ”と。それ以降も、梶田監督、何かというときみ夫人に“この人なんか、若い頃は酒癖が悪くて……”とかやられている。80でなお子供扱 いされるというのも凄い。

 例により娘さんの作る料理がどっと出る。小魚の自家製干物、スモークサーモン、ブロッコリとカリフラワのサラダ、島もずくの酢の物、豚肉の天ぷら、イカフライ、まぜ寿司、パスタなど。酒は特製限定生産の泡盛、日本酒、あやさんのみやげの焼酎メローコヅル。飲み過ぎて開田さんはしばらくソファで寝ていた。学生時代にここの家に毎度伺っては御馳走になった頃に戻っているのだろう。快楽亭は、何故か二頭の犬に気に入られて、しまいには四つんばいになって犬と完全に目線を同じくして遊んでやっていた。貴重なお話もいろいろ伺う。梶田監督、本多家に毎年、三船さんから亡くなった三橋達也から、スターたちが60人も集まってはワイワイやっていた当時のことを、写真とか見せるから本にお書きなさいと私に言う。沢村いき雄(『キングコング対ゴジラ』のファロ島の魔術師、黒澤の『用心棒』の番太など)が料理が得意で、そういうパーティのときは朝早くから築地へ行って材料を買い込んできて、全部作っていた、などという話を聞く。あと、きみ夫人は平田昭彦の若い頃の話などもし てくださる。あの人にこんな一面が、というような話で、面白いったらない。

 なにしろ本多邸の会はエンエンと続くので、話はどんどんいろんな方に流れていきこちらもいちいち覚えていない。人生訓話みたいなことにまでなった。若い頃から、お客に慣れているからこそだろうが、85歳になられてずっと最後までホステス役を勤めておられるきみ夫人には感心する。某、日本有数の才人監督と脚本家であるその夫人のことを梶田監督と二人で“昔は「コンチクショウと腐れナットウ」と撮影所ではみんな呼んでいた”などと聞くだけで大笑い。映画史というものの厚さを実感した 一夜であった。

 10時ころお暇し、小田急で新宿へ。快楽亭と別れて、地下鉄で開田夫妻と帰宅。まだ台所に灯りがついているのでのぞいてみたら、今日のお客(I矢くん、S山さんとK子が連れてきた女性二人)が帰るところであった。お茶飲んで自室に帰り、ベッドにひっくり返って寝る。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa