裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

15日

土曜日

シャーロック・ホームズの暴言

 ワトソンくん、君は藪医者だな! 朝、5時ころ、非常に雄大な光景の夢を見る。ワイオミングあたり(よく知らないが)の広大な山々の光景を飛行機からでも眺めるように見ていると、みるみるうちにそこら一面に雲が立ちこめ、やがて、その雲海から、すーっ、すーっ、と、水中に出来る渦巻きの様子を逆回転フィルムで見るかのように、一団の雪が地上へと降りる。その下にある街々(煉瓦作りの19世紀ぽい街並み)には大量の雪が一どきにどっと降るが、黒人たちを中心とする除雪役が、その雪を掻いては、道路の脇に備えつけてある、融雪炉の中に入れ、下水へと流していく。また、雄大な山の景色になり、こちらの視界が雲を突き抜けてその上に達すると、山脈の上を、見事な夕陽が照らしている……。目が覚めて、ああ、実にスケールの大きい夢を見た、いい気分だと思って、またウトウトすると、今度は、毎朝のんでいる亜鉛錠が、そろそろ切れかかるという(実際はまだ切れてない)極めてチンケな夢を見 る。このスケールの差はナニか。

 7時10分起床、今日も二日酔いで少しフラフラ。半に朝食、胡瓜と水菜のサラダとキャベツ炒め、グリーンポタージュ。小泉首相年金未納発覚。義務化以前だったと言うことだが、さてどんなものか。とはいえ、ことここに及んでは、おたかさんはじめとする野党議員はおろか、菅直人を怒鳴りつけた田原総一朗から、筑紫哲也、森本毅郎、小宮悦子たちニュースキャスターも未納がぼろぼろ出て、要するに誰も彼も、悪気はなくても年金というのは払い損ねるものであるということが明白になり、下手に未納を攻撃して身内から火が出ては大変と、舌鋒をゆるめている状態だ。致命傷には到るまい。ソンをしたのは徹底して評判を落とした菅ばかりで、これで発覚の順番が逆だったら、と地団駄を踏んでいるだろう。小泉の強運伝説がまたここで補強された。これを悪くとってはイケナイ。今の、金もなければ実力ある政治家もいない日本において、武器となるのはただ、ひたすらこの、自らの国を率いる総理大臣のツキだけなのである。日露戦争に日本が勝利した最大の要因は、海軍大臣山本権兵衛が、東郷平八郎という、あまりパッとしない男を、
「こいつは運がいい男なので」
 という理由で艦隊司令長官に抜擢したことにあると言われている。『リングワールド』における作者ラリー・ニーヴンの才能の証明は、ハードSF的考証でリングワールドを創造したことでなく、そこに乗り込むティーラ・ブラウンという少女の持つ、“幸運の遺伝子”という、奇想天外なアイデアを思いついたことだろう。果たして小 泉純一郎、訪朝でもこの遺伝子を発動出来うるや否や。

 K子のパソコンで、と学会パンフレット用に使用する、去年の大会の写真を選定する。庭に日光が燦々と降り注ぐ、絵に描いたような五月晴れ。K子の雑草プラントもすでに二つめになった。K子の日記を読むもの全てが首を傾げるのは、“なぜこのヒトは雑草をとって、わざわざプランターに植え替えて育てているのか?”ということであろう。理由は私にもわからない。何度も訊いたのだが、答えが全く理解できない のである。家を出て、31分(土曜ダイヤ)のバスで渋谷まで。

 書き下ろし本の、五・一五と二・二六に触れた箇所を整理。ここは一番誤解を受けやすい、と、いうか、敢えての誤解で反論者に攻撃されやすい箇所なので、噛んで含めるようにコトワケないといけない。と、西手新九郎か、仕事場の前の二・二六事件碑の前で、最近よく来る右翼のおじさんが、例のごとく凄まじい調子っぱずれで『君が代』を独唱しはじめた。音痴も凄まじいのはかえってユーモラスなのだが、このおじさんもしかり。高音域など、カスレ声で必死で歌っているのが苦笑を誘う。

 12時に家を出て、地下鉄乗り神田神保町古書センター、愛書会古書市。半蔵門線 車中で、
「そりゃあなた、確かに国の責任かも知れませんが、まずは自分で備えるのが“筋”というものではないでしょうか」
 と書かれたポスターを見て驚く。てっきり、イラク人質事件に対する意見広告かと思ったらそうでなく、介護付き老人住宅のヒルデモアビレッジなるところのポスター だった。これ、あの事件より前からあったのか?

 愛書会、今日はいろいろ収穫あり。いい本で、値段のやたら安いものが多かったので、1万4千円程度の出費でカバンがパンパンになる。それをかついで、『ランチョン』のステーキランチ。久しぶりだが、以前に比べ、ステーキの肉がかなり、分厚く なった気がする。半蔵門線で帰宅。

 連載原稿、すでに締切過ぎているものもいくつかあり。北海道新聞の書評から。トンデモ本批評だが、今回は中丸薫(中丸忠雄の奥さん)の『闇の世界権力をくつがえす日本人の力』(徳間書店)と、その元ネタであると思われるユースタス・マリンズ『カナンの呪い』(成甲書房)を取り上げる。マリンズの本が、ユダヤを悪の根元としながらも、その祖先である(と、マリンズが断言する)カナン族の名で呼んでいるのは、ユダヤ協会からの指弾を避けるためだろうが、監訳者の太田龍が、サブタイト ルに“寄生虫ユダヤ3000年の悪魔学”とつけてしまっている。

 メール、昨日の日記に書いたDVD会社の人から。この日記を読んでいるそうで、“残念ながら自分の名は祖父がつけたもので、この祖父はかなり右かかっていたので可能性はあるが、たぶん無関係”とのことだそうである。ちょっと残念(右かかって いる、などと書くと、この作家が誰だかわかってしまうか)。

 書評原稿アゲて、次のにかかるが、体力、というか脳力の限界。マッサージもそう頻繁にかかっては何か悪影響があるだろう。ゴミだしをする。新聞紙、ダンボール箱などをまとめて、地下のゴミ出し場に。見ると、どこかの引越した家から出たのであろう、本の山が。こういうとき、つい、のぞいてしまうのは古書集めなどをしている 者の性(サガ)である。何冊か、面白そうなものがあったのでいただく。

 8時半、タクシーで東北沢。スペイン料理『バル・エンリケ』。カウンターの端までいっぱいのお客さんだが、われわれ二人以外はみな、一団の客で、これが帰ったあとは二人きりの、最後の客となる。今日は夜遅く、知り合いが勤めていた店をやめてヨソへ移るお祝いがあるのだとかで、来た客もみな、断っている。今日一日で、なんと40人、断ったそうだ、というような話を聞いているさなかにまたカップルが入ってきて、断られた。42人! とすぐカウント。ここのマスターは前にも書いたが実に怖い顔で頑固っぽくて、オソルオソルという感じで通っていたのだが、たまたま参宮橋ばなしになり、参宮橋にお互い住んでいたもの同士、参宮橋ばなしで盛り上がっ て、急に仲良くなった。困ったちゃんの話などを聞く。

 料理は定番のハモンセラーノ、鰯酢漬けからはじまり、イカと貝柱のサルサベルデ(緑のソース)、鶏モツとモルシージャの煮込み、ムール貝スープ煮。ムール貝は今日はやめておこうかと最初話していたのだが、K子がどうしても食べたくなって注文した。〆は当然、アサリのリゾット。アサリは昨日も『船山』で食べたが旬で、やっと江戸前のものが入ったそうな。普段見ているアサリとはさすがに、色つやが違う。フォークで殻をつついているのでは満足できず、殻を持って舌で身を舐め取るようにして食べ、ひっついた米粒も一つ残らずという感じで吸って食べ尽くす。食のエクスタシーというのは、こういう原始的な行為によってのみ、感じられる気がする。会話の中で、最近、レストラン業界にセンセーションを巻き起こしているという、友里征耶の『シェフ、板長を斬る悪口雑言集』という本を見せてもらう。なるほど、凄い。主人、“実はウチにも来ているらしいんだけど(この人は山本益博と違い完全覆面)まだこの正・続には載ってないんでホッとしてるの。3巻目がコワイけどね……”と のことである。

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