18日
土曜日
月の家N響
池辺晋一郎先生のダジャレはセコな噺家なみで……。ところで、アニメ『星方武侠アウトロースター』のEDが『月の家』という曲でしたが、あれを見るたび、後ろに“円鏡”とつけたくなったのは私だけですか。朝、6時に目が覚めて、寝床読書、このあいだの江戸随筆『勇魚鳥』。“古きものめづるは、昔も今もひとしかりけり”と源氏物語の中の“ふるきものこそなつかしうこまやかには有けれ”という文を引き、
「おもふに今の世にては、東山殿の頃ほひ(注・室町中期)なるものを、おほくは古代のものとてめで尊むなり。源氏物語の世にくらぶれば、四百五六十年ばかりの後なり。又、東山殿の頃より、文化の今(注・『勇魚鳥』は文化年間刊)に至りては、又三百四五十年にや成べき。よろづの物しかおとりゆかば、今の世になりてはせんかたなく成ぬべきに、さもあらぬは心得がたし」
とあるのに、昨日の映画のことなど思い合わせて苦笑する。
7時15分起床。朝食、五郎金時を蒸かしたのと、黄ニラ、セロリの中華スープ。なかなか健康的。それと西武のサンセイキ。K子にはフィンランドのパン。雑用をいくつか。届いた荷物などを点検。金成由美さん、詰めにくいさんという関西の知人二名の著書となる『旅の指さし会話帳・国内編2 大阪』が情報センター出版局から届いていた。とにかく、内容がギチギチに詰まっており、例文の全て、いや、それどころか中に出てきているほぼ、全ての言葉に大阪弁でのアクセントラインが引いてあって、この線にしたがってイントネーションをつければ、すぐにでもネイティブ大阪人と話が出来るという(ないと出来んのか)スグレモノ。著者の一人である詰めにくいさんは何しろ外国語(しかも確かサンスクリット語)の博士号収得者なので、その文法解説などは、真面目な語学本のパロディとしても充分に楽しめる。……しかしこのお二人、特に金成さんとは、裏モノ会議室開設当初からのおつきあいで、つまりもう十数年もの裏仲間なのだが、この本の解説によると、この二人が知り合ったのはその『裏モノ会議室』で、なのだそうだ。おまけに、この本を編集したのも、同じ裏モノで知り合ったトリケラさんだとか。濃い才能同士を結びつける触媒としての働きが出 来たわけで、なかなか嬉しい。
12時半、家を出て半蔵門線で神保町。途中、雨がパラつきはじめ、コンビニで傘を買う。このあいだのようなひどい降りにはならなかった。まずは古書会館へ。今日は洋書バーゲンで、いつもに比べると閑散としたものだったが、一応のぞくだけはのぞく。やはりのぞくもので、悪趣味系コレクション本、西部訛り辞典、それと『アトミック・カクテル』なるモダン・エイジカクテルレシピ集など、案外いいものが見つかった。それから『ランチョン』のランチ。エロ本屋をその後、何軒か回る。資料収 集のためだが、さしていいものはなし。
左足の膝関節がまた痛くなった。雨の日のためか、単なる老化か。何にせよ、もともとが病気で変形している足なのだから、やがて神保町歩きも出来なくなる日が来ることは確かである。今のうちにせっせと回っておくべし。表参道駅まで半蔵門線で戻り、タクシーで帰宅。なぜ表参道駅かというと、この駅は地上まで一切階段を使わずにエスカレーターの乗り継ぎのみで上れるからである。足が痛んだときのお勧め駅。
帰宅して、寝転がり、読書。行儀が悪いようだが、居間にあったソファを、ブツが大量になって置き場所ふさぎになったので撤去して以来、寝室がわが家唯一の読書室になってしまっているからである。今日の残りは、ひたすら山本弘『神は沈黙せず』を読み終えることにあてるつもり。しかし、寝転がって読むには不向きな本である。原稿用紙にして1300枚、単行本上下二段組で500頁に及ぶ長編である。しかもいま、読んでいるのはゲラコピーを書評用に仮製本したものなので、かなり実際の本より大きく、紙質も厚い。ずっしりと腕に重みが伝わってくるが、それは単なる物理的な持ち重りというだけでなく、つまった内容の重さでもある。登場人物の一人であ る超常現象研究家の老人が
「私は本のずしっとくる重みに情報の重さを感じるんですよ。(中略)この脚で本屋を回って手に入れた本、金を払った本には、やはりそれなりの価値が感じられるんで す」
と語るくだりがあるが、それをはからずも実感した。
先に、この作品をビルドゥングス・ロマンと評した。ビルドゥングスとは主人公が文字通り、作品中のストーリィを通じ人格を形成・成長させていく物語なのだが、これを日本ではなぜか“教養小説”と訳す伝統がある。そう、この本にはソッチの意味での教養がつまっている。いや、つまりすぎてあふれかえっている。もちろん、著者の本領であるところの、UFO、オカルト、心霊現象、そしてそれらにハマッたトンデモさんたちについての教養である。ひとつの事項がストーリィの展開上、話題にのぼるとすると、普通ならば(※)とかつけて欄外とか巻末にまとめて注釈を入れるところを、この作品は全部、作中で懇切丁寧に解説する。京極夏彦あたりから流行りだしたウンチク小説の系譜につらなるものだろうが、この作品はそれが極めて徹底している。その徹底ぶりが、あるときはキャラクター描写を多少ゆがめ、あるときは話の展開の脚をひっぱるようなことがあっても、著者はそこでの解説に手を抜かない。昔開高健が、007シリーズ中の執拗な銃と車のウンチクに“ポルノグラフィではなくてガンノグラフィ、カーログラフィ”と称したことがあったが、この作品はまさに、 “トンデモグラフィ”と言えるだろう。
この作品の形式は、比較するにはまったく著者同士の資質を異にするのでちょっと不都合なのだが、丸谷才一の小説のそれに相似している。丸谷の最新作である『輝く日の宮』が小説の形式をとった源氏物語論だったのと同じく、この『神は沈黙せず』は、小説の形式をとった山本弘のトンデモ現象論なのだ。書評家の向井敏は丸谷才一の小説を、常に“小説の体裁をとったエッセイないし批評”として読んできた、と告白しているが、私も山本弘作品、例えば『ギャラクシートリッパー美葉』シリーズなどをそう読んできた。そして、『輝く日の宮』の大方の書評が“作中の源氏物語論は秀逸だが、その周辺の小説的展開は平凡”というものであったのに比べ、この『神は沈黙せず』は、見事に、作中の仮説と、ストーリィ立がシンクロしている、まぎれもない“小説”なのだ。結構を破綻させるかとこちらを心配させるまでに作中に散りばめられる、そのエッセイ的な“情報”同士が、やがて緻密に結びつきはじめ、意味をなしてくるあたりの、ゾクゾクする興奮。かつてわれわれがハヤカワの銀背に没頭していたときに感じた、“知識”と“大胆な仮説”と、そして“エンタテインメント” の幸福な結合、という読書の快楽を味あわせてくれるのである。
作者が元ネタとして『フェッセンデンの宇宙』を挙げているように、濃いSF読者ならば、この作品のキモのアイデアに関しては類型をいくつも挙げられるだろう。だが、この作品のオリジナル性は、悪役が、主人公に向かってその野望を開陳してみせるあたりであらわになる。ミステリに求められる要素のひとつに“意外な動機”というやつがあるが、これはミステリの中で最も難しいもののひとつで、そう易々と考えつけるものではない。現実にあっては、人間はそう変な理由で犯罪を犯したりはしないし、世界名作と呼ばれる作品でも、まず大抵は欲か女か復讐か、この三つに集約される(これに加えてゲーム感覚というのが時折加わるくらいか)。この作品中の悪役の、社会を混乱させ、日本の政治体制を根底から破壊し、主人公を破滅の瀬戸際まで陥れるその悪事の動機というのが、とにかくスゴい。SFならではという発想で、これまでにまず、管見の限りではどんな作品でも描かれたことのなかった破天荒なアイデアである。もちろん、これはこの作品内でしか使えない。究極のオリジナル動機なのだ。SFファンであることの幸福は、こういうトンデモないアイデアに出会ったと きに感じられるものだろう。
もちろん、不満も多々、あることはある。その悪役も含めて、登場人物たちの性格設定があまりに類型的なこと、先日も記したが、主人公の思考や主張があまりに作者とアイソモーフィック(同型)すぎて、彼女を“善”として描いている場面は読んでいていささかのテレを感じてしまうこと、冒頭の引用句(普通、古典とかから採る)が『宇宙船レッドドワーフ号』のセリフから、というところに見えるように、あまりに著者の趣味が出過ぎというようなところ、“神”の実在が証明されたあとの世界の混乱が、あまりに少なすぎるのではないかと思われること(“あまりに”が“あまりに”多いことでもわかるように、この作品は長所ばかりでなく欠点も突出しているのだ)、そして、星占いを“あまりに”憎みすぎてちょっと白けて(最後の最後でまでダメ押しをしなくても)しまうこと……と、それは小説としてのアラを探せばいくらも出てくるだろう。だが、私がいつも主張しているように、ポルノ小説は小説である前にまず、ポルノ小説であるべきであり、怪獣映画は、映画である前にまず、怪獣映画でなくてはならない。現代日本SFの父、福島正美の“SF小説は、まず小説だ”という定義に反するようだが、この作品は、小説的にどうこう言う前にまず、SF小説としてどうこう言わなければならない作品なのである。そこを無視してウンヌンする批評は意味がない。なにしろ、トンデモ本シリーズの執筆者紹介でもご承知のように、著者は常に肩書を“SF作家”としている。“作家”ではないんである。
読み終えて、ふうと天井を見つめた。こういう作品を読むと、自分も猛烈に何かを書きたくなる。物書きとしてのライバル心がまだ残っているわけで、ややうれしい。8時、神山町『華暦』。平塚くんがK子の仕事場のパソコンのメンテをやってくれているので、その帰りに(と、いうかまだ途中らしいが)夫妻と食事。平塚夫妻はこのあいだ、念願の“さんなみ”に言ってきたそうで、さんなみばなしをしながら華暦のメシを食うという、いささかここの店には悪いことになる。とはいえ、私にも経験があるが、あれはとまらない。イカの身の厚かったこと、甘エビのおいしかったこと、土瓶蒸しのこと、などなどなどを陶酔したように二人、語る。K子が余裕を持ってこれを聞き流していたのは、来月末に、こっちはなんと能登三泊四日(さんなみ二泊、フラット一泊)という大旅行の計画があるからであろう。おでん、軟骨唐揚げ、カク アジ、ホッキ貝、それに肉じゃがなどで日本酒、やや控えめに。