5日
日曜日
ジェイソン時代の真ん中は
金曜までの半日で 答を出すと言うけれど あなたが殺した人々を 何ではかればいいのだろう ジェイソン時代が夢なんて あとからこわごわ思うもの ジェイソン時代の真ん中は 刃物振るっているばかり〜。朝、7時起床。4時ころに凄まじい全身の筋肉痛で目を覚まし、これは明日はひどい状態になりそうだ、と憂鬱だったのだが、朝になってみればそういうこともなく、快調。あれだけ叩いて腫れ上がるかと思われた掌も別段異常なし。まだ肉体的にはそう老けてはいないのだな、と安心。
朝ご飯は8時からである。ひと風呂浴びてこようかと廊下を出ると、S井さんの後ろ姿が見えた。今入って上がればアバレンジャーに間に合い、見終わったところで朝食の時間にピッタリである。オタクの考えることは大体同じである。二人で朝の冷たい空気の中で露天風呂。実に気持ちがいい。この風呂の壁に、天竜ライン下りの宣伝写真と、『天竜下り』の歌詞が書かれた看板がかかっている。市丸の歌、中山晋平の 曲で
「天竜下れば しぶきがかかる 咲いた皐月に 咲いた皐月に紅の橋」
というもので、昭和初期の新民謡運動の中の一曲だが、まず人口に膾炙された部類であろう。この看板も1999年に初めてこのホテルに泊まってから五年にわたって見続けているわけだが、今回初めて、作詞が長田幹彦であることに気がついた。長田幹彦と言えば祇園を舞台にした遊蕩小説の大家だが、『祇園小唄』などの作詞でも大ヒットを飛ばし、さらに自作『新金色夜叉』の映画を監督までした多才な人。同時に日本でも有数の心霊研究家であり、莫大な印税収入を存分に注ぎ込んだであろうその研究の成果(?)は『幽霊インタービュー』『心霊』『心霊五十年』といった著作にまとめられている。と学会にはちと遠回りながら信濃は縁のある土地であったと言えるわけか。長田幹彦は大の新しもの好きで、映画の他に、大正14年、ラジオ放送が開始されるとすぐさまそれに飛びつき、愛宕山の東京放送局(NHKの前身)の顧問にまでなって、ラジオドラマ制作に精魂を傾けた。心霊研究というのも、当時はそういう、新しもの好きの飛びつくメディアだったわけである。風呂あがり、脱衣所に置いてある無料足裏マッサージ機が気持ちいいとS井さん言うので、私もしばらくやってみる。突起のある球体がリズミカルに足裏を叩き、くすぐったいが体がほぐれる感 じがする。
部屋に帰ってテレビをつけるが、足の裏のほぐれた気持ちよさなのか、また寝入ってしまう。アバレンジャーは見のがした。8時、下の食堂で朝食。メニューは変わらず、山くらげ、椎茸の煮付け、塩ブリ、ノリ、納豆、ヒジキといったものにナメコの味噌汁など。少し食堂が改装されていた。納豆がうまくてご飯二膳。あやさんが“天竜下りしようよ〜!”と張り切っていたが開田さん、かなりバテているようで“一人でしてこいよ”と疲れた声で言う。改装と言えば、二階のベランダ部分にこのあいだまで置いてあった、トナカイの電飾(たぶんクリスマス季節のもの)が、今年はなくなっており、撤去されたかと思っていたら、玄関に移されていた。また、夜間の入り口回りの照明灯を消すようにしたらしく、毎朝ここで見ていた、ヤママユの死骸の散 乱はなくなったようだ。
部屋に帰り、また横になってダラダラと。10時ころロビーに下りる。談之助さんが新聞見て、“貞丈さん(一龍斎)が死にましたね”と言う。75歳。先代の神田山陽が2000年に亡くなったとき91歳であったから、そんなに年の差があったのかと、ちょっと驚く。談之助さんも私も、若い頃新宿末広に通いつめていたが、あそこに出てくる講談と言えば、貞丈(落語協会)と山陽(芸術協会)であった。大して年が違わないと思っていたのである。“親父さん(五代目貞丈)はうまかったけど、この人は下手だった”と談之助。そう、寛永三馬術とか徂徠豆腐とか赤穂義士伝をよく聞いたものだったが、口調がどこかベタベタしていて、スピード感がなく、聞くたびに“ああ、講談というのは過去の芸なんだな”と思ってしまった。同じ一龍斎でも、例えば貞鳳などの現代的な講談をもっとナマで聞く機会を持っていれば、私はひょっとして講釈師の道に飛び込んでいったかも知れなかった、と思う。それを思うと、私の人生をある意味変えた人かもしれない。
それからしばらく、今度はロビーに置いてある足裏マッサージ機も試してみる。こちらは有料で、足裏のツボを棒が指圧するというものだが、やたら痛く、ギャッと叫び声をあげる。朝日新聞を見ていた談之助さんがまた、“あれ、カラサワさんの本が取り上げられてますよ”というので見てみたら、書評欄に『裏モノ日記』の評と紹介が載っていた。かなり褒めてくれているのだが、掲載位地が読書欄見開きの左最下段で、しかもカットで他の書評とは切り離している。“あくまで別ワクで、他に取り上げた良書群と一緒にしているわけではありません”と言い訳をしているかのようで、ちょっと苦笑。無署名評だが、評者は、このウェブ日記の愛読者らしい。ざっとその書評欄全体を読む。木下直之氏は以前は読売の書評担当をしていたのが朝日に移ったらしい。自著を取り上げてくれた欄のことをこう評するのはまことに心苦しいが、取り上げる本の種類の朝日的偏向が凄まじく、読んで頭がクラクラしてきた。
宿賃払い、来年はと学会でツアーを組もう、などと話し合いつつ、迎えに来てくれたヒコク氏のバンに無理矢理8人乗り込んで、『しなの路』へ。K子はもう、車窓からここの飼い犬の“小春”の姿が見えたとたんに“小春、こはる〜”と大はしゃぎ。物好きにもこの犬もまあ、K子になつき、ハッハッと息をついて足元にまつわりつきうれしそうに駆け回る。みんな、“ソルボンヌさんがあんな優しい表情になるとは”と呆れている。K子に言わせると、“あたし、媚びを売ってくる奴が大好き”なのだそうだが。やがて昨日の新聞社氏も来て、また分乗(と、言っても分乗は談之助さん一人)で、おなじみの蕎麦処『末廣庵』へ。途中、道路沿いにあるドラッグストアに寄る。と学会の飲食物担当のS井さんが、“波動強命水『活』”というやつの看板が立っていたのを昨日見て、是非買ってみたい、と、出かけていたのだ。入り口に車を停めて待っていたら、やがて手ぶらで出てくる。“買わないの?”と訊くと、“三百ミリリットルで二千円もする。高すぎ”とのこと。と学会は趣味の集団で、マニアッ クなコレクターの寄り集まりではないんである。
再び出発、末廣庵へ。例の三遊亭白鳥似の親父のコンクリ像は、ペンキを重ね塗りされてお色直しされていた。ただし、今年は本物の親父の姿は見えず。地ビールで乾杯。これまで、ここの蕎麦屋ではつきだしがワサビ菜で、これが非常にうまくてビールにピッタリだったのだが、今年はナスに変わっていた。貼り紙があって、今年から“蕎麦の味をより純粋に味わっていただくため”ワサビはつけないことにしたのだそうである。してみると、あのワサビ菜は自家製だったのか。蕎麦は当然、末廣盛りの三人前がドカッと盛られているやつ。香を愛でながら、するすると腹に入れる。するとK子が、“これも食べて”と、自分の残したやつをよこす。最初から一人前を頼めばいいものを、他の人間が自分よりたくさん美味しいものを食べるのが我慢できないらしい。木下ヒコクと分け合って食べたが、さすがに蕎麦が喉のところまで詰まった 感じがした。
記念写真撮って、山を下りる。道筋にあったカネゴン像も撤去されていて、やや寂しい。ただし、天気はすさまじくよろしく、山のさわやかさを徹底して満喫。道筋に“馬肉、猪肉、キジ肉”と書かれた看板の店がある。来年はここに寄ってみたい。もう一度しなの路に戻り、バスの時間を一時間早める算段を木下さんと談之助さんに頼む。これが正解で、帰りに凄まじい渋滞に巻き込まれたので、これがなければ虎の子での待ち合わせに遅れるところであった。木下さんには『壁際の名言』にサインして進呈。新聞社氏は、『トンデモ一行知識の世界』と『お父さんたちの好色広告』を持 参してきたので、これにもサインを。
無事にひとバス早められたが、そうなると買い物の時間が少なくなる。バスストップ付属の“りんごの里”なる土産物屋を急いで回る。今日はここで“伊那のうまいもの展”をやっているので、確か以前はここで豚ホルモンがあった筈、と思って見るとやはりあった。ガスコンロで焼いて実演している。虎の子のキミさんがホルモンマニアなので、早速買って帰ろうとしたら、農協の職員が、“販売はしてないんです”と言う。商品宣伝のための実演のみだとやら。間抜けな話で、地域住民の集まる場所ならともかく、土産物屋というのは大抵が一見の客ばかりであろう。そこで伊那農協の品を宣伝したからといって、なんの宣伝になるのだ。実演用のものでもいいから、ひと袋くらい融通してくれないかと頼んだが、ダメだという。これだから田舎の農協などというところの連中は、とフテクサレ、“せめて食べていってください”と差し出された、焼いたものも口にせずにその場を立ち去る。K子は、梨の販売コーナーで二十世紀を一口食べて、“こんな安物じゃダメ、1個500円の長野梨が高野にあるのに、どうしてここにはないのッ?”と怒っている。“新宿の高野さんにはウチが卸しているんですが……”と係が言うと、“オマエは自分で卸しておきながらーッ”と、 首を絞めかねない勢いであった。
恒例で、おいしいものの産地から帰った夜は、それを料理してくれる店に持ち込んで、そこで宴会ということにしている。旅を100パーセント楽しむためのアイデアであった。今回は虎の子にお願いしたので、キノコ類、野菜類、それから鯉の味噌漬けなどを買い込む。傘の差し渡しが20センチはある何を買ったかを携帯でキミさんに連絡。こういうときのK子は企画魔と化す。木下さんにどうもどうもとご挨拶、そしてバスに乗り込む。帰りの車内はいつもはしゃぎすぎた揺り戻しで皆ぐったり。K子と談之助さんだけが元気で、次 の旅行の計画などを話し合っていた。
双葉サービスエリア、目印は高い電波塔なのだが、この位地が行きと微妙に違う。聞いて初めて気がついたのだが、このサービスエリア、隣接して、上り用と下り用の設備があり、両者が入り交じらないように区画を隔てているのである。バス利用者が間違わないためもあるだろうし、乗車詐欺を防ぐためでもあるのだろうが、その建物が、入っている店も(ベーカリーも)出店も、全く同じものであるため、これまで、ちょっとした違いに“あれ?”とは思っても、気づかないでいた。まさか二つ、そっくり同じ施設が建てられているとは。エラリー・クイーンのミステリのトリックみたいである。駐車場ワキの物産売場の形はちょっと、違う。ここにいい杉ナメコが売っ ていたので、これも虎の子用に、と買い込む。
渋滞、高速の半ばあたりからはじまって、みんなダレ。おまけに事故が休日でいくつもある。1時15分に伊賀良を立って、新宿到着が6時半だった。FKJさんはここで明日の仕事のため帰宅。残りの面子はタクシーで下北沢。買った素材を預けて、大酒盛り大会(地酒を買ってくるのを忘れた)。他の参加者はもりもとさん、モモさん、仙台から上京のあのつさん、それとと学会のI矢さん、T橋さん、植木不等式さん。もりもとさんは『壁際の名言』にあったデュマのセリフの出典がガイ・エンドアの『パリの王様・デュマ物語』ではないかと考察して、そのコピーを持参してきてくれた。I矢くんは例によってワイン持参だが、K子たちのテーブルに取られて、ほと んどこちらまでには回らず。
虎の子の宴会の模様に関してはモモさんがこのサイトの『堪能倶楽部2003』に詳しく、また感動あふれる詳細報告をしているので省略。料理名のみ記すと、まず料理が出来るまでのつなぎを鶏の土手煮、刺し盛り、地鶏醤油焼きなどでやって、それから、鯉の味噌漬け焼き、キノコ鍋、茗荷焼き、茗荷生ハム巻、長茄子のピリカラ、蒟蒻の炒り煮、サラダ牛蒡のサラダ。〆は鍋の汁を使った讃岐饂飩。長野のプチトマトと仙台のプチトマト対決もあったが、やはり農家の自分家用だけあって仙台の勝ち というところか。10時帰宅、へろへろで就寝。