裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

4日

土曜日

何が彼女を捜査させたか

 アリバイにかなりあやふやなところがありましてね。朝6時起き。やや眠いが、昨日出来なかった仕儀とを済ませねばならぬ。朝食、枝豆とハツカダイコンで済ませ、入浴、洗顔あわただしく終える。メールを見てみたら、仕事関連で二十数通のメールが来ているので仰天。ありがたい協力メールなのだが、まるで祭(2ちゃん用語で、レスが殺到して書き込み者たちが異常な興奮に陥っている状態)である。これらを整 理し、発信者にお礼と今後の方針を書いてMLにアップ。

 これらの報告を済ませたのが9時20分。本日の長野旅行の集合が11時45分なので、10時20分には家を出る、とK子言う。それまでに、と、Web現代原稿を書き出す。普通は11枚の原稿であれば3時間弱が平均の執筆速度だが、こういうときはアドレナリンが噴出する。それほどダダダ、とキーを叩いた記憶もないが、なんとか1時間10分で、11枚を書き上げた。ざっと読み返してみるが、さほど文章も荒れていない。そのまま講談社へメールする。とはいえ、出発は10分遅れとなり、 K子に叱られる。

 タクシーで新宿西口まで。すでに京王デパート前に全員(談之助夫妻、開田夫妻、と学会S井氏、FKJ氏)揃っていた。すぐに12時発の京王バスで、長野・伊賀良に出発。昨日徹夜で仕事をして、一睡もしなかったという開田さんは速攻でグーと寝入っていた。談之助さんたちと馬鹿話しながら、4時間の呑気な旅。K子はもう、次のさんなみ旅行のスケジュールをS井さんと打ち合わせている。毎年恒例の長野旅行はこれまでずっと好天に恵まれているが、今年は殊に秋晴れのさわやか極まる空で、窓外を眺めているだけでまったく飽きない。道も空いていて、ぐんぐんバスは飛ばして行き、2時間ちょっとで双葉サービスエリアに到着。ここは長野に通いはじめた当初は単なる休息所兼おみやげ売場で、農産物なども段ボールに入ったまま売られていたが、だんだん整備されキレイになり、地方色がなくなってしまった。ベーカリーなどもあり、焼きたてのオシャレなパンなど売っているが、旅行者しか立ち寄らないようなこういう場所で、一番商品価値があるのは地方らしさ、都会的な匂いを出来るだけ感じさせないことだと、どうしてわからないのか。わからないところが田舎の田舎 たる所以か、とも思うが。

 そこからさらに一時間半、時間としてはやけに早々と伊賀良到着。もっと夕方近くに来ると思ったらしく、いつも迎えに来てくれる食堂『しなの路』の木下さんも、まだ仕事中だとかで連絡つかない。とりあえず、タクシー分乗して『しなの路』へ。奥さんに挨拶し、予定打ち合わせ、宿泊先のおなじみのホテル『久米川』へ。もう五年 以上利用して、すっかりこのホテルもおなじみである。

 30分程度しか時間がなかったが、開田さんとざっと浴場で風呂を浴びる。青空を眺めつつの露天風呂もなかなか結構。部屋ではK子がモバイルをやっているが、電波受信状態が極めて悪く、つながってもすぐ切れてしまうとか。私宛に、なんと飯田地方出身のこの日記の読者のHという人(現在は東京の大学院生)が、『見晴』が休業という昨日アップした日記を読んで、この近辺における、他の鯉料理のうまい店を紹介した情報をメールしてきてくれていた。飯田近辺では“客が来たらあそこの鯉料理を食べさせておけば大丈夫”と認められており、しかもネットなどではほとんど情報の流れていない、知る人ぞ知る、の店であるらしい。まったく読者は有り難い。残念ながら、今回はしなの路の奥さんが代わりに食事を用意してくれているので、そっちまで足を延ばす余裕はないが、どこかの雑誌で伊賀良vs.飯田で鯉料理食べくらべ 記事などを企画して、絶対行ってみよう、と決意。

 しなの路の料理は猪鍋。味噌仕立てで、定番のコンニャクと煮てある。スープに猪の出汁が溶けて、まことにうまい。他に馬刺、野沢菜、ギョウジャニンニクなど。サラダで、海草の寒天らしいが、見かけは白滝か春雨なのに、歯で噛んだ感触がキュウリのようにポリポリしているものがあり、みんな珍しがっていた。食べるともう、花火見物の時間である。地元の新聞社の人(私のファンであるらしい)と木下さんのバンに分乗(と、言っても新聞社さんの車は配達用の2人乗り小型自動車なので、談之助さんしか乗れない)し、去年と同じ下殿岡村へ。まず、そこの神社にお参りする。煙火(ここでは花火をこう称する)を奉納する代表者たちがここの神前でまず、煙火を打ち上げて奉納の皮切りとするのである。委員長である木下さんの平八伯父さんという人に紹介され、挨拶。“この花火はワシが一人で火薬詰めて作ったンだ”と、満面笑みを浮かべて教えてくれる。今回はわれわれは“堪能倶楽部”の名前でスターマインを奉納しているので、まず、お参りをしなくてはならない。委員会の人たちは、東京から花火を奉納してくれる人たちが来た、というので何か大変感激してくれてい る。

 なかんずく、そのスタッフの一人の60代くらいのおじさんが、“雑誌に載っけてくれたのは誰?”と言ってきたので“私ですが”と言ったら、握手を求められた。雑誌に書いたというのはSFマガジンの『猿たちの迷い道』でのことなのだが、このおじさんは、行きつけの床屋でそのSFマガジンを読んだ、という報告を受け、急いでその床屋に行って記事を確認し、“あの雑誌は字が小さいもんで、ウチは年寄りが多いもんだから”A4の大きさに拡大コピーして、地元煙火会のみなに配って歩いて、
「東京の雑誌にウチの村のことが載った」
 と大喜びだったという。喜んでくれたことも望外のうれしさであるが、それよりも私をして感動させたのは、伊賀良の床屋にはSFマガジンが置いてある、という事実であった。田舎々々と馬鹿にするものではない、東京広しと言えど、待合いコーナーにSFマガジンを常備しているヘアサロンがいったいどれだけあるか? おお、伊賀良の文化都市なることよ、と私は心に深い感動を味わったのである。S澤編集長(彼も確か長野出身ではなかったか)、やはり来年は、SFマガジンの名でイッパツ、ス ターマインを打ち上げねばなりませんぜ。

 そんなわけで今年は例年に増して待遇がよろしく、長野の銘酒喜久水の薦被りをいただいて味わいながら、去年と同じ場所に陣取る。去年来ていないK子は、目の前の仕掛け花火にちと恐怖していた。火避け装束はみな徹底していて、開田夫妻は去年、首筋に火花が飛び込んだと言うので、メタルカラーの襟当てを用意しており、FKJさんは工場で使うやはり耐火性生地のつなぎに、防災用の頭巾みたいなものという、火消し人足のお化けみたいな格好でカメラを構えている。K子はドテラ姿だが、私は 木下さんの、もう何度も火の下をくぐっていそうなジャンパーを借りて着た。

 花火の模様は、去年の日記(10月5日の項)を参照していただきたい。ほとんどあれと同様である。ただ、当2003年は某アニメキャラの誕生年だというので、それにちなんだ仕掛け花火がメインにあったのと、さすがにタマちゃんは旬が過ぎて、現れなかったことくらいが違いか。そして、100発近い打ち上げ花火の、90何番目に、出ました、“東京 堪能倶楽部の にぎわい”。私の書いて送った堪能倶楽部紹介がなんとマイクで朗読された。てっきり、伊賀良の町内誌かなんかに載るものだと思っていた。放送用なら、もっと派手に“在東京の大売れっ子作家、人気落語家、大画伯等による……”とか書けばよかった。紹介のあとドンドン、と連続して花火が打ち上げられ、UFO(クルクルと輪を描いて飛ぶ)が何機も夜空に飛翔する。花火自体は普通のスターマインなのだが、わがものと思えば軽し傘の雪、で、これが自分たちの金で打ち上げたものか、と思うと、なかなかの感慨である。開田さんも“やはり色も光も違って見えるねえ”と。ただ、次のスターマインが、やたら奉納者が多く豪華なものであったため、ちょっとカスんだ感じもする。来年は出資者をも少し集め ようか、とS井さんたちと企画。

 そして最後の第三国、厳重に火除けゴーグルをかけ、首筋にはタオル、手には(前回は化繊のを持っていって失敗したので)純綿の軍手、という格好で火花の中に飛び込む。なんと今回はわれわれに小さい太鼓御輿(箱をドンドン叩いて音を出す)がほら、という感じで預けられ、他の二基の大御輿と共に火の中に飛び込まされた。開田さん、S井さん、FKJさんがかつぎ、あやさんが拍子木を叩き、私が箱の脇をドンドコ叩いて、“ワッショイ、ワッショイ”と叫びながら、落ちてくる火花の中に突っ込む。途中で御輿の上に飾られている大きな御幣がボーッと燃えだして、それがかついでいる者の顔や手に降りかかってくる。みんな“アチ、アチチチチ”と言いながら もうヤケクソ的に火の中に踊り込む。

 終わって、御輿を川(農業用水路だが)にザバン、と投げ込んでおしまい。服などの焼けこげをみな確認しあうが、軍手をはめた手で拍手をしていたら、その両の掌の間に火花が挟み込まれたらしい。いくつか穴が開いていた。化繊では溶けて火の粉がくっつくので、純綿のものにしたのだが、自分で挟み込んで焦げを作ってしまっていた。

 平八おじさんが、ぜひワシの家に寄っていってくれ、と言うので、みんなでその家にお邪魔する。この平八さんは一族の長老格らしく、その家というのがかなり立派な作りである。玄関の近くには、3メートルはある大きな石灯籠が飾られ、座敷も立派なもの。家は新しいのだが、様式が昭和30年代という感じで、ああ、子供の頃の家ってこうだったよなあという感覚に陥る。この家の主である平八氏はまだ煙火スタッフと打ち上げをしていて、家には家人が誰もおらず、親戚、近所の人達が勝手に上がって、われわれに酒を出したりしている。ここらへん、都会では考えられない融通である。親戚の人たちの鮎釣り談義などを伺う。

 ある意味非常に懐かしいのは、どの部屋にも温泉旅行の際のおみやげのコケシとかがずらりと並べられていることで、それに混じって孫のオモチャのピカチュウなどが並んでいるのは、いずこにもあった光景。ただ、この家ほどのモノモチになると、その並んでいるものがハンパではなく、狸やキウイの本物の剥製もあり、巨大なアイヌの木彫りもあり、また巨大な朝鮮人参のアルコール漬けもあり、なにか通俗を通り抜けた、堂々たるキッチュの王道といった気がしてくるのが妙。二階のアトリエにも通されて、“雅峰”という号も持つ平八おじさんの書と水墨画を見せていただく。

 書の方は俗を脱して見事なもの(茶室には“天照皇大神”の書あり)だが、絵の方はいわゆる水墨画の基礎のない人が描いたらこうなるという感じの、単色の水彩画のような、稚拙さの方が目立つ感じではあるが、そこがまた趣、と言えなくもない。通俗は極めれば粋を突き抜ける。とはいえ、こういう気取らない、どっしりした故郷の頼もしさのようなものをひさびさに味わった。まだ平八おじさんは帰ってきていないのだが、時間も遅いし、と挨拶して、寄合所でおじさんに挨拶し、帰宿する。

 ホテルに帰り、硝煙に燻った体を温泉で洗い流し、部屋でみんなでしなの路の料理の残りや煎餅などでダベリ会。旅の開放感と花火の興奮の余韻と温泉のぬくもりと酒の酔いとで、話もはずみ、12時過ぎだからみんな寝なさい、とK子が引率の教師のようなことを言うまで、オトナとコドモが相混じったような感じのワイワイで、非常に楽しい夜を過ごした。箱太鼓を手のひらでドンドコ叩いていたので、明日は手が腫れるか、とちと心配。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa