1日
水曜日
プチブルよ熱く君を語れ
左翼にいいだけ言われている時代は終わった! 朝、7時45分起床、頭少しズキズキ。酒が残っているか? それでも朝食はしっかり食べる(貝柱粥、二十世紀)。秋晴れのすがすがしい朝。仕事机の窓外に、赤トンボがスイスイと舞う。談之助さんから電話、長野の花火の件。
日記の後れをとりもどすべくせっせと書くが、やたら長くなって困る。いくつか、書き漏らした噂話など。あくまでもウワサなので信憑性は保証せず。
・例のFM波地震予知の串田氏に某テレビ局もかなり入れ込んでいるそうで、もう何年も前から、あの人の天文台で“○月、××地方で大地震”という予測が出るたびにクルーを現地に送り込んでいるとやら。ところが不思議なことに、地震、来ることは来ても、必ず微妙にズレるんだそうで。日にちが違ったり、場所が違ったり。もう何年もやっているってことは、それだけ“見方によっては当たったのでは……”という結果が出ているのだが、一回もドンピシャがない。結句、その局は串田さんのために数千万の赤字を背負ってしまっており、あと一年以内くらいに当たってくれないと、という状態らしい。他の部署からは串田予知追跡は“OKプロジェクト”と呼ばれていて、何の略かというと“「狼が来た」プロジェクト”。地震など来てくれないのが一番なのに、追っている方としては“きてくれないと困る”状態。報道というものののジレンマである。
・もうひとつ、某出版社ではなにわのジョーこと辰吉丈一郎の写真集を出版したのだが、書店での売り上げはサッパリ。在庫を抱えてしまったので、先日の辰吉の試合会 場に持ち込んで売ってみたところ、ファンたちに「こんなんがあったんかー!」 と感激され、たちまち400冊が完売したとか。要するに、辰吉のファンは本屋などに行かない連中ばかりなのであった。これは妙に納得できるような事実で、笑ってしまった。
12時半に家を出て、銀座で少しばかり雑用。昼飯をどうしようかと裏通りをあちこちあるき、歩き疲れて洋食屋『あずま』でオムライスを食べる。ふわふわ卵がおいしいが、油分たくさんあるだろうなあ、と体重を気にしつつ。帰路の地下鉄車内で、大友浩『花は志ん朝』(ぴあ)読了。俗に“現代性の談志、伝統の志ん朝”と並び称される二人の芸だが、実はジャズという共通の趣味ひとつとっても、談志はノスタルジーを基本にしたディキシーに固執し、志ん朝はその時々で聴いて面白いと思ったスイングからビッグバンド、ビ・バップ等のモダンジャズと、実際は談志の方がベクトルが過去に向かっており、志ん朝の方に古典を現代に合わせていく進取の気風があったのではないか、という指摘には膝を打つ。逆に言うと、そこにもっと焦点を合わせてその一点から志ん朝を描き切れば、この本はこれまでの志ん朝像を根底からくつがえし、わかりやすいと従来されていながら、その実きわめて巧みな韜晦の彼方にあって実像が見えにくかった志ん朝像を初めて明確にし得た傑作になったのではあるまいか、と思えて仕方がない。多角的に志ん朝像をとらえようとして、あちこちに散りばめられたキーワード(フラジャイルとか)が、かえって一般の落語ファンには、この 評伝の中での志ん朝像をぼやけさせているような気がするのである。
一般に、恵まれた成長期を送った人物の方がノスタルジストになると言われているが、実際のノスタルジストというのは、失われた(あるいはもとから喪失していた)過去を再構築しようという動機がその底にあるような気がする。志ん生を父に持つという、落語マニアにとっては夢のような境遇にあった志ん朝へのジェラシーが、談志の、自分が経験し得た過去を美化しようという意識をより強烈に発動させて、『夢の寄席』のような名企画を実現させたのではあるまいか。
社会派くん対談今月分がテープ起こしされて送られてきたので、手を入れる。阪神ファンが道頓堀に飛び込むのは、あれが本当の捨身飼虎だ、とか、80年代ニューアカ・ブームの無内容さが90年代の知識・教養ばなれを起こし、それでも人間の根底の知識欲だけが本能として残り、餓えを感じていたところにトリビアがうまくハマッたのが00年代だ、とか、池田小学校で危機管理システムを完備させて、校内に二百箇所の緊急連絡ボタンを設置したとか言ってるが、あんな宅間みたいな化け物が襲ってくるのは一世紀に一回あるかないかだから、必要あるのか、そんなの、とか、まあ そんな話が今回も満載。
http://www.shakaihakun.com/data/
6時半、東武ホテルにて、株式会社メディア・ウィザードS氏と会談。S氏、などと書いたが、実は元・ニフティのコメディ・フォーラムの主催者、WAYA氏のことである。一時は詐欺事件に巻き込まれたり、病気になって失明しかけたりと、悪い話ばかりが伝わってきて心配していたのだが、無事復活したようで目出度し。この会社で出している六本木情報マガジンの、ネット版を作るにあたって、雑学マンガを日替わりで連載してほしいという依頼。ネット配信会社のN社長と共に、その打ち合わせである。本家の情報マガジンの部数を聞いてちとたまげる。六本木という限られた空間の情報誌にそれだけのニーズがあるのか、と感嘆すると同時に、やはり情報というのは狭いレンジの中のものが最も価値がある、という以前からの主張の証明になったような気がして意を強くする。マンガの件、月三十本というのはキツイかも知れないが、仕事というのは多少無理を必要とするようなものが正常な仕事である。“まあ、そういうのでしたらウチが本家ですから”みたいな大きなことを言って引き受ける。
打ち合わせ終わり、渋谷へ。駅前でK子、あやさんと待ち合わせて、東横線で武蔵小杉。駅でと学会のI矢氏と待ち合わせ。そこの売店の文庫棚に、あやさんが執筆している官能アンソロジーがあった。売店のおばさん、“あら、彼女作家さんなの? へえ、官能書いてんの?”と、作家という職業を初めて見たらしく、やたら感心していた。駅前のユニクロを冷やかし、元住吉『おれんち』へ。途中でみなみさんとモモさんが追いついてきた。昨日、チョウザメの席で誘った植木不等式氏が皆神龍太郎氏と先に来ていて、すでにベルギービールでご機嫌になっていた。
みなみさんの名古屋出発を祝って乾杯。植木さん、みなみさんの風貌を“毛沢東に似ている”と。皆神さんは以前名古屋に勤務していたことがあり、名古屋のどこそこの店がうまい、とか、そういう話になる。名古屋の食に関してもいろいろ。あとはお定まりのダジャレ合戦、それから東急線沿線ばなしとか。と学会の新刊の話もちょっと。今日の『おれんち』、おすすめはカワハギだそうで、皆神さんも植木さんもいまだカワハギの刺身なるものを食ったことがないというので、じゃアそれをお刺身に、と頼んだら、水槽の中に泳いでいるそれを、なんと手づかみでとって引き揚げる。
今日は鶏刺しが切れているとのことで白レバ刺しのみ。ごま油で食うが、あやさんが“塩だけの方がウマイ”と主張、それにみな倣う。こういう試みをするときの顔はみな、子供が理科実験をするときのような表情になる。それから自家製スモーク、宮崎地鶏と鱸とヤガラ。ヤガラの身は三枚におろすと半円状になるので、最初は帆立だと思っていた。レバ焼きは中身が半生で、うまいのなんの。つくねは皆神さんがクシからはずしたら単なる挽肉の残骸みたいな惨状になったが、食えばやっぱりつくねで美味し。
あと焼き魚、キンキの蒸しもの、まぐろのなめろうなど酒が進むもの多々。お造りは剥がれた皮ごと運ばれてきたカワハギ、頭もついてきたが目や口のあたりがユーモラスで、“ハギちゃん”というあだ名を進呈されていた。身がほのかにピンクで、血合いの赤が美しい白身魚があって、シマアジだろうかカンパチだろうかなどと皆で言いあっていたが、若主人の説明によると、ボラだそうな。ボラの刺身がうまい、というのは吉田健一だったか誰だったかが書いていたのを中学生時代に読んだ記憶があるが、45になって初めてそれを追体験して感激。と、いうか、ボラなる魚を食ったのもこれが初めてかも。
とにかく、これだけの人数、しかも食いしん坊ばかり揃っているので、皿数はやたら多いが、出てきたと思ったらすぐになくなる。イシモチの丸揚げが出たが、カリカリになったヒレの部分がおいしい、頭もおいしい、と、あっと言う間に存在そのものが抹消されたかの如く原型を没する。生ガキも、巨大なる掻き揚げも、それからなんとも風味のいいヤキメシも、ことごとく秒殺。酒もすすみ食もすすみ話もすすんで、何がなんだか、脳のヒダが快い混乱のうちにほぐれてきて、幸せな気分がたゆたってくる。マンの『魔の山』の、ペーペルコルン氏の宴会の模様を思い出した。最後に店の方から、みなみ氏の名古屋送別として、大根とシソとミョウガで作った白バラが贈られる。見事な包丁の芸術であるが、これに至るまで“いや、この大根は甘い”と、四方から手が伸びて、みんながムシって食べてしまった。
11時過ぎ解散。酔うと、行きはつらかった道がすぐ。電車もそうである。植木さん、あやさんと一緒だったが、中目黒でわれわれは降りてタクシー。車中で連載マンガの件をK子と打ち合わせ。K子、構成スタッフにあやさんを入れるという発案。