12日
日曜日
恥じ入れ、メロス
親友を危険な目にあわせやがって。朝、7時半起床。朝食、枝豆とトウモロコシ。仙台・あのつさんから貰った甘い、うまい枝豆もこれで最後。なごりおしく食べる。梨は紀ノ国屋で買った250円の二十世紀。K子が“でも300円の青森のよりウマ イ”と言った。
今年のノーベル医学生理学賞が、核磁気共鳴断層撮影(MRI)装置の開発によってイリノイ大学のポール・C・ラウターバー博士とノッティンガム大学のピーター・マンスフィールド卿に与えられることに対し、アメリカのMRIメーカー、フォナー 社の創業者で会長のレイモンド・ダマディアン博士が、
「あれはオレが先に開発したものだ」
と文句をつけ、新聞に全面広告をうって抗議しているというニュース。テレビでは“ノーベル賞は理論の発見者より、実用化に功績のあった人の方を重要視する”とコメンテーターが言っていたが、さてどうか。例えばロボトミー手術を一般に広めたのは、手術法の簡便実用化に成功したアメリカのウィリアム・フリーマンだが、ノーベル賞は最初にロボトミー理論を提唱したポルトガルのアントニオ・デ・エガス・モニスに与えられている。結局は世の中、運と知るべし。ちなみにモニス博士は1949年の受賞で、このときの物理学賞受賞者が日本の湯川秀樹博士である(へぇ)。
今日はK子はひえださんたちと犬鍋を食いに行くとのこと。私は春風亭昇輔くんを誘って、高田馬場で日東新聞(特撮ファンクラブGの会誌)20周年記念の会に出席なので、ちょうどいい(彼女のメシの心配をしなくていいということ)。ところが、ちょっとカン違いしていて、昇輔くんに集合6時と教えてしまった。日東新聞のサイトに6時集合と書いてあったのだが、これは前日の打ち合わせが6時集合で、当日は4時半からであった。1時ころ気がついて、あわてて昇輔くんに電話し、訂正。あぶ ないところであった。
昼は牛すじ丼。昨日明大前で牛すじ屋の看板を見て、発作的に紀ノ国屋で子牛のすじ肉が売っていたのを買ってきて、仕事の合間に三時間、香味野菜と一緒に、水と焼酎でぐつぐつ茹でていた。成牛のすじだと半日は煮込まないと柔らかくならないが、子牛のすじだと三時間程度でトロトロになる。大鍋いっぱいあるそれを少しとって、小鍋でネギ、エリンギと一緒に薄口醤油とみりんで味をつけて煮、これを飯にかけてカメチャブとする。市販のカメチャブは東京風で味が濃くてややヘキエキだが、これは自家製なので好みの薄味。たっぷりのコラーゲンがうまいこと。腹持ちもすさまじ くよろしい。
3時半、家を出て高田馬場へ。ビッグボックス前で待ち合わせだったが、先に来ていた昇輔くん、“ちょっと会計を済ませますんで、待っていてください”と言う。安売りCDの棚に、『梅宮辰夫ベスト1,2』というのがあったので、自宅でのBGM用に買ったんだそうな。この人もマニアックである。駅前に、異様な衣装の若い男女 大勢。何かオマツリがあるらしい。
高田馬場前の居酒屋・清龍3F。会費払って座につく。この日東新聞は社主の木村金太氏の趣味で、いつでもきわめて庶民的な、気取らない、下町風の、ざっくばらんな雰囲気の店で集まりを開いている。つまり、言葉を変えれば古くて煮染めたような店が好みなのである。十条の和田屋とか、小岩の楊州飯店などがメインの会場だが、今回は20周年というところで、高田馬場という都心に場を移した。……のではあるが、よくまあこういう場所を見つけたというくらい、ふだんの日東新聞の会とイメージが変わらぬ、下町風の造り。顔見知りの人たちと、“しかし、あのエアコン、最近みない型だね”“でもまあ、エアコンのある店というのがこの集まりじゃ珍しいから ね”などと話し合う。
ゲストはいつもの、中野昭慶、中野稔、田中文雄の東宝メンバーと、平山亨、奥中敦夫の東映メンバー。本当は東映でもう一人、飯塚昭三さんも見えるはずだったのだがお仕事の関係か見えられず。飯塚さんと言えばダジャレの人なので、“隣の家に囲いが出来たね”と色紙に書いてもらい、私が“へぇ”とウケる、という趣向をおおいとしのぶくんが考えていたらしいので、仕方なく私オンリーで書く。20周年記念の辞は中野昭慶監督、乾杯の音頭は『メカゴジラの逆襲』で脚本家デビューをした、つ まり昭和ゴジラ最後の脚本家となった高山由起子氏。
昇輔さんは平山亨フリークと言っていいくらいの信奉者だということがこないだのトンデモ落語会でわかったので、この会に連れてきた。紹介して、しばらくしてから見ると、平山さんを前にして、なにやら真剣に話を聞いている。ちょっと戻ってきたときに、“何か熱心に話していたね”と訊いたら、“話してません! こっちが一言いうと、それに対してトメドない答が返ってきて、ただそれをじっとうかがっているだけなんです!”と、驚いた表情。それでも、平山談話というのはとにかく面白いの で、私も脇に行ってお話を伺う。
昇輔さんの師匠の柳昇師匠が機銃掃射で指を失ったという話をしたら、平山さんも学生時代、機銃掃射を受けた(当たらなかったのが幸運だったが)経験があるとのことで、“あれに比べたら、焼夷弾の爆撃の方がよほどいいよ。空襲の爆撃で死ぬのはね、何か災害に巻き込まれた、という感じなんだけど、機銃掃射ってのは、相手(戦闘機)と、目が合うんだよ。……まあ、実際に合うわけではないんだけど、そういう気がするんだな。相手が殺意を持って、自分をねらっている、と思うだけで、いいしれない怖さなんだなあ”と。奥中監督の、学徒動員時代の空襲経験も聞かせていただく。防空壕に避難して、そこからのぞくと、ひゅううどん、ひゅううどん、と、作業場が爆弾で壊されていく。怖さと悔しさもあったが、つらい作業をしていた工場が見る見るなくなっていくのには、ある種の痛快さもあったとのこと。
「今の特撮ものと、昭和のものの違いは、制作者側がみんな、戦争を体験されていることですねえ」
と言うと平山さん、
「戦争なんか体験するもんじゃないけどさ、ウ、でも、人の命を奪うとか、ネ、家が目の前で焼かれるということが、ウ、目の前で日常に行われているのを見ていると、ああ、とにかくこういうことを繰り返しちゃいけないな、というメッセージだけは何としても伝えようという、ウ、そういう意識は生まれるよね。あと、人の使命感ということね。以前、この集まりに来られた中島春雄さんと話したんだけど、彼は特攻隊の生き残りなんだよな。終戦が決まって、特攻に出なくてよくなって、うれしかったでしょう、と言ったら怒られたよ。“いや、オレは悲しくて仕方なかった”って。アノ、子供の頃からボクらの世代は、ウ、国のために死ぬことを当たり前として教育されてきたからね。ウ、その、最大のご奉公の場が無くなって、こんな悔しい、残念なことはなかったと言うんだな。アハ、お国と一緒にしちゃいけないけどさ、組織のために死んでいく、ショッカー団員とかを描くときに、無意識にさ、ああいう感じを参 考にしていたのかもしれないな」
平山さんは8年ほど前に脳溢血で倒れられて、奇跡の復活を遂げられた。いくぶんそれ以来言葉がもつれるとのことだったが、口の悪いわれわれ平山ファン一同は、
「もとからああいう口調の人だったんだから、どこが病気前と違うんだか、さっぱりわからない」
などと言って笑っていたものだ。親しい人の病気を重く考えたくないが故のジョークだったが、実際、それ以来のお元気ぶりは以前にも増して凄まじく、何冊も著書を出され、そのサイン会にお出になり(トイフェス会場で私もサインをもらうべく並んでいたら、“ダメだよ、サインする方の立場の人にサインは出来ないよ”と笑って言われた)、さすが昭和の映画人は違ったものだと思って感心していた。さすがに最近は足腰がお弱りになり、立ち居がやや、不自由になられたようだが、自分の自己紹介用の名札には“74歳、あと30年は頑張る決意”と書かれていたのに驚嘆する。何 より感心するのはいまだ全方位にアンテナを立てていらっしゃることで、
「ネ、カラサワさん、最近さ、『ふたりエッチ』って漫画が好きで読んでいるんだけ どさ、ウウ、あの作者はああいう名前だけど、男なの、女なの?」
と質問されたときにはひッくり返りそうになった。いったいそんな漫画、どこで読んでるんです、出版社から送ってくるんですか? と聞いたら、“イヤ、ウフ、ね、散歩の途中にブックオフがあってね、そこで見つけて、買って読んでみたら、ア、これが面白くてね。何というか、男女の結びつきというものが実によく描けているんだな。お互いがさ、セックスを通じて、夫婦のつながりを次第に認識していくという過程がさ、エ、面白いンだなあ、これが”、ということだった。たぶん、『ふたりエッチ』の最高齢愛読者であろう。白泉社の人でこの日記を読んでいる人がいたら、すぐ サイン入り新刊を平山さんの元にお届けするように。
福原鉄平くんやほりのぶゆきさん、早川優さんなどと挨拶、雑談。早川さんたちからは、『われわれはなぜ怪獣に官能を感じるのか』絶賛を受ける。“誰もが思っていても口に出来なかったことを、よく書いてくれた!”という評価。“続編のときには是非、参加させてください!”とみんな言う。そう言えばこの本はそういう声を最も多く今まで受けた本であった。いただきものも数多く、木村さんからは貸本漫画の掘り出し物、小亀さんからは名古屋の“巻き菓子”なる、お菓子の詰め合わせ(結婚式などのときに、二階の窓からこれを豪快にどんどん投げる)、また特撮ファンクラブGのメンバー鈴木聡司氏からは、新風舎から上梓された『小説円谷英二』上・下をいただく。飛行機中心に、ゴジラのゴの字も出てこない円谷英二の評伝小説だそうで、これは読むのが大変に楽しみ。
川北紘一監督、熊谷健プロデューサー(兼ベムスターなどの怪獣デザイナー)もいらっしゃり、ますます会場は盛り上がり、何が何だかわからなくなる。ペプシマンとグリーンマンがプレゼンターになる(グリーンマンはたぶん放送用の本物の着ぐるみだと思うが、よく現存したもんだ)ユニークなビンゴなどもあり、木村金太氏が自作でステテコ姿のおっさんのようなスーパージャイアンツになってこれに加わる。この姿を見た奥中監督、“オレ、これに助監督でついたことあるよ”と。奥中氏は最初、新東宝に助監督で入社(七人の採用ワクに一○○○人が応募したとか)したのであった。平山さん“奥中さんとは大学の同級生だったんだけどさ、彼が新東宝に入社したと聞いてうらやましくてね。当時は東映なんて、いつつぶれてもおかしくない会社だ と言われていたもんだから……”と。世の中はわからぬもの。
時間がオシて、会場の予定時間ギリギリになる。最後に、日東新聞関係者でこれまでに物故された方について一言、のコーナーがあった。田中文雄さんが福田純監督について、
「福田さんの口癖が、渡された脚本を評しての“すべったころんだしか書いてない”という文句で。それは悪口なわけですが、しかし“でも、考えてみれば世の中というのはみんな、人のすべったころんだに集約するんだよな”と私が言って、それからは何かというと、“またすべったころんだだ”と言って、二人で笑い合ったりしたもんでした。現在私は小説を書いているんですが、プロットを立てるときにはいつも、福田さんの言葉を思い出しつつ、どう登場人物たちをすべったりころばせたりさせようかと考えているわけです」
と、思い出に言葉を涙でつまらせながら言った言葉が印象に残った。
私にもお名指しがあって、潮健児のことについて話せというので、以下のようなことをしゃべる。
「……潮さんが“おもしろい会があるんで、ちょっとつきあってくれませんか”と私に言ってきて、初めてこの会にお邪魔したのが12年前、1991年の暮のことでした。そのときは、だから潮健児のマネージャーという立場だったわけですね。潮さんという人は東映の役者さんには珍しく、付き人やマネージャーを周囲にはべらすことをあまりしなかった人でした。そんな潮さんが、なんで私を連れてきたのかな、と不思議だったんですが、思い出したのは、そのときの、“ボクは酒が飲めないんで、先生(私)に飲む方をつきあってもらおうと思って”と言うセリフでした。考えてみれば、潮さんが東映で最もおつきあいの深かったのは、ここにおられる平山プロデューサーと、若山富三郎さんという、お二人ともお酒を召し上がらない方でした。潮さんはお酒の席は大好きでしたが、自分が飲まないことで、飲む方々の気を悪くさせてはいけないと、そう思って、飲み手の私を連れてきたのかもしれません。潮さんというのは、役柄とは裏腹に、そういう、非常に細かな気の使い方をする人でした。……まあ、もっともときにはその気が変な方に回っちゃって、怒ったりスネたりすることもしょっちゅうでしたが、それも今では懐かしい思い出です。まあ、飲んべえ役で連れてこられたのならば、せっせと飲もう、この会の皆さんと楽しく飲みまくることが、潮健児に今の私の出来る、最大の功徳かなと思って、今日もさっきから一生懸命飲ん でおります。どうもありがとうございました、これからもよろしく」
8時、恒例の木村さんのギター演奏で『おいら宇宙のパイロット』『ジャイアントロボ』を合唱し、お開き。時間と場所から言って、今から大久保に行けば、K子たちの犬鍋会に加われるかとも思ったが、さっきの挨拶にもあったように今日はいろんな人達と出会い、ちと飲みすぎたので、さっさと帰って体を休めようと思い、帰宅。角川書店から送ってきた山本弘『神は沈黙せず』を読みつつ、寝る。