裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

26日

水曜日

劇団四季公演ミュージカル『気圧』

 気圧の乱れでテンションあがらず、うだうだしている猫達の姿を描くミュージカル(面白くなさそうだな)。 朝7時45分起床。朝食、トウモロコシとクレソン(蒸かして)、セロリ一本(生で)、スープ、サクランボ、ミルクコーヒー。ゆうべ入っていた留守録。『月のひつじ』配給会社の担当さんから『週刊ポスト』の映画評のお礼。なんかやたら感謝されている。あの批評、チェックしたら一カ所、凄い単語のヌケがあって落ち込んでいた(原稿ではきちんとなっている。やはりゲラチェックが出来ないというのは不安だ)ので、こっちもうれしい。どれだけの影響力があるのかは知らないが。今まで私が批評やオビを書いたもので一番効果があったと言われているのはたつみひろし氏の『美しき神々の賜』(三和出版)らしい。私の名前でちょっと内容を読む気になって、初めてアアイウ世界を知った、という人が相当数いるとのことである。

 朝から小雨瀟々、気圧も乱れてどうにも体がサビついたよう。今年の夏はエルニーニョで冷夏だというが、それもあり得る気がする。長期予報は大概はずれるものであるが。SFマガジン読む。いつもの号に増して閉鎖的というか、SFマニアのSFマニアによるSFマニアのための雑誌になっている。閉鎖的というのは決して悪いことではない。若いうちというのは“自分が他者といかに違う価値基準を持っているか”ということを追い求めたがるものだ。アイデンティティを確立したがっている世代にとって、それは自然な欲求である。SFという、適度に閉鎖した世界はそのニーズに応えてくれる格好な対象であった。しかし、人間トシがいってくると、今度は“自分が果たしてどれくらい社会性を持ち合わせている(と、世間から見られている)か”が大きな関心事になってくる。そのときに、SFの持つ閉鎖性は大きな障害となるのである。そう考えるとSFという分野は永遠の若者の文学なのかもしれない。問題はトシがいっても社会性より自己の嗜好に強く固執する性格のもののみがSF業界に残り、よりその閉鎖性を高めて、肝心の若者たちすら容易に入ってこられない障壁をカタチ作ってしまっていることなのだが。

 あと、香山リカ氏がW杯騒ぎのことで、若者の抑圧をその底に見、それを意図的に煽動する者が出てきたとしたら……という意味のことを同誌の連載エッセイに書いていた。やはり、同じようにこれを見ている人はいるのだな、と思った。日頃、ドメスティック・エゴに対して冷笑的、あるいは否定的な見方をしている人が、サッカーというフィルターがかかっただけでコロリと愛国者になってしまう。こういうのは腰が座っていないのである。ひねくれ者でい続けるというのも、これで日頃の基礎訓練は必要なのだ。その、サッカーを徹底して嫌悪している睦月影郎さんからの恵贈書『Gのカンバス』。この連載が『週刊プレイボーイ』で先にやられていたため、私の青春録小説の連載はボツってしまったという曰く付きのものだが、しかし内容はかなわないと思う。私ならもっと内省的なものになってしまうのではないか。これは視点こそ特異ではあるが、しかし古典とも言うべき青春ビルドゥングス小説形式の、読んでさわやかなものになっている。

 昼は昨日の残りのラム肉とモヤシ・セロリを炒めて。モヤシという野菜も羊肉に実によく似合う。食っている最中にビジネスキング(リース会社)の人が来る。1時に来るというからそれまでに飯を食ってしまおうとしていたのに、10分も前に来た。遅くくるのよりも早く来る方がこちらは予定が狂う。FAXの誤動作を見てもらう。いろいろああだこうだと調べて、出来うる限りのことはしましたので、これでまだ誤動作するようだったら連絡ください、と言って帰った。配線を調べるのにまた書棚をひとつ、どかさねばならず、本を出してもどして、ですっかり体がダレてしまう。

 ささきはてるさんから電話。今度の企画に氷川竜介さんを入れてはどうか、という件。それは大賛成である。ささきさんがこういう基本資料的なものを作らねば、という熱意にかられているのは、『教養としての<まんが・アニメ>』(講談社新書)でも書いていたが、今の宮崎駿ファンは『パンダ・コパンダ』を見たことがない! という愕然感が元になっているようだ。まったく時代は変わる、万物流転。パンダ・レイである(あ、少し教養を要する駄洒落だ)。こんなもの、常識さと思って語っているうちに年寄り呼ばわりをされるようになる。こないだテレビで、村田英雄の葬儀の模様を報道したとき、ビートたけしが“村田さんが、オレが『オールナイト・ニッポン』で村田さんネタをやっている最中に電話をかけてきて……”という話をしていたら、回りの女性キャスターたちが“へえ、そんなことがあったんですか”と感心していた。彼女たち、村田英雄の取材でビートたけしにマイクを向けていながら、その話を知らないのか! と驚愕した。そう思っていたら今日、山本会長の掲示板をのぞいて、“『ブルー・シティ』という随分昔のジャンプ漫画を見つけました”“少しアメコミチックで表現は古臭いのですが、構成が巧く、キャラの内面も描かれ、面白かったんです。誰か続きを御存知で、何巻まで刊行されたのか知ってる方はいらっしゃいますか?”と書き込んだ人がいたのを見つけた。もう、これは非常事態と言わざるを得ないところまで行っているのかもしれない。まあ、二十年も前に『スターログ』誌(旧)に、“このあいだ、白黒の『ゴジラ』を初めてみました。今の人はこんな映画見ていないかもしれませんが、案外面白かったですよ”という投稿があったときに発憤しないといけなかったんだろうが。情報は現在のそれが過剰になればなるほど、歴史的つながりが絶えてしまうものなのである。

 ところで、ささきさんと言えば彼(ササキバラ・ゴウ)のサイトがある。彼らしい無茶苦茶にシンプルでそっけない体裁のサイトであるが、掲載されるテキストはいつも非常に面白い。私のBOX東中野のトークの情報も載っている。一度お訪ねを。
http://member.nifty.ne.jp/gos/index.htm
 ここで、例の劇場版『とっとこハム太郎』に対するささきさんの意見がある。彼に言わせればあれは“難解なところは何ひとつやっていない”“わかろうとする必要もない”作品である、という。私に言わせれば、それこそ典型的な“バッドトリップ・ムービー”なんじゃないの? という感じなのだが。むしろ、ここでささきさんが例に挙げている劇場版『ターンエーガンダム』の方が(私は観ていないが)、現在のアニメファンにとっては“安心できる”作品じゃないのか、という気がする。つまり、“そのわからなさの底に作者の意図があることだけは理解できる”ことで、知的満足感を得られるのである。『エヴァンゲリオン』や古くは『2001年宇宙の旅』にマニアたちが騒いだ(今でも騒いでいる)のは、騒ぐということ自体が、その快感をくすぐられる行為だからである。岡田斗司夫が喝破したように、現代のアニメは“作品が楽しいのではない、作品を観てああだこうだと論じ合うのが楽しい”のである。アニメばかりではない、例えば金子修介監督のゴジラやガメラは、その作品を観ているときより、その後であれは果たしてどうなのよ、と口角泡を飛ばしあう行為の方に、作品の重点を置いてあるものではないかと思う。ところが、あの『ハムハムランド大冒険』には、そういうフックがなにもない。“わからなくていい”と言いきられることの不安さを、知性でアニメを観、アニメを語ることを通常のこと、として受容してきた世代(子供たちと一緒に行った若いお父さん、お母さんの世代)は敏感にキャッチして騒ぎ出したのではないか、と私は見るのである。ささきさんのあの作品に対する“期待通りの傑作”という評価と、山本弘氏の“子供向けアニメをなめんなよ、制作者!”(裏モノ会議室にて)という評価の甚だしい差は、この作品を感性で観たか知性で観たか、の差になっているのではないか、と思う。

 今日はなにやら記述にゴタクが多いが、要するに実質的な仕事がはかどらなかったということである。とうとう夜まで、何一つ、書けずできず。少し呆れる。9時、神山町『華暦』にてK子と夕食。今回もまたカウンターに板前さんと会話しているおっさん(前回とは別)がいて、大常連のようにママさんとも親しく会話し、台の上のものを“すごいね、ちょっと見せてよ”と目の前に持ってこさせたりして、帰るときには“今日もこれから午前様だあ〜”と言いながら出ていった。てっきり古くからのなじみだと思っていたら、帰ったあとで板さんとママが、“あれ、どういう人なの?”“知らないけど”と話していてひっくり返る。アジとカマスの刺身、揚げ豆腐カニあんかけ、豚とろネギ焼きなど。小雨、ついに一日中降りやまず。

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