裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

17日

月曜日

ジェンダーと三平

 三平は、本当は自分は女の子だったんだと気がつきました。朝、私と小泉今日子が共演の、小じゃれた完全犯罪ミステリー風の夢を見る。最後に秘密を知った近所の悪い女をあっけなく殺して燃えないゴミに出し、私たちは軽々と海外へ逃亡。舞台が私の学生時代の貧乏下宿なのだが、そのくせ全体は妙にリッチなイメージの夢だった。3時起きで原稿を書こうと決心して、3時に一応目は覚ましたのだが、まあ4時でよかろうとまた寝て、4時になって5時でも間に合うんじゃないかとまた寝て、5時には目を覚まさずずっと寝ていて、結局6時起きでチョコチョコ仕事し、7時半朝食。トウモロコシとソラマメのふかしたのとコールドコンソメ。ポンカン半個。テレ朝はゴルフ特番で朝のワイドショーは休み。昨日のハリケンジャーもこれで休みだった。ゴルフトーナメントというのは定番番組飛ばして実況放映するほど視聴率取れるものなのか。

 室田日出男死去、ムラタヒデオの5日後にムロタヒデオが死んだのである。これもコクトーの言う、多少調子の狂った秩序。たぶんこの中間の3日間にムリタヒデオとムルタヒデオとムレタヒデオが日本のどこかで死んでいるのではないかと思われる。 冗談はさておき、64歳とは若い。川谷拓三が呼んだか。

 若いころのこの人は立っているだけで怖い役者だった。この怖いは、天本英世が怖いとか、汐路章が怖い、というのとはちょっと違った怖さで、中学生くらいの私はこの人に、“近寄ったら意味もなく殴られるのではないか”という本能的な暴力に対する恐怖を、スクリーンから受け取った。役者としての作られた人格を超えた、リアルな怖さをかもしだしている人だった。いわば、映画という虚構からハミ出すリアルさで、石井輝男が彼を徹底して嫌ったというのも(『星を喰った男』に出てくる、『網走番外地』の看守役でロケに行ったときに監督が彼を嫌い抜いて、とうとう彼を降ろして、照明のおじさんをその役で使ったというエピソードのMという役者は室田氏である)わかるような気がした。映画は監督によるアーティフィシャルな完結した作品であり、そこを役者のリアルがハミ出して壊してしまってはまずいのだ。

 そのリアルさを実録モノという新分野で上手く使いこなしたのが、深作欣二監督だろう。彼が松竹で撮った『恐喝こそわが人生』(1968)は、知的コン・ゲーム映画みたいに痛快に始まって、最後は暗ぁく主人公(松方弘樹)が殺されて終わり、という、日本映画の困った部分が強く出たような作品だったが、ここで最初、主人公のブレーンの一人として仲間になっている室田日出男は、中盤から旗色が悪くなると、“オレ、怖くなったからオリるわ”と、さっさと一人グループを抜けてしまって、後からまたからんでくるかと思ったらそれきりで、以降出てこない。この、映画っぽくないヘンにリアルな退場が、室田日出男の持ち味なのかも知れなかった。だから、この人がリアル感を排除しないと成り立たない特撮モノとかに出ると、いや、似合わなかった似合わなかった。『ジャイアント・ロボ』のブラック・ダイヤも『バロム1』のミスタードルゲも、今イチ印象が薄かったし、『イナズマン』のキャプテンサラー役は抱腹絶倒の珍演に見えてしまっていた。『宇宙からのメッセージ』のウロッコ役(志穂美悦子の従者)は例の不祥事で降ろされ、佐藤充が代役になったが、むしろ結果的にはよかったのではないか(まあ、彼が出ないでもあの映画はどうしようもないものではあるんだが)。要するにケレンの出来ない人、マジな演技しか出来ない人という印象で、そこらへん、ケレンたっぷりの安藤三男や吉田義夫、潮健児などの俳優が山のようにいた60年代の東映で、長いことくすぶっていたのも無理はないと思える。いま、追悼映画を選ぶとしたら、後年の枯れてからのもので『ドグラ・マグラ』と『眠らない街・新宿鮫』、怖いころので、しつっこく念を入れて殺されていた『0課の女・赤い手錠』か。あ、監督とケンカして途中でオリてしまい、撮り直す金がないので映画の中盤から同じ役で役者が代わってしまう(しかも女性に)という、『てなもんやコネクション』なる珍物もあったな。

 追憶にふける間もなく、仕事々々。海拓舎の原稿残りを三回に分けて送り、間をおかずSFマガジンにかかる。途中で昼飯、腹にたまって眠たくならないよう、ソーメンを茹でて食べる。ただしあまりアッサリでも体がこの湿気の中でもたないので、豚挽肉を炒めてツユの中に投入。2時までかけて10枚、アゲて送れたのは案外能率が上がったことである。

 それから平塚くんに電話して同人誌関係の打ち合わせをやり、2時半、タクシーに飛び乗り六本木。飯倉片町の20世紀フォックス試写室で、『スターウォーズ エピソード2・クローンの攻撃』業界用試写。週刊ポスト用である。正直なところ、あまり期待はしていなかった。ポストのKさんもこないだ、そんなことを言っていた。前の『エピソード1』のときは、退屈で、途中で出ようかと思うほどだった。原稿書き上げてバテてたし、寝てしまうんじゃないかと、いささか心配だったくらいだ。そして、観た結果。以下、いつものように評を書くが、まあ観た人なら誰でも書くようなことで新味はない。読み飛ばしていただいて結構である。ただ一言、これだけは言っておく。“喜べ、今回はジャージャーの出演シーンはたった5分だ”。……全ての映画評論家諸氏はこのことを原稿に明記すべし。それだけで少なくとも十万人くらいは観客動員が増えるのではないか。

 前回の不満の原因は一にかかってCGであった。あれはCGマニアのCGマニアによるCGマニアのための映画であって、トクサツ映画ではない、とトクサツ信奉者の私は怒ったのであった。しかし、怒ったのは私ばかりではなかったようで、あちこちでさんざあのCGは叩かれていた。そしてジョージ・ルーカスは商売人である。前作でCGだから何でもできるんだもんね、と、オリジナル三部作の世界観を台無しにしたカートゥーンチックなデザインのクリーチャーを大挙出したような愚は避け、だいぶデザインがリアルになり、また、オリジナル版に登場したぬいぐるみのデザインをCGで再現する、ということをしている。新しいアイドルに仕立てようとして大失敗した、あのジャージャー・ビンクスも、未練なく脇の方に後退させて話に割り込まなくさせているし、そしてなにより、C−3POとR2−D2は部分的ではあるが、アンソニー・ダニエルズとケニー・ベイカーの両ご老体にわざわざまたドロイドスーツを着せて、演技させているのである。“やはり人間が入った方が、細かい感情などを表す演技が出来る”とかスタッフノートにあるが、そんなことはねえだろうと思う。3POの演技なんてただ頭を振るだけだし、R2なんて首を左右に回すだけしか出来ない。これはやはり、第一作からの古参ファンで、私のようなCGアレルギーの人間に対する宣伝効果なのではないか。シリーズものは必ず第一作へのオマージュを取り込まなくては駄目、という原則を、ちゃんとルーカスは学習している。

 もちろん、CGを使ってないわけではない。それどころか、凄まじい分量のCGの嵐である。しかし、それらが前作のように、映画そのものをブチ壊してまで自己主張することなく、演出効果を高めることに貢献している。それは、クライマックスの、全シーンCGというロボット軍対クローン軍の戦いの場面でも同じだ。脚本と編集の段階で、必ずオールCGシーンの後に生の芝居(R2と3POも含めて)を挟んで、観る方にゲップを出させない工夫をしている。だから、今回の『エピソード2』は、役者が立っている。前作の俳優陣がまったく印象が薄い(テレンス・スタンプが出てきたなんて覚えてるかね?)のに比べ、今回はドゥークー伯爵役のクリストファー・リーの朗々たるセリフ回しにしびれるのをはじめ、前作と同じ役者かと目を疑うほどいい顔になったユアン・マクレガーのオビ・ワン、ジャンゴとボバのフェット親子、若き日のオーウェンとベルのカップルなど、いずれも印象深い。そして、やはり主役のヘイデン・クリステンセンのナイーブな美青年ぶりが際だっている。はっきり言って演技はカラッペタなんだが、183センチの長身とミスマッチな、神経質そうな線の細さが千両である。自分の才能への強い自負を持ちながら、師匠にそれを認めてもらえないことに不満を感じ、しかしそれが自分の精神の弱さに原因があることもわかるだけの頭脳を持ち合わせてしまっている若者の不幸を、そのきれいな顔だけで表現できるんだから大したものだ。もう、私がオタク女なら、映画館出てすぐTOOに駆け込んで原稿用紙買って、夏コミ用のやおい本を作るね。オビ・ワン×アナキンに、パルパティンがからんで。なに、ナタリー・ポートマン? あんな顔のデカい女はどうでもよろしい。

 もちろん、全てが満足というわけではない。私は『スター・ウォーズ』の第一作の半ば暴力的な信奉者であり、あのオリジナル第一作の魅力は、話が極めて単純で、善悪が見ただけでわかり、何も考えない2時間を過ごせることだ、と思っている。このことは公開時に数え切れないほどの映画評論家、SFマニアたちが口にしていた。その単純明快さ、ニュー・シネマの一党がやたら頭でっかちにしてしまったアメリカ映画を、基本のB級活劇に戻したことこそが『スター・ウォーズ』の功績であると確信している。この第二シリーズの、主人公が善から悪へ引きずり込まれる過程を描く、などというストーリィは邪道としか思えない。『エピソード1』のときはルーカスに裏切られたとすら思った。その思いは今回も変わらない。とはいえ、新作を作れば作るほどドツボに落ちていく一般のシリーズものとは違い、このシリーズはきちんと軌道修正をしながら進んでいく。そこが凄いと思う。シリーズ名物の長い長いエンドクレジットを見ながら、いつしか、『エピソード3』の公開を私は期待していたのである。

 上映時間2時間20分、3時間くらいの印象はあった。試写室を出たのが6時5分前。またタクシー飛び乗って渋谷の仕事場に帰るが、道が混んでやや、時間を食ってしまった。すぐバイク便に手配して、三鷹の井の頭こうすけ氏に図版用ブツを届けてもらい、またまたタクシー飛ばして新宿へ。談之助さんと夏コミ立川流同人誌の打ち合わせである。15分遅れ。K子に電話して先に行っていてもらう。末広亭前の中華料理屋。ここは安くて案外うまい。水餃子、冬瓜のカニあんかけなど食い、紹興酒飲みながら基本路線を話し合う。今回は立川流の同人誌的色彩を強めるために白鳥には外れてもらって、ブラッCを入れること、例の前座破門事件の詳細を載せること、志加吾ことMの参加をどうするかということなど。内容的にはなかなか充実したものになりそうである。そこを出て2丁目に行き、『へぎそば昆』で日本酒と蕎麦。今日はさすがのこの店もガラガラ。うらみは深しワールドカップといったところ。その話、和泉流の話、ナンシー関の話、トンデモ本の原稿の話など多々。10時、お開き。われわれはそのまま帰ったが、談之助さんは“せっかく来たんだからネタ拾いに”と、ルミエールなどに足を運んだ模様。

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