21日
火曜日
売血黒頭巾
幕府転覆のためには資金がいるので・・・・・・。朝7時15分、起き。K子にホウレンソウ炒めとポーチド・エッグ。私はいつもの。自民党造反劇はカタスカシに終る。加藤紘一も、二十年くらい前に出てちょっと話題になった近未来小説『自民党政権が終る日』(だったっけかな)で、1990年代の日本の首相に擬せられていたが、目睫までその地位にせまっていながら、なかなか到達できない。大体、戦う前に“一○○パーセント勝ちます”などとフく奴はまず、勝てないものである。太田出版、昨日図版送って仕事終わりだと思っていたら、まだトンデモ本大賞受賞式のテープ起こしのチェックが残っていて、急いでチェックしろと今朝、送られてきた。読んでみるに、相当面白い。編集者の構成力のおかげだろう。実際にはもっと雑然と話していたはずである。赤入れ。
裏モノや一行知識常連の見えない世代氏の日記があったので、のぞいてみる。ネットでひろったという、シアトル行きの飛行機のトイレで喫煙して緊急着陸させた日経社員の小噺が載っている。
「国際線に搭乗した日本人会社員がふざけるつもりで紙袋を外国人スチュワーデスに見せて、『これBomb、バクダン、バクダン』と言ったところ、スチュワーデスが“爆弾を持ったハイジャックがバクダットへ行けと要求している”と機長に伝えた。大騒ぎになって慌てた日本人が“ちがう、ちがう、ジョーク、ジョーク”と言ったところ、“犯人は行き先をジョルダン(ヨルダン)に変えた”と伝わって更に大騒ぎになった」
・・・・・・これ、ジョーク、ではなくて“冗談(ジョウダン)”と言った、というのでなくてはオチにならないのではないか?
http://homepage2.nifty.com/mienai/
鶴岡から電話。この忙しいさなかにワープロが壊れたそうである。“ぶっちゃけた話”という文句の語源についてレクチャーする。どういうレクチャーだ。通 俗的マンガの魅力についてしばらく語る。山田太一が“人には通俗でなければなぐさめられない部分があるものだ”と言っていたことが思い浮かぶ。『新刊ニュース』の、今年読んだ本ベスト3アンケートを送る。さすがにそういう原稿依頼が増えてきたな。昼メシは参宮橋でチャーシューメン。買い物。家に帰って、くたびれたので寝転がって二ノ宮知子『GREEN』第二巻を読む。一巻に比べてパワーダウンしたのは残念。よく調べたマンガって、パワーが不思議に落ちてしまう。
午後になって、気圧回復と共に調子も回復。カタログハウスの仕事をガリガリとやる。初めての仕事(以前、小さいコラムはやったことがあるが)は、読者層がつかめないので、ちょっと苦労する。それで一回でも載って評判を聞けば、あとはどうでもコロガシていけるのだが。7時にやっとアゲて、メール。編集のSさんから電話で、構成上のことで少しナオシ入る。河崎実監督から電話。ポニーキャニオンのHPで、こないだの実相寺監督と私との鼎談、テープ起こししたものが週末あたりから載るそうである。河崎さんも、電話かけてくるときは“監督の河崎です!”と名乗る。『オールナイトロング』の松村克弥監督も、昭和ガメラの湯浅憲明監督も、“監督の”とつけて電話、名乗る。監督という肩書に誇りを持っているからか、あるいは映画という集団仕事の中で、自分の所属をハッキリさせるための習慣なのか。中野貴雄監督くらいである、知り合いの監督でそう名乗らないのは。
7時半、東急ハンズで、寝室の蛍光灯の切れたのを買う。いかに仕事が忙しくても雑事はある。8時から晩飯の支度。これは雑事というより、上がったテンションの鎮め用の手作業。鯛切身のホイル焼き、豆苗のサラダ、あんかけ炒麺。アップリンクから送られたビデオでアレクセイ・バラバノフ監督『フリークスも人間も』観る。最近アップリンクさんはいろいろビデオを送ってくださる。『フリークス〜』はグロ映画でなく芸術映画なのだが、なにしろテーマがシャム双生児とSM写真である。全体にブラックユーモアが十二分にまぶされている。映画の鍵を握る人物であるエロ写 真屋の元締のヨハンが常に無表情で、平気で人を殺す冷酷漢のくせに、ボケた乳母の膝に“ニャーニャ、ニャーニャ”とすがりつくなど、幼児性を大量に残しているところ、(顔がモンティ・パイソンのマイケル・ペリンに似ている)、大変気に入ってしまった。
作品全体がセピアカラーで統一されて19世紀の雰囲気を非常に出しているが、サンクトペテルスブルク(監督の住んでいる街でもある)というのはホントにこういうところなのか、カメラをかなり引いても、まるで20世紀ぽいものが画面に入ってこない。しかも、“死んだような街”と主人公のリーザがつぶやく心象を象徴するように、登場人物が歩くシーンでは、街に他の人影がまったくない。船着場の雑踏では、さすがにエキストラが出てくるが、これが全員、同じ服装で、同じ柄のカバンを手に持っている。まさに“背景”なのである。繰り返すが、こういう街で映画を撮ることが出来るあちらの監督というのはつくづくうらやましい。家は実際のものを撮影させてもらってセットなどつくらず、衣装も全て当時のもののコレクションを借りだして きて、なんと制作費が一億円程度、撮影期間がたった五週間だそうである。
モンゴル人のシャム双生児の少年は、配役を見ると姓が異なっているので、ホンモノではないのだろうが、裸になるシーンではちゃんとつながっている。このつなぎ目の処理が特殊メイクではない。CGはこの予算では使えまい。フィルム処理か?
画面がモノトーンであるということ、オペラ劇場のシーンがある(モンゴル人の双生児は天使の声を持っているのである)ことなどから、『アヴァロン』と比較してしまうが、娯楽映画に芸術性要素がかなり入ったアヴァロンと、芸術映画に娯楽要素がかなり入ったこの作品、まさにその点では対照的(予算や制作期間でも)。私は、どちらかというと、大仰にかまえていないこの作品の方が、個人的に好みである。ラスト、ヨハンが川に張った氷の上に立ち尽くすシーンは今年見た映画(公開は来年2月〜於ユーロスペース〜だが)の中で最高のラストシーンだった。これはぜひ、またスクリーンで観てみたい作品である。