裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

18日

土曜日

おいらが怒ればアザラシを呼ぶぜ

 海のターザンか? 朝7時半起き。朝食、サツマイモ、スープ、ナッツ。いろいろ雑用多々。快楽亭との12月9日の会がイベント告知欄にアップ。今世紀最後のトークなのでよろしく。Web現代からの原稿内容チェックで、“知らず知らず”を“知らず々々”と表記すると、“知らずずず”と読まれてしまう、と校正係が言ってきている、とか。そんな風に読む奴ァいねえと思うが。たしかに々はひと文字の反復記号で、二文字以上の場合は「く」を引き伸ばしたようなヤツ(何と言ったっけ)を用いるのが常だが、横書きでは仕方がない。かといって、“知らず知らず”では見た目が くどいので、“知らずしらず”としてもらうことにする。

 11時、家を出て八重洲ブックセンターへ。明日のと学会例会に持っていきたい本があり、それがあるかとここ数日、いくつか大型書店を回ったがないので、最後の希望でここにやってきた。残念ながらここにもナシ。あきらめる。とはいえ、せっかく来たのだからと、一階から七階までぐるりと回る。かなりくたびれた。駅前に、分別ありそうなおじさんが、ラエリアン・ムーブメントの本を並べて売っていた。

 新宿駅南口構内で立食いのイカ天そばを食べるが、コロモは粉をかためただけのもの、ツユはしょっぱいだけで風味もなにもなく、ソバはダラケた感触。ひさしぶりに百点満点クソマズの店にあたり、なんか嬉しくなる。しかし、さすがに全部は食べき れなかった。こんなところでも満員。

 4時半、一旦家に戻って、原宿へ出ようと思って帰ったら、マンション下でちょうど荷物置きに帰ってきていたK子とバッタリ。そのまま折り返し、原宿神宮橋わきのコープオリンピア地下、中華料理の南国酒家に連れだっていく。好美のぼる未亡人の シズエ夫人と会食。

 夫人とは四年前、電話で連絡をとりあって以来、お会いしましょうとお互い言い続けていながら、ついついこちらの多忙やあちらの引っ越しなどで掛け違っていた。今回、やっと願いがかなった、と大変に喜んでくださる。ここのマンションに住んでいる友人に頼んで席を設けてくれたのだとか。

 ご自分で“まあ、私でなければ(好美のぼるの相方は)つとまらなかったと思います”と言うだけある、いい家のお嬢さん特有の、貧乏にも苦労にも負けてしまわない天性の明るさがある婦人。上品な新潟なまりで、好美先生のエピソードをいろいろうかがった。手塚治虫を神のように尊敬しながらもライバル視し、“なんで同じ神戸生まれなのにこんなに才能に差があるんだ”と憤慨していたという話、曙出版の社長が温情家で、“コーミ先生(そのくせ最後まで名前を正しく読まなかったとか)、また新作ですか。仕方ありませんなあ、センセの本、売れんのですわ。地下室行ってごらんなさい、返本が山のようですぜ!”と言いながら、ちゃんと出し続けてくれたという話、晩年、立風書房の若い編集がラフ原稿に鉛筆で“ここはこうしてください”とチェック入れるのを、打ち合わせのときはハイハイと聞いていて、家に帰ってくると“若僧に何がわかるか”と、全部消しゴムで消して元の通りに描いていた話。アイデアマンで、柳家金語楼の設立した発明協会に入り、テレビ出演もしたが、本番で大失敗した話、それでも司会の伊丹十三が先生の発明品を使うシーンが放映されたのを自慢していた話、長年住んでいた草加市のお祭では、常に町内の若い人たちを率いて企画に回り、楽しそうにその指導をしていた話。

 胸が痛んだのは、89年、手塚治虫と昭和天皇が亡くなったと同時に、突如筆を折り、それから再就職先を探して、ビリヤードセンターの受付の仕事をしたいたあたりのエピソードだろう。ことに、自分で宝物、と言っていた作品を、自分の手で引き裂いて燃やしていた、というあたりの心情を思うと涙が出る。いろいろと話を聞くと、実家との間に、夫人にも話さなかった暗い事情があるらしいし、また、好美先生自身が、失踪同然の身で、子供たちを捨て、東京に出てきたという身の上だったらしい。ここらへんは、いつか記録を何かの形で留めておきたいと思う。しかし、ご夫婦で旅行もうんとなさったらしいし、好美作品の持つパワーの再評価も一部ではされてきていることもあり、好美先生の実家とも現在は大変いい関係にあるとのことで、夫人がお幸せそうだったのがせめてものことだった。

 9時近くまでお話をうかがい、K子とは、今度一緒に温泉に行きましょうと約束までして、別れて家に帰る。お話をうかがいながら、メモ取りながら、かなり食べて飲んで、腹が張ってうんうんうなりながら、11時過ぎに寝る。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa