裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

13日

月曜日

瀬戸内少年焼きうどん

 夏目雅子先生とうどんを食べたかった。朝7時半起床。夢で親父と会話していたのも悲し。朝食、このところ忙しくて買い物にも行ってないので、卵もハムもなし。ホウレンソウバタ炒めをK子に作り、私はバナナとダイエットスープ。日記つける前に遅れに遅れた白夜書房イマージュクラブ原稿三枚半、書いてFAX。それから日記、さらに太田出版の“と学会白書”原稿、テープ起こししたものを手直し。例会で発表したネタのテープ起こしなのだが、ちょっと前のものなので、発表したブツがどこにいったか、書庫などをあたって探す時間、この年末にはまるでナシ。仕方ないので、別のネタにいくつかを差し替える。

 イーストプレスに送るブツの算段。担当のK氏が直接受取りにくるというが、私は外出してしまうので、ドアの外にガムテープで貼りつけておく。12時15分過ぎ、家を出て新橋徳間ホールへ。早めに着いたので腹をこしらえようと、駅前のソバ屋に入ったら、隣の席に團伊玖麿氏がいた。最初見かけて、アレ、本物かな、と思っていたのだが、隣の席の人と“アサヒグラフがなくなっちゃったんでね・・・・・・”と話していたので(エンエンと連載されていた『パイプのけむり』のこと)やはり本人とわかる。なんとわかりやすい。風邪が重くて食欲がない、と言ってかけそばを食べていらした。私は昼定食の小ネギトロ丼ともりそばのセット。

 徳間ホールで庵野秀明監督『式日』試写。階段を上がっている途中、後ろから「この裏切者!」と声がかかるのでダレかと思ったら快楽亭。「アタシの芸術祭見にこないで、こんなものを・・・・・・」と言いながら、「ところで、今日は何の試写です?」と訊く。題名もチェックせず手当たり次第に試写会に行っているのか、さすが、と思ったらそうでなく、招待状無くして、スケジュールに“一時、徳間ホール”とだけ書いてあったのだそうだ。

 五分ほど前に入って快楽亭と並んで席についたが、上映がなかなか始まらない。係の人が“すいません、フィルムがまだ届いておりませんので、少々お待ちを・・・・・・”という。昔の田舎の映画館みたいに、フィルムを自転車で運んでいるんじゃないか、などと笑いあう。快楽亭、こないだBSで見た『ロッパのお父ちゃん』がよかった、と話をする。十五分ほど遅れて開始。

『アヴァロン』で乗りそこねた私だから、『式日』はどうかな、と思っていたが、これが案外楽しめた。主要登場人物が四人(実質は二人だけ)で二時間八分もたすのはツラいのではないか、という危惧があったが、緊張感を保持しつづけていたのはさすがである。“第×日 ○日前”と、ストーリィの進展に日にちの区切りがあるので、観ている方に安心感がある。ゲイジュツ映画を観にいくのをためらわせる原因の一つは、えんえんと共感できない映像が続くのを、“いつまで見せられるのだろう?”と 不安になるところなのである。

 エヴァブーム真っ盛りのころ、某業界最大手の一社の宣伝部の人とお仕事のことで会ったとき、その人が困惑した顔で、“今日、あのエヴァというのを観てきたんですが”とつぶやき、“あれって、要するに監督のプライベート・フィルムじゃないですか。なんで、あんな私的な、しかもほとんど一般の人が共感できないような内容のものに、あれだけの人が騒ぐんです?”と訊いてきた。私はそのとき、なんだか要領を得ない返答でごまかした記憶があるが、今日の『式日』は、まさにプライベート映画の極致である。本当だかどうか知らないが、主演の藤谷文子ちゃんと庵野監督は、一時つきあっていたと聞く。その彼女を主演に、自分の故郷で、カントクと呼ばれる男と少女との心のつながりを描く映画である。ある意味では“ケッ、いい気なもんだ”と吐き捨てたくなる内容だ。

 にも関わらず、これがイイ感じに仕上がっていたのは、創作というものを続けるうちに自己の内面に沈みこんでいくタイプであることが明白になった庵野秀明が、やっ と、好きなだけその内面描写をやって許される場を得た、その解放感が、画面全体か らただよってくるからであった。私がエヴァに否定的見解を示したのは、本来エンタテインメントSFアクションとして完結されるはずであった作品を、製作スケジュール管理のミスから放り投げてしまい、そこの隙間に、文学的哲学的表現に借りた尺数かせぎを突っ込み、それにカン違いした連中が大騒ぎするという構図が、あまりにもアホらしかったからである。あのとき、エヴァに深遠なる内容がある、と騒いだ連中は、この『式日』をどう観るのだろうか。

 一見、難解なゲイジュツ映画であるように見えて取っ付き難いかもしれないが、この映画はきわめて単純で、しかもわかりやすい。重厚なテーマは何ひとつない。自分をかまってくれなかった姉や母を嫌悪するあまり、彼女たちと同じオトナになることを拒否し、永久に“誕生日の前日”を生き続ける少女、というテーマは、陳腐ですらある。しかも、庵野監督はここにやたら細かな主人公の心理分析のナレーションを長々とカブせるのだ。『エヴァ』のときに続出したニワカ評論家たちの深読みにヘキエキし、この映画ではもうオレの解釈以外は許さないぞ、という、一種の被害妄想のなせるワザではないか、と思えて、ニヤニヤしてしまった。下手をすると一人よがりの作品になる危険のあるところをぎりぎりで“商品”にしているのは、秀逸なカメラワークで映し出される宇部の街なみの“どこにでもある異空間的映像”と、藤谷文子、岩井俊二の演技と生地のスレスレのところで繰り広げられるやりとりのかもしだす、微妙なユーモアだろう。岩井カントクに比べればまだ藤谷文子はプロの役者の演技だが、庵野秀明監督は、この元(?)彼女から、役者としての部分を残酷なまでにハギ取り、一人の少女としての肌を剥き出しにさせていく。自分をあくまで保護下におこうという母親の、本能のなせるわざとはいえ傲慢な留守録の声に、少女がキレて、藤谷文子の地のままの関西弁で怒鳴りまくるシーンでは爆笑してしまった。宇部出身という設定で、方言指導までつけて山口弁をしゃべらせているのだから、ここでの関西弁まるだしの罵倒は映画の設定をブチ壊しているのだが、もう、ここまで来ると観客は映画の設定などどうでもよくなってきているのだ。

 不満も山ほどある映画で、第一『式日』という題名が不似合いである(快楽亭が、“韓国映画みたいですな”と評していた)。それからCG合成などのトクサツによる心理描写なども不要もいいところなのだが、とにかく、その場を得たプライベート・フィルムとしての出来はかなりなものである。隣を見たら、快楽亭は寝込んでいた。この人向きの映画ではないわなあ。試写室を出て、二人で“これが徳間康快の遺作ですか?”“まだ五、六本ありそうですねえ”などと話しながら階段を降りかけたら、主演女優がやってきた。快楽亭が“ヘンな主演女優ですねえ、映画が終わってからくるってのは。始まる前にくりゃいいのに”と言っていたがまったく。ちょっと会話をかわしたけれど、相変わらずの美少女ぶり。鳴呼、彼女に惚れてこの映画を作った庵野秀明のカメラをもってしてもなお、藤谷文子という女優は、素顔の方がずっと可愛いのである。文子ちゃん、舞台女優になったらどうだろう。

 快楽亭と別れて一旦渋谷に帰る。本日は官能倶楽部の終刊号用座談会於開田裕治氏宅、なのである。引っ越し祝いの七宝焼の招き猫と、網走みやげのウニとタコしゃぶを持って、堀ノ内の開田さん新宅へ。すでに他のメンバー(睦月、安達OB、風間、ひえだ、談之助、K子。内藤みか氏は所用で、串間努氏は風邪で欠席)は来ていて、K子が台所でいろいろ指図している。ベランダが二つついた、オトコの買い物としては最高のマンションである。が、オタクの常で、その内部があらゆるガジェットで埋めつくされている。私はその方が落ち着くけれど。安達さんが自家製の鳥の煮物、風間さんが手作りの燻製チーズなどを持ち寄る。座談会を開始するが、どうも話題がア ブない方にばかり行く。テープ起こしがみかさん、構成が私の役割だが、果たしてこ ういう部分をケズると、どれだけの分量が残るか?

 メイン料理は談之助師匠が知人の調理師にさばかせたというトラフグ一尾。こんなブ厚いフグ刺しを食ったのは生まれて初めてである。フグ刺しを紙のように薄く切って出すのは、フグ料理屋の見栄なだけで、厚めの方がウマいのは当然の話。他にタコだの鶏だのも投入して寄せ鍋の様相を呈するが、最後の雑炊は濃厚極まるダシで、毒にアタッて明日死んでも満足、という味であった。睦月・安達Oの二人はその上に餅を投入して二切れ、さらにケーキまで二種類食べた。

 開田さんの仕事場を見せてもらい、書庫などものぞかせてもらう。他人の生活をのぞきみるのはインビな楽しみである。『式日』の楽しさにも似ているかもしれない。11時過ぎ、辞去する。さすが高級マンションだけあって、住宅街のひっそりとしたところにある。私ら夫婦は、もう少し俗塵にあたれる場所でないと生きていけないだろうなあ。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa