10日
日曜日
好事家のバンビ
まちがって“こうじか”と読むと、そっちの方がシャレとしての完成度が高くなるという、困ったタイトル。朝、フトンの中で扶桑社『愛のトンデモ本』を読む。とにかくギッシリ詰まっている、という感じ。ページ数を見ると、意外にも303ページと、案外少ない(例えば『トンデモ本の世界R』は350ページ以上ある)のだが、この密度感は何か。それはどうも、“読んでいて疲れる”というところに原因があるのではないか、と思う。書き手のリキの入り方が、これまでの他のと学会本に比べてかなり高いのである。テーマが“愛と性”などという、これまでと学会があまり扱わない性質のものだったせいなのかどうなのか。ともかく、イメージからいって“軽い作りの本なのだろう”と思っていると、案外ズシンとくるような、そんな内容になっ ている。
7時起床。朝食、トウモロコシと枝豆。果物はゴールデンキウイ。窓外の陽光、キラキラというよりはギラギラ。台風一過でどうにも凶暴である。母からメール。日記にベッテエ・ブープのことを書いたが、ボブ・ホープも自分たちの時代は“ボッブ・ホープ”と呼んでいた、との指摘。いかにも当時の庶民の感覚でよろしい。映画関係評論では、“ッ”を取った表記をするとなんとなくインテリっぽく見えるという法則があるな。ヘプバーンとか、ヒチコックとか、マクイーンとか。ウッディ・アレンがいつの間にかウディ・アレンになってしまったのも、インテリ層が“ッ”を嫌ったか らであろう。
11時、家を出て総武線で両国へ。横綱通り(やはり横綱でいいらしい)の有名立ち食い店(椅子はあるが)で蕎麦。両国は立ち食い蕎麦の街、でもあるとか。ついてきたミニエビカツ丼というのが案外うまかった。そこから歩いてお江戸両国亭、旭亭南湖独演会『幻の南湖』第二回公演。両国通りを見るたびに思うが、お江戸のイメージの代表格な地名のくせに、江戸情緒とかほとんどない場所である。客席に女性の姿が多いのがトンデモ落語などと違うところ。かなりの年配の方もいらっしゃる(後で聞いたら加納一郎先生だった由)。開演時刻には席は満杯の盛況。うちのサイトでも告知していたのだが、そこを見て来たらしいのはと学会のS山さんとIPPANさん の二人くらい。ちと自分のサイトの影響力を悲観する。
芦辺拓さん、わざわざ大阪から来てくれている。隣りの席に陣取り、例によりいろいろと濃い話。私が以前の南湖公演の感想で書いた、新作の入れ物としての大阪講談の語り口調について、など。やがてすぐ南湖さん上がり、なんと三席連続口演という凄いことをやった。開口一番が古典として有名(旭堂一門のお家芸らしい)太閤記の『長短槍試合』。他愛ない話なのだが、上方話芸の特長のひとつではないかと思っている言葉の繰り返しが何度も出てきて、それが何とも言えないリズムを醸し出している。それから新作講談、『誕生日』。こないだ聞いた『さやま遊園』と同じく、ノスタルジーばなしなのだが、これも語りの口調のせいか、きちんと講談として地に足のついたものになっていて、ラストの泣かせ(実際に涙が重要な小道具になる)が見事 に型になっている。
私は神田陽司のファンなのだが、彼の場合、新作はあくまでストーリィ、テーマ性を重視していて、その分、クラシックな講談の、聞いていて耳に心地よい“内容のなさ”をだいぶ犠牲にしている。(「内容で勝負ならもっと徹底的に型を壊すことが大事」と私が言うのはそこなんだが)そこらへんで、陽司独自の“聞かせ”がこれから年期の入っていく段階でどう生み出されてくるか、に期待している。ところで南湖の場合、その分下駄が履かされているというか、どんな内容を持ってきても、大阪講談独特のレトロ調というものの枠の中で消化する(せざるを得ないというか)分、聞いている人がたとえ古典しか認めないオールド・ファンであっても、たぶん違和感なく 聞けると思うのである。
そのことは、今日のトリネタの『幻燈』(初代快楽亭ブラック作)でも言える。この作品、芦辺拓氏が原作に手を入れていろいろと盛り上がりを工夫してはいるが、所詮明治の寄席にかけられていた落語。内容などは無きに等しい(会場の客の大半はミステリ関係の人だったもので、ラストの犯人当てのところではみな、唖然となっていた)。六代目圓生が死の当日の朝に総領弟子の圓楽に言ったという、
「内容のない話を聞かすのが芸人の腕なンです」
という言葉は、“内容”ばかりを重視する近代的芸術観への真っ向からの対立だろう。いや、貸本漫画、キワモノ小説、大衆娯楽映画などに何故か引きつけられる私にとっての、これは後半生のテーマなのかもしれない。そのアンテナに、かなりピンと 反応した、今日の『幻燈』だった。
……とはいえ、長講三席ぶッ通し、というのは、演っている方も大変だろうが、聞いているこっちもくたびれる(小学生らしい子供が最前列で聞いていたが、じっと、最後まで騒ぎもせずに聞き入っていたのが感心だった)。やはり若いのだなあ、と、その体力に感心すると共に、こっちはもうそんなに若くないんだから、というボヤキも出る。仲入りの時、楽屋にお邪魔して少し話。後半は山前譲さんとの対談、高座の上は暑いというので浴衣姿に着替えて缶ビールを飲みながら雑談。この雑談で会を〆 る(いや、〆っていたのか)という構成も『幻燈』みたいで凄い。
しばらくまた芦辺さんと話し、S山さんとも話す。打ち上げは駅まで歩いて、ステーションビルの中にある江戸和食『隅田』。
「“エドワショクスミダ”ってのは韓国語みたいだ」
とか言ったら、周囲の人がやたら笑った。加藤礼次朗とか中野貴雄とかと飲んでいると、話す内容全部がこんな感じなのだが、やはり一般人には異様らしい。
ここでまた芦辺氏、それからS山氏と雑談。S山さんは、担当する作家が2ちゃんねるをどうしても気にしてしまうので、あそこの書き込みの文章や傾向を、数ヶ月かけて分析・研究したそうだ。“無記名というものは、それだけで「社会一般の声」というイメージを与えてしまうので、そうじゃない、あそこのひとスレッドの書き込み者の平均の数がいかに少ないかということや、批評内容の偏り、事実の間違いなどのデータを徹底して出しました”とのこと。出版社も大変ですなあ。5時半あたりでお開き。南湖さんは、駅ビル前にいた外人観光客に何故か気に入られて、一緒に写真を撮ったりしていた。芦辺さん、S山さんと喫茶店に入り、雑談の続き。さっきの女性たちが“混ぜてください”と言ってきたので、一緒の席に。コレクターたちのトンデモばなしをいろいろしていたら、やはりミステリ研の女性たちらしく思い当たる人物がいっぱいいると見え、クックと笑っていた。
8時に幡ヶ谷チャイナハウス。話し込んで30分、遅刻した。アスペクトK田くんに、K子、日記本に解説を書いてもらった浅野耕一郎氏、美好沖野氏に芦辺拓氏をまじえて。話した内容はいずれネットにあげるのでここでは割愛。日記論、都市論、演芸論、食事論にまで話が及んだ。チャイナのマスター、“これどう?”と持ってきてくれたのがなんとカイコのサナギの唐揚げ。中国産カイコだとのこと。齧ってみると外側はカラリとしてエビのような風味、中はねっとりとして、ナッツのペーストのような味。おつまみに結構。こないだ植木さんと昆虫食の話を中野でしたばかりであったのは、軽い西手新九郎。ところで浅野氏は、私の日記でいきなり西手新九郎という単語が出てきたときに、コレハ一体なんだ? と思い、かなり遡って出典を調べたと のことである。私の他には浅野氏とK田くんが口にしていた。
話していたのできちんとしたメニューを採譜していないのだが、黄ニラとベーコンの炒め物、金芯菜と帆立の貝柱、フカヒレの煮物、豆苗の炒め物など。マスターが特別料理、と言って出してくれたのが、犬とシイタケの煮物。ちょうど、この店でよく出るスッポンの煮物と煮た感じだが、もっと味が濃く、八角の香りが聞いており、モチモチした食感が素晴らしい。これはいい、と感動。美好さんも喜んで(かどうかは知らないが)ちゃんと口にしていたし、芦辺氏は大阪にトリックという愛犬を飼って いるのだが、“骨を残して持って帰って食べさせてやろか”と言っていた。
11時半まで、いろいろ食べて飲んで話して。K子は『名探偵Z』を持ってきて、芦辺さんにサインを求めていた。この人がこういうことをするというのは極めて珍しい。店を出た後、『幡ヶ谷賛歌』の銅像をみんなに紹介。タクシーで帰宅、今日は昼に35度という猛暑で、体中汗だく。シャワー浴びる。浴室の椅子が今朝から、やたら足の高いものに代わる。仕事椅子と大して高さが違わない。いささか落ち着かないが、使い勝手は結構。