9日
土曜日
ピンクレディたどるはわが家の細道
シャレとは全く関係ないけど、ピンクレディが元々はカクテルの名前である、ってどれくらいの“へぇ〜”なのだろう(この言い回し、使ってみると割合便利である。これまで、非・認知度を表す適当な日本語表現がなかったからか)。朝7時45分、起床。5時、6時台にも一度づつ目を覚ましていたが、風の音、雨の音、いずれも繁く窓に響いていた。明け方にはもう日本海側に去っているか、と思ったが、大型台風 らしく案外どっしりと居座っている。
朝食、トウモロコシと枝豆。トウモロコシはきのう中野の八百屋で買ったものなのだが、ほとんど甘味がない。やはり紀ノ国屋とかで買うものというのは大したものなのだなあ、と思う。私はダイエットの脂抜きのために朝をトウモロコシとかにしているのだが、毎日、このサクバクたる味のトウモロコシではとても続かないだろう。値段は三割増になるが、紀ノ国屋の甘いトウモロコシだから、毎朝がそれで苦にならないのである。グレッグ・クライツァー『デブの帝国』(バジリコ)を昨日から読みはじめたのだが、ここで問題にされているのは経済問題なのであった。現在問題になっているアメリカ国民の肥満は、主に低所得層に蔓延しているもので、ミドルクラス以上の生活レベルにいる人々にはダイエットを可能にする余裕と環境、情報があるが、低所得層はそんな余裕がなく、ただひたすらカロリーが高く、人体に蓄積されやすいパーム油で調理された、サービスサイズのファーストフードを食べるしかない。食後の運動をしようにも、スラム街の環境では危なっかしくておちおちジョギングにも出られない……ということが指摘されていた。確かに、ダイエットを続ける秘訣は、金のある程度かかる、“質”のいいもので、食べる“量”の埋め合わせをすることではないか、と考えていたところだったので、この著者の言は非常に腑に落ちる。
新聞には間に合わなかったようだが、テレビで沢たまき死去のニュース。中野貴雄監督がらみでプレイガールのビデオなど見返したばかりだったので驚く。個人的には『独占! 女の時間』での大姐御ぶりが印象に極めて深い。女性恐怖症を引き起こしかねないくらいであった。ご冥福をお祈りする気持ちにウソはないが、しかし、以前に選挙に出たときの、八代英太とのミもフタもない妨害合戦が面白すぎた。八代側は選挙区に“公明党はオウムと同じ”というビラをまき、沢陣営は八代英太の選挙ポスターの目をくり抜く、という嫌がらせに出た。八代陣営は、それならと八代英太のポスターの下に、池田大作のポスターを重ねて、その目の部分がちょうど合致するように貼ったという。すると、さすがに学会員はやはり会長さまの目をくりぬくことは出来ないらしく、この妨害はパッタリやんだとか。……何か、カラス撃退法みたいなエピソードであったな。
朝の雨は一時あがったが、そのうちザザッ、ザザッと突発的にスコールのような降りがあり、やがて昼前くらいから、ゴーッという嵐になる。気圧も何もあったものでなく、全身フラフラ。なんとか北海道新聞の書評原稿のみ片付けてメールするが、後は何も手につかず。昼はまた讃岐うどんを、今日はぶっかけで。と学会MLに、快楽亭の集まり(『アマゾン無宿』のこと)を流したら、K子が間違えてうちのサイトの イベント欄にアップしてしまった。まあ、いいか。
寝転がって『デブの帝国』(しかし、凄いタイトルだね)を読む。アメリカが肥満国家になってしまった原因をあらゆる方向性から検討。この“あらゆる方向性”というところが、著者の良心的かつ徹底した取材姿勢を示しているが、逆にまた、読後感を散漫なものにもさせている。語を変えると、悪役を一人に絞っていないところが、センセーショナリズムや陰謀論におかされていない、信頼感が感じられるということにもなるのだが(大体、一人に絞っていないどころかあらゆるところに悪玉がいるように書いてあって、読んで憂鬱になってくる)。その中のひとつにキリスト教原理主義者(ファンダメンタリスト)があるのが意外かつ面白かった。彼らの信ずるところによれば、“肉体は邪悪で滅びる運命にあり、魂は善良で不滅である”のだから、魂を育むことを重視するならば、肉体の方は多少の欠陥があってもかまわないわけで、また、同性愛や妊娠中絶を絶対悪と規定して糾弾していく関係上、大食などの小さい悪事には寛容にならざるを得ないらしい。原理主義に限らず、教会がそもそも行動規範を教えるシステムでなく、愛とか寛容とか容認ばかりを説く、癒しの役割を担う場になってしまったことも問題だ、と著者は見ている。
結局、企業の論理というのは金が儲かればその結果自国の国民の健康がどうなろうと一切構わないものなのだし、また人間というのは、快楽が得られれば自分の肉体がどうなろうと先のことは考えない動物である、と著者は諦観しているようだ。それを防ぐのは国家の規律であり、厳しい監視であり、“いまのままの自分が素晴らしい”という癒し系の考えの排除であり、適度な運動ではなく、肉体をある程度痛めつけるまでの激しいスポーツであり、あるときにはデブを嘲笑する残酷さも必要なのだ、というのが結論である。
「子供たちのひとりひとりには個性があり、それを尊重すべきで、スマートなことがカッコいい、という上からの価値観を押しつけてはいけない」
という価値観の多様性(なんという魅力的な言葉!)を重要視する近代思想が、アメリカ人の健康をここまで損ねてしまっている、といういらだちが、この本の、ことに後半部分の行間からは強烈に立ち上っている。少しでも肥満の害を教育現場で訴えようとすると、“そんなことをしては太った子供たちの自尊心を傷つける”という進歩的な教師からの反対意見が出る、“子供たちが自分に自信を無くしたらどうする”という苦情が親たちから出る。そんなことはない、と著者はデータを元にして叫ぶ。子供たちも太っている自分を恥ずかしく思っているのだ、デブのままでみんなに認め られるよりはスマートになりたいのだ、と。
個人的には、“右翼はセックスに対しモラルを要求し、左翼は脂肪に対しモラルを要求する”などという、笑える分析が面白かった。私は全てのものに、たとえ九分の非はあっても一分の理は必ずあるという考え方なので(例えば私の周囲の肥満者たちには、人生における快楽のアンテナに極めて敏感で、情報量がとにかく豊富な、話の面白い人が多い)、肥満をとにかく絶対的に許し難い悪の根元、と決めつける禁欲主義的な後半部分の論調にはいささかついていきがたいものを感じたが、アメリカという複雑な国家を、“脂肪”という面から断ち切って分析したこの本の視点は、実に斬新で、知的な興奮を与えられた。何を語るにしろ、具体的なところがとにかくよろし い。
夕方には雨があがるとか新聞では言っていたが、降り続ける。SFマガジン原稿をやるが不捗。8時過ぎ、タクシーで下北沢『虎の子』。お客は台風だからいないかと思ったら、さっきまで混んでいたそうで、メニューの多くがもう品切れ。荻原さんは依りに依って今日、札幌へ出かけたそうだが、無事到着(一時間遅れで)したそうである。K子と真鯛のカルパッチョ、ゴーヤチャンプル、アスパラと甘唐辛子の豚肉巻など。酒は日高見と喜久酔。帰宅時にはもう星が見えていた。