27日
木曜日
あなたに女の子のいちばん猥褻なものをあげるわ
く、くださいっ!(AVのタイトルとかで絶対ありそうですな)。朝、小学校の頃の石田先生の授業を受けている夢を見た。黒板に書かれる数式が私にはさっぱりわからず、さてわからないことをどうやってバレないようにしようかと必死で考えているというもの。大学や高校の頃のこういう夢はよく見たものだが、ついに小学校までさかのぼるか。石田先生は私に卒業時の通信簿で、オール5を(足のために見学だった体育まで)つけてくれた先生で、“君にはすばらしい未来がひらけています。頑張ってください”と通信欄に書いてくれた。さて、そのすばらしい未来が今の私なのであ ろうか?
朝食、オニオンスープ。グリッシーニという棒スナックを砕いて浮かべる。香ばしい甘味があっておいしい。母から電話、パソコンがフリーズしたという。電話ではどういうサジェスチョンも出来ず、コンセント引き抜いて再起動してみたら、と言っておく(後から写真をまた送ってきたところをみるとうまく行ったらしい)。アメリカではそんなに戦争のことで騒いでいないらしい。植木不等式氏の台湾日記にもあったが、今回の戦争で一番“燃えて”いるのは日本ではないか、と思う。
筑摩書房Mくんから電話、いまやってる『美少女の逆襲』とは別件で、阿佐田哲也の文庫解説の依頼。電話で阿佐田哲也、と聞いたとき、反射的に私は麻雀をやらないのでどうか、と口に出そうになったが、色川武大名義の懐かし芸人のエッセイ集だそうで、それなら私の縄張り内。これは楽しく書けそうである。これまで私が文庫や単行本で解説を書いたのは水木しげる、タビサ・キング、久美沙織、横田順彌、伊藤潤二、神田森莉、山咲トオル、姫野カオルコ、快楽亭ブラックという面々。逆に私の本に解説を書いてくれた人は、坪内祐三、小宮卓、植木不等式、みうらじゅん、立川談之助、藤田尚、デルモンテ平山、睦月影郎。なかなかこうして並べてみると濃い。
こないだ日記に書いたカラスの巣、今日、税務署の人間が三人、ベランダ部分に出てきて、巣を指さしてなんだか打ち合わせていた。やはり撤去か。夫婦ガラスの運命に思いをはせながら、『クルー』原稿書き出す。さまで苦労せずに1時間で400字詰め2枚半書き上げたが、さて、あまりスラスラ行きすぎて、果たしてどれだけ面白いものに仕上がったか、いまいち感触がわからず。文章は多少苦労したというくらいの方が読む方も手応えがあるのではないか? しかし、何度読み返しても内容に過不足なく、情報量もあり、笑える部分も入っている。これ以上望むのは贅沢か、とメール。このレベルのものを不満に思うのは、逆に言うと『と学会年鑑』などの原稿がノ リ過ぎていたためか。
1時半、家を出て、センター街『江戸一』で昼食。エンガワ、サーモン、カジキマグロなど。そのあと、渋谷古書センターに行き、南Q太のマンガなど数冊。そこから地下鉄銀座線に乗りこみ、京橋まで。映画美学校試写室でヴェルナー・ヘルツォーク『神に選ばれし無敵の男』試写。これは配給の東北新社のM嬢から直々に電話いただいて、招待されたもの。……試写にはホントにもっと足を運びたいのだが、どうも最近、躊躇してしまう。『週刊ポスト』の映画批評欄がなくなって(コーナー自体が消失した)、タダで見せてもらっても、それを紹介するワクを持たなくなってしまったためである。『刑務所の中』も『ブラッディ・マロリー』も、面白かったり興味あったりした映画だけに、何か協力する術がないのが残念だった。まあ、しかしそんなことを言っておると全然映画が観られない。せめてこの日記でせいぜい、言及することにしよう。それになにしろヘルツォークだ。二十数年前、まだ幻の映画であった『小人の饗宴』を、巣鴨であったか日暮里であったかの上映会で、畳敷きの部屋(と言ってもACTミニシアターのような上品なところではない、もっとアヤシゲな雰囲気の場所)で息を詰めて観てからのファンである。
試写室には吉田カツ氏がいた。数人、連れというかスタッフというかの人がついていて、彼らを相手に“こっちの席がよく見える”“いや、こっちがいいか、しかしこれだと前に頭の大きい人が座ったら困るな”などと言いつつ、席をいろいろ変えて選んでいた。私はいいかげんなところに席をとり、ロビーに出て、タイル張りの床や、 古風な照明など、古いビルの雰囲気を楽しむ。ここもあと何年、あるか。
さてこの映画、とにかく邦題がよろしくない。『神に選ばれし無敵の男』という収まりの悪さはなんとかならないか(原題は『インビンシブル』)。ナチスとユダヤの関係を描いた映画ということで、公開されればどうしたって『戦場のピアニスト』と比較されるだろうが、まず邦題の時点で負けである(ちなみにこっちの原題も極めてシンプルで、ただ『ザ・ピアニスト』)。それに、いかにもヘルツォークというか、わざとわざと、地味な題材の方へ視点をかける。ヒトラーのお抱え占い師であったハヌッセンを登場させ、ティム・ロスに演じさせながら、真の主人公は彼の一座にいたユダヤ人の怪力芸人、ジシェの方であり、彼をフィンランドの実際の重量挙げチャンピオンで演技の経験も全くない、ヨウコ・アホラに演じさせている。ヒロインのピアニストにはこれも実際のロシアのピアニスト、アンナ・ゴラーリを起用。ピアノは確かに大したものだが、顔はお世辞にも美女、とは言い難い。地味、である。ラストのジシェの不幸も、観て思わず失笑してしまったような地味な事故の結果であった。神に選ばれし勇者の、あまりに小さな死。地味、である。
しかし、その地味さを味わっているうちに、何というか、じんわりと素材の旨味が感じられてくる。これまでのヘルツォーク映画に比べると、ストーリィが極めてわかりやすいから、かもしれない。ナチスを実にわかりやすい悪として描き、純朴な怪力男シジェを、ひたすら好漢として描く。その善悪の単純な対立の中に、アクセントとしてティム・ロスが舞台での演技かと思われるほどアクの強い、わざとくさいツクリ派の芝居とマスクで割り込んでくる。あのウド・キアがかすむほどの怪演は、この映画の中であきらかに浮いているのだが、その浮き具合をちゃんとヘルツォークは狙って撮っているんだろう。ティム・ロスの顔は神田陽司に似ているな、と思う。まあ、アンナ・ゴラーリにも似てるのがなんだが。ハヌッセンの話は陽司の講談になるな、とか思いつつ観ていた。
ヘルツォーク映画の主要テーマの一つに、自然に比べての人間の小ささ、というのがある。『フィッツカラルド』や『アギーレ・神の怒り』が露骨にそういうテーマであったし、『ノスフェラトウ』でも、ハーカーが旅をするシーンで、巨大な山岳の中にぽつんと点のように置かれた人間の卑小さを強調していた。今回の映画でも、ポーランドからドイツへ歩いて旅をするシジェの姿が、どこまでも野原に続く道の中にポツンと置かれる。そして、例によっての幻想的イメージは、今回はカニである。線路上をびっしり埋め尽くすカニは、やがて近づいてくる列車のことも知らず……ああ、わかりやすい。ヘルツォークはわざとシンプルなイメージばかりをこちらに突きつける。ドラマを描こうというのでなく、これは“寓話”なのだろう。極めて明解なキャラクターの対比、シンボルの多用、単純化されたストーリィ展開(ハヌッセンの運命が一気に下り坂になるあたりなど、それが極端である)。大仰にメッセージを訴えず感傷にひかれず。ハリウッドではまず、受け入れられまい。しかし、悲劇ではあれ、見終わった後、どこか体の芯が暖かくなるような、そんな作品だった。
ウド・キア演ずるドイツ貴族が、ゲッベルスに向かってドイツは粋でない、という話をする。ベルリンのカジノに、日本人がいた。彼は温容な笑みを浮かべながらルーレット勝負をじっと見つめていただけだったが、閉店間際になって、やっと席につくと、全財産を黒に賭けた。店じゅうの目が彼に集中する。やがて盤の回転がとまり、玉は赤に。するとその日本人は恥ずかしそうに頬を赤らめ、にっこり笑って店を後にしたという。
「わかるかね、これが“粋”ってもんだよ!」
……私にはなんかよくわからなかったが、日本人がいきなりこんな文脈で登場し、しかも褒められたのには驚いた。
試写終わって地下鉄で青山まで。週刊新潮『冗談じゃすまないTVブロスのユダヤ記事』という記事をちと憂鬱に読み、紀ノ国屋で買い物。帰宅して、仕事関係の連絡数件。8時半、大久保駅。チュニジア料理『ハンニバル』。K子が、ワールドフォトプレス社の担当編集者とまだ顔を合わせたことがない、というので、『男の部屋』のMさん、『フィギュア王』のM山さん、ヌカタ編集長と。例によりモンデールが
「ハーイセンセイ、オヒサシブリー!」
と歓迎してくれる。満員、特に女性客が多く、店内はかまびすしいほど。焼き野菜サラダ、チュニジアぎょうざ、魚と麦のスープ、クスクス、そしてウサギ丸焼き。ヌカダさんはこのところしょっちゅう出張でヨーロッパとか行ってるくせに、“西洋料理ってダメなんですよー!”という。T氏の話など、いろいろ。途中でヌカダさんはまだ会社に仕事が、と帰り、あとは女性二人と、カレシ関係のことなどいろいろ。ワイン二本とビールで、かなり酔った。