24日
月曜日
バイコヌール宇野重吉
三段〜ロケット松竹梅。朝6時半起床。と学会本の資料本などを読み返して7時半起床。朝食、バジルスパゲッティ、粉チーズ切らしていた。ブラッドオレンジ、ミルクコーヒー。朝、リビングダイニングに立って最初にやるのは暖房に火を入れることだが、だんだん、“今日は入れなくてもいいかな”という朝が増えてきた(まあ、まだ入れているけれど)。春近し、という感じである。昨日、天本英世が死んだが、その数日前に、理不尽大王、冬木弘道も大腸癌で死去。『死体解剖医ヤノーシュ』の主人公が“夏や冬はそんなに人は死なないから忙しくない。春が大変だ”と言っていた が、まさに。
春と言えば、仕事場の窓から眺められる渋谷税務署前の木の梢に、カラスの夫婦が巣を作って、いま巣作りの真っ最中である。かわるがわる木の枝や紙類などを運んで夫婦共同作業しているのが微笑ましい。あれだって、東京の烏害の観点から見れば撤去しなければいけないのだが、目の前で石原東京都知事の命を受けたカラス撲滅対策委員がヒナや卵を処分したら、なんと惨いことを、と心が痛むだろう。逆に言えば、イラクで死ぬ人々を思って心が痛むのと、カラスのヒナを思って心が痛む自分との距離感を客観的に見れば、その痛みはほぼ等価なのである。心の痛みを神聖にして絶対なるものと思いこむのは実は大きなカン違いなのではないか。
産経新聞に、こないだ『宇宙開発はいらない』とコラムを書いた大石静氏が、今度は『動物園はいらない』というコラムを書いている。前回のは暴論としての価値を認めて評価したけれど、今回の論はどうか。まず、彼女は宝塚ファミリーランドの閉園に伴い、東武動物公園に移されて来たホワイトタイガーをテレビで見たら、うつろな目をしていたと書き、“本来ならジャングルの中を走り回っているであろう百獣の王の何とも頼りない姿だった”と書く。はて、虎というのはジャングルの中を走り回っているのか。ジャングルというのはそもそも走り回ることが出来るようなものか、とか、大体百獣の王とは獅子のことでトラではなかろうとか、いろいろツッコミを入れたくなるが、まあそれはいい。彼女の主張に首をひねらざるを得ないのは、第一に、このホワイトタイガーが、ジャングルから連れてこられたのではなく、宝塚から引き取られたものだ、という事実があるからだ。東武動物公園は、宝塚の閉園で居場所のなくなった虎を引き取ったわけで、どう考えても、それを非難される言われはない。十年以上も動物園暮らしをしていたものを今さらジャングルに返したって、生きていけるわけはないのである。
大石氏は続けて、“子供に本物の動物を見せるために動物園をやる必要が、どこにあるんだろう? アフリカのジャングルにいる動物は、写真や映像で見ていれば十分じゃないのか?”と書く。“簡単には見られない場所にいるということを認識する方が、動物園の狭い檻の中で、痛ましい状態で生きている本物を見るより、ずっと意味があると思う”と。すぐ頭に浮かぶのは、山上たつひこが描いている、温泉地の屋内動物園で、足に鎖をつながれ、目が白くなり、足の指先が開いてしまっているゾウの図である。たしかに、あのような悲惨な動物園はなくすべきだ(個人的にはそういった悪夢的な場所は好みなのだが)。しかし、それを一般の動物園全てに敷衍するのは無理がないか。現在の動物園は、見世物としてだけではなく、種を保存するという役割がある。ホワイトタイガーのようなアルビノはもともと劣性遺伝子の蓄積なのだから、免疫力が弱く、寿命も短い。カムフラージュのための体色が役に立たないのだから、そもそも野生に置いたらロクに獲物もつかまえられず、生存競争からは脱落せざるを得ないだろう。白いトラを吉兆と見る人間のエゴが、皮肉な話だが彼らを長生きさせているんである。“動物には自然淘汰あって当然””むやみに手をさしのべるのは人間の傲慢”と大石氏は言うが、野生動物の絶滅危機のほとんどは、自然淘汰ではなく、人間の環境破壊がもたらしたものではないのか。そっちの傲慢を指摘しないで救おうとする方だけを傲慢と言うのはいかがなものか。
写真で遠い異国の地の動物を見せられるだけでは、子供たちの心に自然への関心は沸いてこない。今の戦争が遠い異国の地で行われているために、いまいち真実の姿が人々に見えていないのと同じだ。多くの自然保護運動家たちも、たぶん、自然としたしむきっかけになったのは、子供の頃の動物園での心躍る記憶だろう。人間が“前向き”に“発展”し続けて(どちらも私の嫌いな概念だが)いく限り、自然動物の生息環境はせばめられていくばかりである。そんななかで、動物園の存在は例え悪としても、人間と動物の関係を考える最前線となる必要悪なのではないか。大石氏は例のタマちゃん騒動での想う会・見守る会の双方を“傲慢に見える”と言い、“ホワイトタイガーのあの哀しげな目を、哀しげだと感じる心を、人間は失ってはならない。多くの人がそのことに気づけば、動物園はなくなるだろう”とこのコラムを締めくくっているが、果たして本当に、ホワイトタイガー本人(いや、本虎)は“哀しい”と思っているのか。何でアンタにわかるねん、とつぶやいた人の数は少なくないと思う。トラの感情をその目から読みとれる、と信じ込む大石氏の視線の方が、私にはよほど傲 慢、というかトンデモであるように見えるのだが。
昼は豆ごはんの残りに大根の味噌汁、昆布ツクダニ。講談社原稿を書き出す。前半で東京ドームの思い出(かの『8マン・すべての寂しい夜のために』の特別上映会に行ったこととか)を書き、後半が今回のオープン戦のこと、と思っていたが、前半が以外に長くなり、構成に苦心する。ちんちん先生こと菊池氏から電話。ちゃんと“菊池ちんちんと申しますが”と。河出の原稿のこと。読者へのフックつけに悩んでいる 模様なので、いくつかサジェスチョンする。
天本英世氏の追悼記事の依頼、さっそく。天本氏追慕の念のために、今回は原稿料を返上します、と言いかけたが、“私はプロです。これまでどんな小さな舞台であっても、お金をいただかずに演じたことはございません”という、某芸人さんのギャグを思い出し、やはり貰うことにする。天本氏の遺族とかからの依頼だったら、そりゃ取れないが。ところで、九州オタアミのスタッフでもあった藤原敬之さんから、天本氏は最後のGMKで名前を“えいせい”に戻していたのではないか、というご指摘を受けた。海外サイトのGMK紹介のビデオでの表記がEISEI AMAMOTOになっている、ということからだそうだが、私の手元の東宝の資料(GMK試写のパンフレット)では、ちゃんと読みを“あまもとひでよ”としている。海外の文献における日本人名の表記はいつの時代のものを資料としているか不確定だし、改名などしていない本多猪四郎監督の表記もISHIRO、INOSHIROが混在しているくらいだからアテにはならない。生前おそらく最後の刊行物であろう氏の語りCDのタイトルも『The world of HIDEYO AMAMOTO』なのだから、これは晩年は正式に“ひでよ”が通っていた、と見ていいと思う。
ひたすら仕事。日本資本主義の精神。7時半、Web現代アゲ。結局、前半は思い出ばなしばかりになって、実際の取材談は後半をお楽しみに、になる。オープン戦ネタは少し時期はずれになってしまうが、ドームネタはまだいろいろあるので、マア、ダレることはないだろう。そのあと、J&J業界誌のネタをいろいろ選択。あれでないこれでないと。こないだ書いたクルー原稿は、ゲラのイラストと送付されてきた雑誌のイラストが異なっていた。黒人の顔が漫画チックに描かれていたのが、まずいと判断されたのだろうか。漫画チックだったのは原稿内容が漫画チックだったのにイラストレーターさんが合わせてくれたもので、悪いことをしたと思う。黒人だって漫画チックな行動をするわけで、それを一切描けない、となると、これは問題である。
8時半、船山でK子と待ち合わせ。着いたとき、ちょうどK子が階段を上がって、こっちに携帯で連絡を取ろうとしていたところだった。聞けば、8時が待ち合わせ時刻だったという。すっかり失念、8時半だと思っていた。こないだは満席の状況だったのに、今日はガラガラ、まったくの独占状態。戦争の余波、ではまああるまいが。突き出しが春の香り三点、フキのきんぴら、ホタルイカ塩辛、それに赤貝のキモという珍しいもの。刺身には赤貝の身の方が出たが、これはK子にさらわれる。鳥貝を食べるが、すさまじく甘い。あと、珍しいカンダイの刺身。カンダイというのはコブダイ(瘤鯛)のメスで、春が旬の鯛に比べ冬が旬なので寒鯛と呼ばれる、らしい。外道魚で味はまずい、と言われているらしいが、身がしまっていて、K子はおいしい、と絶賛。船山さんが使っている、講談社α文庫の『日本食材百科事典』を、コレハオモシロイと熱心に読んでいたら、“あげますよ”と、真新しいのを一冊、くれた。築地で売っているらしく、すぐボロボロになるので何冊か買うが、お客さんでよく欲しが る人がいるという。
それから蒸しもの、シロアマダイのカブト。シロアマダイは白川というのが和名であり、昔はグジというのは白川のことで、今、グジといって通用しているアカアマダイなど、グジとは言わなかったそうな。以前は相模湾、駿河湾でいくらでもとれたが最近では幻の魚だとのこと。これに限らず、食材百科の魚の項目を見ていると、アジもシシャモもマイワシもあれもこれも、という感じで“近年になって漁獲量が激減”とか書いてあり、われわれが魚を食える最後の世代になってしまうんじゃないか、というような暗い気持ちに襲われる。白川、さすがの美味。あと、ウマヅラハギの唐揚げと、筍ご飯。おかわりしたい気分を押さえて一杯のみ。デザートも食わず。