9日
日曜日
自閉隊
外で戦いたくないんです、国の中にこもっていたいんです。……あ、今と大して変わらないか。朝、8時5分起床。今日も寝過ごし。どうしたかな。あわてて飛び起きる、というわけにいかず。全身が凝ってキリキリと痛む。大掃除のせいで筋肉痛。われながら自分の体の情けなさに呆れる。その後のマッサージも、きつく揉まれた後のジーンとくる快感がよくて、強く揉んでくださいと頼んだせいもある。うー、うー、とうなりながら、台所で朝飯を作る。ピタパンにソーセージの茹でたの。果物はモンキーバナナ。
産経新聞の週間番組ガイドに、宇仁菅真のインタビュー記事が。といってもわからないだろうが、あの『ストレッチマン』のお兄さん、である。1965年生まれだとあるから、もう38歳。お兄さんというよりはおじさんだったのだ。体操のお兄さんかと思ったら新劇の俳優さんだという。あのノリは俳優でないと無理かもしれない。すでにストレッチマンを演じて十年目。十年同じ役を演じられるというのは、なんともうらやましい。快楽亭から電話。11日の入り時間のことについて。
小説を書評するのは難しい。今回、読売書評欄で文芸評論家の千石英世がマーク・ダニエレブスキー(今、この人名をカタカナ変換しようとしたらATOKが“ら抜き表現”と注意を表示した)の『紙葉の家』(ソニーマガジン)を評しているが、それを読んでつくづくそう思った。この小説は徹底した実験前衛小説で、読者の通りいっぺんの理解を拒否することを最初から想定して描かれている作品なのである。前衛的とはどういうことかというと、現在だとか、日常だとかという、われわれが普通、ものごとの理解や、感情の共有のモノサシとして使用するものの上に乗っかることを拒否し、現在という時間、日常という感覚から断絶した、孤立の世界を描き出しているということである。……ところが、書評というのは、読者と作品を、この日常的モノサシを橋渡しにして、その作品がいかに現在の読者の知性や感性を刺激するか、ということを伝えなくてはいけない代物だ。通常の批評における感動の共有を武器に出来ないところで、どう、読者に読書意欲、購買意欲(しかもこの本は4600円もする大著なのである)をかきたてさせられるか。通常の小説なら、その欄のすぐ下に載っている、詩人の穂村弘による竹本健治『クレシェンド』の書評のように、酔っぱらいの感想文みたいなもので済ましてしまってもまあ、形はなすだろうが、相手が相手だけにそういったものではおさまるまい。そう考えた(のであろう)千石氏の書評は、あたかもその書評も含めて小説の一部ででもあるかのような、複雑怪奇なの形を呈するに至った。
思えば、昔はこういう小説も“二十世紀の新しい小説の形”“文学の先端を行く”などというお題目で飾れば、最先端中毒の読書人たちがみな争って読んだ。文学作品が世界を代表していた、幸福な時代であった。今や、そんなことを言っても誰も見向きもしない。文芸評論家という商売も、やりにくくなった。そんな時代の書評家の苦衷をこの評は率直に表したもの、と見ることが可能かもしれない。
まず、読むものは誰も、この評の構成の奇妙さ、読みにくさに首をひねるだろう。普通、小説に限らずどんなものを対象にもせよ、書評の大部分は、最初に本の内容のざっとした紹介をし、次にそのテーマ性の現代における意義であるとか、出版されるに至った経緯であるとかという周辺のことを語って、それから評者個人の特に読者に注意を喚起しておきたいポイントなどを示し、結論じみたもの、あるいは推薦の辞を一言二言、述べて〆メるというのが定番だ。ところが、今回のこの千石氏の評は、冒頭三行こそ“アメリカにしか現れぬ種類の野心的小説だ。作者の第一作という。驚くべき筆力。『V』によるピンチョンの鮮烈なデビューを思い出す”と、ごく普通の書評風に始まるが、そこからいきなり“だが、一読、一抹の疑念も残る”と、この書評の読者を置いてきぼりにして、いきなり読後の疑念を表明する。そして、
「アメリカ的知性消耗の文学、〈現代思想オタク〉の、とは、アメリカはエリート大学院の〈トンデモ秀才〉の、止めようにも止まらなくなった衒学趣味ではないのか」
などと、説明を放り出して、首を傾げ続ける。“とは”というのは原文ママであるが、なんべん読み返しても意味が通じない。ここは誤植だろう。しかし、ここまで難解な構成になっていると、この誤植にも意味があるのではないか、と思えてくるところが妙だ。オタクだのトンデモだのといった俗語まで用いて、いったい、この評者は何をそんなに問題にしているのか、とこちらは不安になってくる。そして、まだいろいろと独り芝居的な自己問いかけをした末に、“メルヴィルの『白鯨』以来、アメリカ小説にはアメリカという不幸を摘出する義務がある”と述べ(“義務”ときましたか義務と)、そこからようやく、しかし唐突に、この小説の筋と結構を説明しはじめるのである。“複雑怪奇な構成の小説である”と言っているが、この書評の構成もまた複雑怪奇と言わねばなるまい。そして、そこで紙数が尽きたとみえ、
「結果、本作は家の小説、家庭喪失の家庭小説となる。不幸だ。傑作だ」
という、わけのわからん文章でしめくくられるのである。家庭という言葉はそこまで以前のこの評の文章中に一語も出てこない。“家”の存在が基本になることはわかるが、どこに家庭がからんでくるのか、さっぱりわからず、“不幸だ。傑作だ”と独り合点にうなづく評者を前に、本を未読の読者はただ、取り残されて呆然とするばかりである。
書評を“機能”と考えれば(私はそのように、これまでさんざこの日記で言ってきたが)この評はまったくその機能を果たしていない、それこそトンデモなものでしかないだろう。いままでも、このよみうり堂においては、評者の能力の低さ故のトンデモ書評がいくつも散見された。本の内容を伝え、どこに魅力があるかを指摘して、未読の読者に購買欲をわきたたせる、という機能ならば、書評委員でない編集者たちの手による、『今週の赤マル』欄の方がさすがプロと思える手際で、ことに松井雪子の『チル』を扱った(則)氏は、これもかなり不条理な内容を持った暗いファンタジーの中身を手際よくまとめ、提示している。見事だ。しかし、この書評技術が『紙葉の家』に通用するかどうか。いや、そのような手際で本を読む気にさせられるような読者、意義をもって読書にとりかかるような読者にとり、『紙葉の家』は不必要の極地のような存在でしかあるまい。この本を本当に読んで感動、とまではいかずとも感心する読者はおそらく、日本中に三千人、いるかどうか。千石氏は、おざなりな紹介の道を選ばず、自分がこの本にかじりついて苦心惨憺した、その軌跡のようなものを正直に吐露することで、このように前衛文学に取り組んでみたい、と思っている読者だけのために、あえてこのような、不可解と思える書評を発表したのだろう。書評を読むだけでも、何かこの難解至極の小説の入り口に立ったような雰囲気を味わえる、これはこれで傑作書評のうちに入るのだろうと思う。……ただし、新聞の書評欄にこのような本を取り上げることにどれだけの意義があるのか、はまた別の問題である。この本の4600円をはじめ、今日のこの欄で取り上げた本はまたぞろ、2800円、9700円、3800円と、ふところのお寒いサラリーマンには手の出ない値段のものばかりが並んでいる。五つ星の超高級レストラン紹介本みたいに、評だけ読むことでいっぱしの読書人になったつもりに読者をさせる、そんな意味を込めているなら別 だが、それは新聞というものの本来の役割ではもはやあるまい。
筋肉痛さらにひどく、コンドロイチンとアリナミンをのんで、ヨタヨタと階下の仕事場に降りる。私にこの筋肉痛をもたらした結果の、整頓された部屋を見れば、少しはこの苦痛も意義あることかと思えてくる。K子が“やれば出来るじゃない”と評したほどの出来。今日は阿部能丸くんから、上の空藤志郎一座のお笑いライブ公演をさそわれていて、ベギラマからもメールを貰っていたのだが、無理はすまい、と思って不義理を伝えるメールを出す。一日、おとなしくしていよう。
布団に横になってネタ本に目を通しているうちにグーと寝る。目が覚めたらもう、2時を回っていた。いかに片づけをしたからといって、この疲れは異常だと思い、熱を測ってみたら、6度9分あった。これは風邪の症状だな、と判断。筋肉痛というより関節痛であったかと思う。ただ、風邪をひいたのは昨日片づけで汗をかいて、それをそのままに放っておいたためだろうと思うので、やはりあれが原因か。
なにはともあれ、飯を食いに痛む足をひきずって外出。兆楽でギョウザと半ライスですまし、東急本店地下に買い物に行く。途中、ビーム裏でまた、Web現代の図版に使える光景を発見、またこないだと同じく近くのコンビニでレンズ付きフィルムを買って、撮影する。本店地下紀ノ国屋で買い物の後、ライトオン前で拝郷メイコという歌手の路上ライブをまた撮影。追っかけらしい男性ファンがみんなデジカメ撮影していたのでその中に混じったが、ネギや大根の入った紙袋を下げたおっさんの撮影は 一体何かと、スタッフも胡散に思ったことだろう。
帰宅、また熱っぽさぶりかえし、布団に入ったらおちいる様に眠ってしまい、目が覚めたら7時近く。しかし、体はかなり軽くなっていた。夕食の準備にかかる。鯛の切り身をさっと熱湯にくぐらせて湯引きにし、木の芽と合わせたもの、豚肉とモヤシの味噌鍋風、キンキの干物。こないだの残りを冷凍しておいたものを焼いたが、風味も落ちず、まだ美味。カリカリに焼けたので、頭を残し、ヒレも背骨も尻尾も、余さず食べてしまった。DVDでまたCMフェスティバル、それから久しぶりに『百万両の壷』を半分まで見る。K子が、つい全部見てしまって夜更かしになる、と途中で止めさせた。博多の薬剤師のMさんから到来の『魔王』、うまくて少し過ごしすぎ。