裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

31日

木曜日

DVDタイを釣る

 早口で読むこと。朝、8時半起床。朝食、カニサラダサンド。おとつい買ったカニ肉が残っていたので。果物は二十世紀。巨人優勝の記事に、原という男の運の強さを見る。これくらい、人生に影とか失敗とかのない人物も珍しいのではないか。うらやましいとは思うが、モノカキ的には、あまり面白い人物ではない。

 K子は早めに、伊勢丹の下着バーゲンに出かける。平塚くんの奥さんはじめ、大人数のメンバーとなり、ブラ買いオフをその後でやるとかいう話である。Web現代で取材しようかと思ったが、Yくんが昨日、写真撮影などの許可を伊勢丹に求めたら色 よい返事が貰えなかったとのことで、諦める。

 今日が〆切の就職情報誌『クルー』の連載エッセイ、資料庫にこもってネタを練って、パソコンの前に戻り、ヨシ、と一瀉千里に書いて完成させる。と、言っても枚数的には400字詰め2枚半であるが、これくらいの枚数に、ネタをギュウ詰めにして書くのは快感であり、ざっと書いてあふれた字数を、いちいち文章を推敲しながら調整していく作業も楽しい。しかもここの原稿は枚数の割に原稿料が大変にいい。このくらいの仕事が月に20本くらいある、という状況なら、この稼業も楽しいものなの であるが。

 風呂入り、着替えて外出。銀座松竹本社にて崔洋一監督『刑務所の中』。早く見なくては見なくてはと思って、ついつい用事で見のがしているうちに最終試写になってしまった。あわてて行く。ドリー蛇臼氏が来ていたので挨拶。上映が開始されて、タイトルが単行本と同じ字体で出る。“あれ、あの本の装丁、井上デザインだったよなあ、このタイトル文字使って、いくらか出たのかな”とか考える。原作にない、冒頭のガンマニアたちの戦争ごっこシーンが秀逸。顔ぶれがいかにも銃器オタクっぽい。よくこういう顔を揃えたなあ、と感心する。それに比べると、刑務所の中の面々は、ワンシーンのみの出演にまで窪塚洋助だの椎名桔平だのといういい役者を揃えた豪華なキャスティングの分、やや、わざとくさい感じがする。もちろん、面白さを減じるようなことではないが。あと、実弾を撃って陶然となるハナワ(山崎努)の表情から刑務所風景への切り替えは、も少しカットつなぎを唐突にした方が落差が表現できる ような気がした。

 刑務所の中に入ってからは、山崎努の、神韻すら感じさせる演技と相俟って、原作のエピソードを非常にうまく案配して、演出と編集の妙を味合わせてくれる。この映画に好感を抱かない人というのは(“歴とした犯罪者たちをこのように好感のもてる人物として描くとはけしからん”という頭の固いバカをのぞけば)多分、一人もおる まい。癒し系映画、という感じすらする。

 なんで、こんなにこの映画で描かれる刑務所内生活が楽しそうなのだろうか。受刑者たちは、夕食の春雨スープに入っている肉の切れが今日は大きかった、というささいなことに大喜びし、寝具の畳み方をきちんとうまくやれたことに深い満足を覚え、主人公は飯に醤油をかけて食うその美味の発見に、人にそれを教えたくてたまらないほど心を沸き立たせ、浴場で見る誰それの乳首が凄く小さいというドウシヨウモナイ情報に、“今度の入浴のとき、絶対見てやろう”と決意するほど興奮し、懲罰房内で行う薬袋張りの枚数を、自分で達成ノルマを決めて一心不乱に熱中する。そのノルマ の達成が、彼にとっては凄まじい充実感をもたらすのである。

「幸福とは、ワクがあってこそ、初めて十二分に味わえるものだ」
 という原則を、この映画は、ひょっとして日本映画で初めて、全面かつ前面に押し出して主張している。なぁんにもメッセージのない呑気な映画に見えて、これは実は極めて重要なポイントを示した重い作品なのではないか。
「なんでこれだけモノが充足している日本において、人(われわれ)は幸福感を得られないのか」
 という問題への、これはひとつの回答足り得ているのではないか。

「総量がわからぬ幸福の受容は、決して幸福な状態ではない」
 のである。一億儲けた人間は、“ひょっとして、も少し運がよければ、俺は一億一千万儲けられたのではないか”ということに、常に心を悩ますのである。九十歳まで長寿を保っても、死ぬときには“あと何年かは、まだ生きられたかも知れないのに”と悔いを残して死ぬのである。自分に与えられた幸運の総量がわからないから、常に人は不満と不安の中で暮らさねばならない。うまいものを食っても、もっとうまいものが食えたかも知れぬと嘆き、恋人が出来ても、もっといい女と巡り会えるかも、という迷いが心をおだやかにしないのである。故・山本夏彦は、現代人の不幸を“分際をわきまえぬ”ところにある、と喝破した。江戸時代の職人は、大名になることを決して望まなかった。“分をわきまえて”いたからである。
「楽しみは 春の桜に秋の月 夫婦仲良く三度食う飯」(太田蜀山人)
 というあたりが、庶民の望む幸福の最大公約数であった。むろん、その安定の中で芽を潰された天才たちも数多かったに違いない。しかし、天才は常に少数派である。上を見て悩み苦しむことも、天才に与えられた運命であり、それを乗り越えようと常人に非ざる努力をしたからこそ、天才は天才として名を残せた。庶民は天才のように悩まずに済む、特権を与えられていた。現代社会はその天才の悩みを、全ての人間に享受せよと迫るのである。悩んで全員上にいけるなら、誰だって悩みもしよう、苦し みもしよう。しかし残念ながら、全ての人間が天才ではないのだ。

 この映画で描かれている刑務所の中では、幸福の総量は最初から定められている。定められているからこそ、受刑者たちは、その中で、その総量を出来るだけ完璧に享受しようとする。幸福を受信するアンテナが、シャバの人間よりとぎすまされているのである。電気カミソリの乾電池が、冬の方が持ちがいい、ということに気がついて深い知的満足感を得、我慢に我慢をした末に用便許可をとって放出する小便に、極めて大きい充足感を得るのである。正月に支給される特別料理のことを何度も何度も、繰り返し語り合いながら、毎日を希望を持って過ごせるのである。そこには、限定された条件内故の、われわれ自由人には望むべくもない“人生の充実”がある。

 この映画の冒頭の、戦争ごっこシーンを、あるいは蛇足と評する人がいるかも知れない。私も観ている最中はそう感じていた。しかし、後で改めて思うと、これは、主人公(彼がマンガ家である、ということは映画では設定されていない)が、非日常の中に人生の充実感を求めていた人物である、という設定を観客に説明するのに、極めて上手い方法である。そこから彼は、日常の中での充実感へと、己れの追い求める方向性をチェンジした。そこがこの映画の描きたかったところ、という感じがする。不満としては、ラストでもう一回、その対比を見せてくれれば映画全体がも少しスッキリしたまとまり方をしたのだが、などと、これだけ楽しませてもらった末にまだ文句を言いたくなるのも、私が映画というものから受ける幸福の総量を、いまだ把握していないからだろうか。あ、あともう一つ。作業場で真っ赤に燃えている重油ストーブが、撮影現場が火気厳禁だったため、赤ペンキを塗って処理していた。あれはいくらなんでも安直である。こういうときにこそ、CG処理の出番なのでは?

 映画終わって出たら、配給会社の人に、何か大変に私の評価を期待している、というようなことを言われた。“カラサワさんは原作の方も大変に評価していらっしゃいましたから”と言う。私が原作について、商業出版物で触れたのは『週刊読書人』くらいだと思うのだが、よくあんなマイナーなものまで目を通しているものだ。

 途中までドリー氏と雑談しながら。氏は今日は夕方から東宝で『ゴジラ×メカゴジラ』の試写に行くという。私も行くつもりだったが、原稿があるのでパス。銀座線で表参道まで出て、夕食の買い物をして帰宅する。気がついてみたら昼飯を食いそこね ていた。ソウメンを茹でて、虫やしないにする。

 28日までに返送予定であった早川書房のフェア用のサイン本、70冊あまりに、サインをせっせとする。本の種類によって似顔絵の表情を変えたりして、いらぬ工夫をするのも、こういう単純作業を充実したものにするため、と、もう『刑務所の中』の影響を受けている。終えてしばらく原稿書きにかかる。が、6時に取りに来ると約束していたヤマト運輸、いっかな来ない。8時を過ぎると明日に届かなくなる。電話 して、催促。7時過ぎに来たのに手渡す。

 それから原稿、『Memo・男の部屋』を4枚、形に仕上げる。まだ少し細かい字句の修正が必要なので、メールは明日にして、夕食の準備。ナス皮・アスパラと羊肉の炒め物、キャベツのスープ煮、ナス中身とイカボールの煮物。野菜をたっぷり取って満足。ビデオでフランコ・ネロ主演のマカロニ・ウェスタン『真昼の用心棒』。実に実にいいかげんな邦題である(大体主人公は用心棒なんかではない)。監督が後にスプラッタ・ホラーで大家となるルチオ・フルチだけに、全編異常者と流血と残酷のオンパレードで、人がもう虚無的にボコボコ死ぬ。主要キャラクターは全員ナニを考えているんだかわからぬ変質的な性格で、なにやらホモっぽかったりファザコン、マザコン(乳母に対してだが)ぽかったりするが、脚本がそれをまったく一生懸命描こうとしていないから、観ている方まで最後には虚無的になる。アヤシゲな孔子の名言を引用しながら周囲をケムに巻く、街の鍛冶屋兼葬儀屋兼ピアニスト(!)で吹矢の名人の中国人を演じたチャン・ユーがいいキャラクターだが、後半はまったく出て来ないのが残念。良くも悪くも典型的60年代マカロニウェスタン。今の若い人に見せたら案外斬新だ、と喜ぶような気がする。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa