裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

11日

日曜日

ピナツボまなこ

 いつ噴火するかをじっと観察している目のこと。朝9時過ぎ起き。昨日の宵っ張りのせい。朝食、キノコリゾット。果物はリンゴ。日記つけ、裏モノ会議室などに書き込み、週刊アスキーの執筆にかかる。ブツは半年ほど前に骨董市で買った大人のオモチャだが、これをモトに、書き出しがピッと決まったところで一旦筆を置き、入浴。その後ダダダと書き出し、1時までにほぼ、書き終える。

 この原稿は毎回図版用のブツをまず決め、そこからテーマを設定し、そのテーマとのつながりでエピソードを選択し、執筆している。めんどくさいように聞こえるかも 知れないが、これが案外、気楽なのである。今朝の読売日曜版にロシア語通訳の米原 万里さんが書いているように、モノカキにとって、テーマを決めるときが最も七転八倒する段階なのだ。以前、ある連載でこのテーマ選びに苦慮のあまり、担当編集者に“なにかそちらでテーマを決めてもらえますか”と頼んだら、しばらくして、“では今回はこれで”とFAXが来て、それには“カラサワさんのお好きなことで”と書かれていたことがあった。編集者さんにとっても、そんなことを毎回考えるのは大儀なことなんだろう。決めていただければ、それこそ人工衛星でもコンニャクでも、いかにも唐沢、というものは書き上げてみせる。私の原稿が遅いのはひたすら、テーマ設 定のなかなか決まらぬせいであることが多い。

 米原さんはそのエッセイの中で、自由創作ダンスのことに触れて、
「音楽に合わせて身体をくねらせるだけの、誰もが動かしやすい動作をするものだから、みんな同じ踊りになって、見ている方も退屈だし、本人もすぐに飽きてしまう」
 と言っている。大いに同調したい。型がきちんと決まっている踊りほど、自己表現も自在だし、踊っている最中の開放感も、満足度も高い。自由であるはずが結局、個性の喪失につながっている今の若者を見て、米原さんはこう言い切る。
「不自由な方が自由になれるのである」
 全てのことにこの原則が適用できるかどうかは措くとして、世のクリエイターたちはもう一度、このことを考えてみた方がいい。私がガンダムだのエヴァンゲリオンだのガメラ3だの仮面ライダークウガだの、“既製の子供向け作品のワクを大きく広げた”と評される作品に批判的なのは、この考えに基づくものであるかもしれない。

 昼はチャーハン。K子に弁当でこのチャーハンを作っているうち自分も食べたくなり、同じものを炒めて食べる。昨日の神田の古書市で、『よみうり演芸館』切り抜き帳を三○○○円で買った。昭和三四年ごろに読売新聞に連載されていた、テレビ、新劇、大衆演劇の時評欄のスクラップである。特にテレビ時評が、新興メディアとして映画をしのぐ勢いで伸びてきたテレビ界の覇気と混乱を伝えていて、興味深い。某製菓会社(森永だろう)の提供で放映されていた子供向けSF番組『宇宙船エンゼル号の冒険』(杉浦直樹主演)の話があるのだが、その写真を見ると、宇宙船内部のセットも、杉浦以下乗組員が着ている制服も、しっかり『禁断の惑星』のベレロフォン号のデザインを模倣している。また、初期カラーテレビ放送番組『ファミリー・スコープ』の写真を見ると、なんと大怪獣バランのぬいぐるみが特別出演して、司会の小島正雄とカラんでいる。バランは白黒映画であったから、この番組が実にバラン最初のカラーでのお目見えだったわけだ。はて、初代バランはいったいどんな色をしていた のだろうか。

 午後から夜にかけてはやること多々で、結局なにひとつマトモには完遂できず。エンターブレインに献本先リストを作ってメールすることくらい。6時過ぎ、家を出て夕食の買い物。シャモ鍋とハモの皮のキュウリもみ。ビデオで、こないだ配給会社から送られてきた『SEX/アナベル・チョンのこと』を見る。1995年、10時間で251人の男性とセックスするという世界記録を樹立し、ポップ・カルチャーのカリスマとなった女子大生ポルノ女優アナベル・チョンの記録映画。もちろん、その世界記録樹立までを追う涙と感動の記録……ではなく、それをはさんでの彼女の生き方を追うドキュメンタリー。

 シンガポール華僑の一人娘としてロンドンで育ち、アメリカにわたって南カリフォルニア大学でジェンダー・スタディの修士号を取るべく勉強していたころからヤリマンで、ポルノのカリスマとなってオカマの美少年と同棲しているアナベル・チョンこと本名グレース・クェック。容貌は松田聖子と俵万智を足したみたいなオカメだが、アメリカの男どもにはたまらないエキゾチックでロリータな魅力と見えるのだろう。ビデオは4万本を売るという空前のヒット、マスコミの寵児となってテレビのトーク番組に出演して放送禁止語を連発し、ケンブリッジ大学の討論大会にまで招かれて、過激なフェミニズム論を述べる。こう書くと順風満帆のような人生に思えるかもしれないが、その実、当の251人ファックビデオは悪徳プロダクションのせいでギャラをもらえず(監督がインタビューに答えて堂々と“彼女は金銭以上のものをこの作品から得たんだよ”と悪びれもせず答えるところがやはりアメリカ人は凄い)、内緒にしていたシンガポールの母親にはこのことがバレ、エイズの不安にさいなまれ、肝心の記録は二番で出てきたアーパーなガングロ娘(ただし肉体的にはずっと上等)に追い越される。歯が黄色く汚れているのが見ていて気になるが、たぶんドラッグのせいでボロボロになっているんだろう。結局彼女は居所を外の社会に見出せず、一度は引退したポルノ業界にまた舞い戻る。作品のテーマは、性を売ることイコール被害者という狭いフェミニズムの論理を超えた人間的な部分を追うことなのだと思うが、見終わったあとに残るのは、やはり性を売り物にしている女性の哀しさと、世間常識との齟齬という、古く、しかし重いテーマだ。

 私的には、全米ポルノ業界大会までビックサイトみたいなとこで開催されちゃうアメリカのポルノ界の市場の巨大さ(4万本程度で空前のヒット、というセコさと、この構成人数の多さを考えあわせると、ちょっと頭がクラクラするくらい、業界そのものの底辺が広い、頂角の大きいピラミッドになっているんだろう)が興味深かった。いくらアナベルがカリスマでも、フェミニズムで理論武装していても、そんな女の子の一人や二人、底なし沼にネズミが呑み込まれたようなもので、誰もなんとも思わないのであろう。またまた、という感じでデブのポルノ男優ナンバーワン、ロン・ジェレミーが登場、彼女の251人ファック達成ビデオの司会をやっている。この記録映画での彼のテロップが、“ポルノ・レジェンド”だったのには大笑いした。3月24日より、六本木俳優座トーキーナイトにてロードショー。御興味のある方はぜひ。

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