裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

30日

金曜日

川上から大きな桃がドン・ムラコ、ドン・ムラコと流れてきました

 お婆さんとお爺さんがその桃を切ると、中からたくましいハワイ系レスラーが現れました。……もっとも桃太郎どころかこのドン・ムラコ、WARでは“赤鬼”という名のマスクマンになっている。朝、7時25分起床。朝食は貝柱粥に梅干。果物はスイカ。朝から陽射し暑く、今日も夏日ぽい。産経新聞のコラム『産経抄』今日は、日教組が“男女”の呼称を“女男”に変更せよと主張しているのを批判している。それはいい(確かにこの手の主張は大馬鹿三太郎である)が、イキオイ余って、女は昔からなよなよとしたところが魅力で男心をくすぐるのだ、などと書き、例の66歳女性を二十年間ストーカーしていた48歳男を“犯罪はけしからぬが、憎めないところも ある?”と変に同情している。問題が違うだろうが。

 入浴。バトラーの歯間ブラシに代わる(ハンズででも探したがすでにここでも終売らしかった)ものを数種買ってきて、試してみる。ルミデントというやつが使用感がいまのところいいようだ。日記つけ済ましてあわただしく11時に時間割、と思ったらまだ閉まっていて、東武ホテルで河出S川くんと打ち合わせ。サマー・カミングスの写真渡す。あとスケジュールの詰まってきたことについて、開田さんの絵の掲載について。タイトルのことで少し話した中で、“こういうのは?”と提案したものが、ちょっとS川くんの琴線に触れた模様。さらに雑談で阿佐田哲也の評価とか。旭堂南 湖さんのことを話したら、かなり興味をしめしていた。

 帰宅。仕事電話数本。日外アソシエーツから届いた、『新訂 現代日本執筆者大事典』に掲載するという、私の部分の記述に手を入れる。本来、モノカキ界のゲリラでいたいという気持ちの上からは、こういうところに名を記すのは邪道なのだが、紀田順一郎先生(私の古書エッセイを初めて認めてくれた人)が編集委員になっている以上断れない。昼は母のカレーライス。郵便局にて、7日の構成台本を声ちゃんのところへ速達で送る。

 3時半、東銀座に出てUIP試写室まで。時間を読み違えて、ギリギリの到着になる。世界文化社Dさんのお誘いで、映画『アンダーカバー・ブラザーズ』。なんでまた世界文化社でこんな映画を? と訊いたら、むこうから売り込んできた、とのことであった。バカ映画ももう食傷気味だが、これはちょっとひと味違ったバカ。一言で言ってしまえば、黒人版『オースティン・パワーズ』である。パウエル長官をモデルにしたとおぼしき、アメリカ初の黒人大統領候補(『SW』のランド・カルリシアン男爵だったビリー・ディー・ウィリアムス)を幻覚剤であやつり、大統領戦への出馬を辞退させ、代わりにフライドチキンのチェーン店をオープンさせようとする悪の組織に戦いを挑む正義のヒーローの話。明確にブラック・プロイテーションムービーでありながら、ブラック・パワーの後退や時代錯誤になった部分、デニス・ロッドマンの悪趣味などもちゃんと自らバカにして笑うという視点をキチンと確保しており、そこらへんの余裕というか、気持ちの成熟がうらやましい。日本における平等論者のヒ ステリカルな意識ではこんな映画は絶対作れないだろう。

 スパイ映画のパロディとしてはそう新鮮なものでなく、悪の組織が白人至上主義者の団体で、善の組織が黒人解放同盟であるという設定は単純(雇用機会均等法で黒人側の組織にも白人が雇われているというギャグはなかなかいい)だが、とにかく小ネタであってもギャグがたくさん詰め込まれている、というのがいい。日本で“馬鹿馬鹿しい”という批判を怖れずに一本の映画にこれだけギャグを入れられるのは中野貴雄くらいしかいないだろうが、日本で中野貴雄がなかなか認められないのも、このためである。コメディなのだから、ギャグの数の多さが評価基準になるのは当たり前だろう。もちろん、どうしようもないものも多いが、そういうギャグでも手を抜いてないのがいい。『スターシップ・トルーパーズ』のデニース・リチャーズの女闘美もあ り、ここも中野テイストである。

 この映画、アメリカでは登場第一週で『スピリット』や『インソムニア』を抜いて興業収入4位にいきなり食い込んだそうだが、まず、日本ではヒットすまい。根本になっている黒人文化と白人文化の食い違いの基礎知識が、日本人にはサッパリわからんのである。白人組織に主人公を潜入させるため、白人文化に彼を慣らそうと、組織がツナサンドを食べさせる。一口食って吐き出した主人公が、“こりゃなんだ! こんなものが食えるか!”と叫ぶと、組織の科学者、“だめだめ、白人の間に潜入しようとするなら、このマヨネーズの味に慣れなくては”と説教する。ははあ、マヨネーズというのは気障でブルジョアな白人文化の象徴なのか。で、主人公は秘密兵器の時計を与えられるのだが、この時計はボタンを押すとタバスコが吹き出て、なんとか白人の食い物を黒人が食える味に整えるのである(ここのギャグで終わらせずにこの時計を後でまた使っているのがいい)。まあ、主人公とデーニス・リチャーズ(知らない人に言っておくが白人女性)が二人でアツアツカップルとして、カラオケで『エボニー・アンド・アイボリー』をデュエットするのが、あまりにも気恥ずかしい行為、という皮肉くらいはわかりましたが。その他、映画や音楽の趣味、言葉の違いなど、ことごとく白人と黒人の対立ギャグとして使われている。日本人にこれをわからせようというのは、日本で言うと東郷隆の定吉七番シリーズの大阪/東京対立ギャグをア メリカ人に翻訳して読まそうというに等しい。

 主人公の味方の中に過激な黒人文化至上のトンデモさんがいて、コンピューターは黒人が作ったとか、クレオパトラもハンニバルも黒人だった、とか、黒人の犯罪率が高いというのは白人たちの統計のゴマカシだ、と主張する。主人公が“じゃあ、O・J・シンプソンはやっぱり無罪なのか?”と質問すると頭をかいて“ああ、あれは、まあ、いいじゃないか”と誤魔化すのには笑った。あと、白人が“僕は今まで黒人の歴史を全然知らなかった! 『ルーツ』を見て、初めてあなたたちの悲惨な歴史を知り、われわれ白人たちのしてきたことを恥じる気になりました! 人類はみな平等なんだ!”と感極まって演説するのを、黒人たちが“おまえ、ダサいよ”と軽くイナすのも非常にオトナ。こういう二回転半ひねりしたような感覚はやはり、日本人にはウケぬであろう。ある意味黒人がうらやましいのは、どうしても外見で白人とは一緒になれない、という現実があり、その壁をきちんと認識した上で平等という問題を論理的に考える、ということを基本から学んでいることだ。これが例えば、朝鮮人と日本人の対立においては、お互い肉体的にはまったく区別がつかない、ということが、その間の差別感情にかえって抜き差しならない非論理性を付与させて問題をややこしく している。差別感情の根幹が不明瞭なのだ。

 試写室に客は私とDさん入れて七、八人しいかいなかった。バカ映画としては出来がいいものなので、ここでちょっと力入れて宣伝させてもらう。試写用パンフで、スタッフや役者の談話を、みんな“です、ます”で訳しているのはちょっと失笑もの。
「エディは上手にその場に対処が出来て、いとも簡単に全てのキャラクターへ変装して、我々を驚嘆させたんです」
 などという口調はこの映画に全く似合わない。まあ、
「エディはサイコーのフィット野郎さ。どんなキャラクターにも早変わりしちまう。みんなぶっ翔んだもんよ!」
 なんてやったりするのもちょっとナニではあるが。

 Dさんに別れ、地下鉄で六本木へ。明治屋で買い物。しばらく行かないうちに明治屋もおしゃれに改装された。帰宅して、原稿書き。後はずっとそのまま。中笈さんから当日の待ち合わせ場所など確認電話、あと東京大会の取材応対などにつき、MLで頻繁にやりとり。イベントの第一回というのは、ノウハウがまったくないところから作り上げていかねばならない。まったくもって大変なものである。それだけに、みん な燃えるわけなのだが。

 9時半、K子と一緒にタクシーで東新宿、焼肉の幸永。さすが金曜日で団体客が多く入っており、三十分近く待たされる。バカみたいな大声ではしゃいでいる若い連中のグループ、えんえんと仕事についてのラチもない無駄話をしているサラリーマン連中など。右隣が体育系らしい先輩後輩、左隣がやたらひっきりなしに食い続けているカップル(さすがに“よくこんなに食べたねー”と自分たちで感心していた)、さらにその向こうの席もカップルだが、男の方がデビュー当時の吉川晃司みたいな美男なのに対し、女はヘチャ。こういう組み合わせのカップルを見ると、何か応援したくなるのは何故か。いつものスライステール、極ホルモン、豚骨タタキ、豚足、冷麺。冷麺やはりうまし。ホッピー二本。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa