裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

19日

火曜日

カーソンは夜なべをして

『沈黙の春』書いてくれた。朝、8時起床。朝食、モヤシと菜の花のスチーム。コンソメスープ一杯、ブドウ数粒、ミルクコーヒー(砂糖抜き)。薬類は小青龍湯、麻黄附子細辛湯、リナグリーンにビール酵母。こう書くと何かクスリ漬けのようである。

 仕事関係メールチェック。こないだネット注文した上下巻の資料本、やはり下は書店在庫ナシという報せが来た(注文時にはアリになっていたのだが)。版元に品切れだと、古書店で探さねばなるまいが、下だけというのはちょっとなさそうに思える。結局、上下揃いを買って上を無駄にすることになるかと思うと腹立たしい。

 冬コミ用同人誌のタイトルを『恐怖の巨顔女』にする。アメリカン・バカコミの特集本。中国共産党員同士の恋愛マンガだの、ウルトラマンのエロパロディだの、日系同人作家が描いた宇宙戦艦ヤマトのエロパロディだのといったものを脈絡なく集めてみました。その翻訳作業を進めねばならないが、それと平行して開田さんの冬コミ同人誌『特撮が来た』の原稿もやらねばならない。モノマガN田くんから業界情報、それから別件で原稿依頼。AIQ(九州オタクアミーゴス)のエロの冒険者ことHさんから上京に関する報告。その他もろもろ。

 昼は昨日の残りご飯をミソむすびにして、朝K子に作ったジャガイモ炒めの残りのイモを味噌汁にし、弁当代わりに作っておいて、同人誌を書き始める。今回のネタは三池崇史『DOA(デッドオアアライブ)FAINAL』。徹底したバカ映画。なみのバカ映画のように、テンション高くバカを笑う、というのでなく、もう、観ているこちらを底なしにダルにする感じのバカである。第一作がダウナーの果てに究極のハイテンションがどーんと来た作品とすると、こっちは最後にいきなりテンションがガガーッと下がってブッたぎられたように終わる。いずれにしても監督はねらってやっているであろう。テンション上げるのをねらう監督はいても、下げる監督は滅多にいないのではないか(アクション映画で)。東南アジア系の、薄汚れた蒸し暑い映画館で気の抜けたビール飲みながら観るのに最も適した映画かもしれない。いや、タイのプーケットあたりで海風に吹かれながらぼーっとしていると、本当にモノを考えるのがバカらしくなってくる。そういう環境で観ればベラボウに面白い映画なのではないか、と思える。

 映画に限らず、マンガ、文学、全ての創作物を論じるときの私の基本スタンスは、“いい作品も悪い作品もいっしょにして論じる”である。スタンスと言ったが、これは言うに易く行うに難い。われわれの持つ“評論的言語、評論的思考”は、全て、質の高いものを基準に論ずるように作られている。と、言うか、それらは大抵、質の低いものを切り捨てる役しかつとめていない。大衆文化を論じるということは、質の高低ではなく、その普及と影響を主眼にして論じるということなのであって、これをこの観点できちんと語る言葉を、いまだわれわれは開発していない。その必要性が認識されたのがつい、このあいだのことだからである。評論の言葉というのは大衆から乖離した学問の世界用の道具であって、それをどうにかこうにか使いこなして、アクロバット的に大衆文化を語らねばならない。いわばわれわれ大衆文化評論家は、ライフルを与えられて昆虫採集をやらされているような立場にいるのである。

 なんとか、高級ならざる作品を相手にする際のコトバとして、われわれは“B級”“バカ”“トンデモ”というような用語を探しだし、用いてきたが、これとて、その一部のものを評価する基準にしかならないし、もともとが蔑称であったものだから、イメージ的にも普遍性を持ったものとは言い難い。まず、その価値を表す言葉を作り上げるところから始めねばならないという、評論世界のロビンソン・クルーソーが大衆文化研究家なのである。

 そのうえに、そもそも先に言った“いいものも悪いものもいっしょに論じる”スタンスには、反対意見も多い。『モスマンの啓示』の新訳『プロフェシー』の後書きで訳者の南山宏氏は、著者キールのUFO情報の取り入れ方に対し、
「同じUFO研究家でもある訳者自身の立場からいわせてもらうなら、UFO情報をミソもクソも――といういい方が下品すぎるなら、シグナルもノイズもいっしょに受け入れるキールの姿勢にいささか疑問を感じる。人間という不正確きわまる観察装置を通してしかUFO情報の大半を入手できない以上、データとして認める前にまず真実土の高い情報(シグナル)と偽情報や誤情報(ノイズ)を激しく峻別して後者を捨ててからでなければ、正しい判断は下せないはずだからである」
 と批判を加える。私などにしてみれば、国書刊行会の超科学シリーズで初めて『モスマンの啓示』を読んだとき、最も斬新で、刺激的で、これからはこれだッ、と感じたのは、そのミソもクソもいっしょの姿勢だったのだが。

 南山氏の姿勢、というか思想の根底には、“UFO問題はつきつめていけば必ずそこに「真実」がある”という信念、もっと歯に衣着せずに言ってしまえば願望、がある。しかし、氏をはじめとするその世代のUFO研究家たちが、追っても追っても真実に到達できない状況を見ながら育ったわれわれには、すでにして“本当にUFOには真実ってあるのか?”という、重大な疑念が心の底に沈殿しているのである。それはあまりにUFO情報がアヤシゲなものばかり、カスばかりであるところからの正当な疑問呈示であり、そして、やがてそこから“ひょっとして、このアヤシゲさこそ、UFO問題の本質なんじゃないのか?”という思いが湧いてくる。われわれがこれだけかかってUFOの正体をいまだ見極められていないのは、ノイズを切り捨てていたからではないのか? 真実は、実はクズ情報の中にもっとも明確に見えていたのではなかったか? というコペルニクス的な視点の転換が必要だった。キールの著作はまさに、その“啓示”を与えてくれた著作なのである。もっとも、その視点から導かれるキールの結論はあまりに飛躍が過ぎてついていけないようなモノであったが。

 とにかく、これからは、南山氏の言う“ミソもクソもいっしょ”の見方、考え方をわれわれはあらゆる文化に対し取り入れなければ、少なくとも70年代以降の文物に対しては、その本質は見えないと断じたい。映画、マンガ、文学、ゲームやネット情報などまで含めた、“質を問わぬ”総合研究体系を、われわれは早急に打ち立てる必要があるだろう。

 などと考えつつ、ちょこちょこと台所に行っちゃ握り飯を食い、また仕事場に戻っちゃ原稿を書き、とやりながら一日を過ごす。買い物にも行かず、散歩にも出ず。5時ころ完成させて開田さんにメール。内容は上記の論旨とは関係あまりないものである。それから、Web現代にすぐ取りかかるが、やはりクタビレたか、テンションが上がらず、グダグダしてしまう。メール送信簿を調べたら、扶桑社のOくんにだいぶ前に送った、『愛のトンデモ本』のグラビア撮影の日取り問い合わせが、まだ未開封になっていた。ベギちゃんから連絡は行っていて、調整するという答えはあったらしいが、はてどうなったか? よほど忙しいか?

 日記のダジャレタイトルをまとめたデータを、少し整理する。そろそろこの趣向を初めて三年になる。1000近いダジャレをアイウエオで分類しているのだが、なかなか壮観でもあり、頭脳の無駄遣いの果てとも見える。一個、ダブりがあったのを発見。また、同じようなネタを何回も使っているものがあり、クサる。早川書房Aさんから電話、bk1から、『キッチュワールド案内』の紹介記事をbk1のサイトに載せるので、このサイトからのリンクをお願いしたいとの申し出があったとのこと。もちろん、別に問題なし、と答えておく。

 それに関して、ネットで12月発売予定の本を検索。一応、私の著作としては12月10日にちくま文庫から『お父さんたちの好色広告』、上旬に幻冬舎文庫から『カルト王』、17日にこの『キッチュワールド案内』が刊行決定している。他には海拓舎の『崖っぷちの名言集』があるが、これはまだいつ出るとかの呈示がない。年内に来年の2月発売の原稿を入れておかねばならないのだが、どこから手をつければいいものか、という状況。予定がつまっているのはありがたいが、逆に交通整理が必要になる。

 9時半、家を出て東新宿『幸永』。最後に行ったのが長野の花火からの帰りだからちょっと間があいた。幸いすぐ座れる。2号店(本当は3号店のはずだが、あまりに近いというか隣りなので、こっちは“新店”と呼ばれている)が出来たせいか。K子もすぐフィン語からかけつけ、いつものスライステール、極ホルモン、ゲタカルビなど。寒いのでテールスープも頼む。ドア近くの席だったのでなお寒いが、見ると日本人客は店を出る(携帯が鳴ったとかで)とき、ドアを開けっ放しで出る。韓国人の客は、きちんと後を閉めていく。こういうところで、日本は負けるよな、これは21世紀には、と感じる。ホッピー二杯。冷麺は一杯を二人で。ちょっと味が変わった(汁が濃厚になった?)気がしたのだが。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa