裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

26日

日曜日

キャスバルにいさん謎の人

 キャスバルにいさん彗星人。朝6時半起床。ゴジラと偽ゴジラを音韻で区別するという言語学的オタクな夢を見た。北海道は緯度が高いから夜明けが早い。起きて外の明るさから、もう8時くらいか、と思った。目の方はほぼ、回復。サメアブラの効験あらたか也。天気予報では曇りということだったが、まぶしいほどに陽の光が庭を照らしている。緑が朝露に映え、こうまでわが家の庭は美しかったか、と感嘆する。これは思うのが当たり前で、以前、私たちが住んでいたときは爺さんが暇にまかせて素人手入れをしていただけで、爺さんが死んで後は日曜に母がちょこちょこと枝などを伐るくらいで、ほとんど野放しになっていて、雑草も何も生い茂りっぱなしだった。親父が寝込んでそれも出来なくなったので、近所の植木屋のおじさんにアルバイトで手入れをしてもらっているのである。プロは違う。とは言い条、ツバキ、アジサイ、木蓮など、色とりどりの花が咲き乱れ、まことに美しい。あと2年でこの家も無くなるわけだが、その懐古の情がなお、いろんなものを美しく見せているのかもしれないと思う。

 朝食はベーコンと目玉焼きにトースト。ベーコンのスモーク風味のいいことに驚いて母にそう言ったら、最近の甘ったるい味付けベーコンに飽き足らない人がほとんど自家製に近い形で作っている昔ながらのベーコンを分けてもらっているのだとか。K子は母に頼まれて、家のあちこち、庭のあちこちを今のうちに写真に撮っている。私もつきあって庭に出る。黒と白のだんだらの鳥の羽が、やたらに芝生に散らばっている。裏庭を散歩していたなをき夫婦がやってきて、物置の前にこの鳥の手羽部分が落ちていた、と言う。行って見てみると、よく手羽料理でおなじみの形の骨が、その先に羽がくっついた状態で、綺麗に肉をこそげ落とされて片翼、落ちていた。まだ血の跡が生々しい。猫の仕業か、それともカラスか。近くに魚の頭も落ちていた。これはゴミ箱からさらってこられたものだろう。

 母の運転する車に乗り、近くの業務用食品店『キャロット』に行く。ここは調べてみたら母体が大槻食材株式会社といって、昭和23年から函館・札幌等で事業展開している業務用食材・食器器具類販売の会社である。食い物関係オンリーのドンキホーテという感じで、なかなか面白い。巨大カン入りタバスコだの、鶏油1リットル瓶だのという業務サイズを見ると、それだけで家庭料理のイメージがゆすぶられてクラクラする。冷凍だがうなぎワンパック160円というのもあり、ホントにうなぎか、と首をひねる。ここへ来たのは母が、“今日のホテルの食事、余らせる人もいるだろうから持ち帰り用パックを買って持っていって、こっそり(ホテルに内緒で)渡す”と言い出したため。一周忌の施主がそんなところまで心配しなくていい、と、15年前の私ならそこで言い合いになってまた母子ゲンカだったろうが(本当によく、そういうことでケンカする親子だった)今の私はハイハイとついていき、荷物持ちをし、ビニールの風呂敷を探してと命じられてヘエヘエと店内を歩き回る。逆に薄情になったのかも知れぬ。しかし、ワタアメ製造器からソフトクリームサーバー、ポップコーンマシン(あの透明なドームの中でポンポンポップコーンがはぜるやつ)まで売っていて、見回るだけで飽きない。紙製の皿に食器模様が印刷されているやつで、ご丁寧に“有田”と小さく描かれているのもあって大笑いする。コピー食品というのはあるがコピー食器まであるとは。

 帰宅し、昼飯を食う。といっても今日は3時から会なので、簡単ににぎりめし。塩ジャケのと梅昆布の。出来合の漬け物を細かく切って大葉とショウガのみじん切りをまぜた簡便かくや。ナスの味噌汁。ワイワイ言いながら食べる。K子はやはりこの家を売るのが惜しくなり、いろいろ母に言って翻意をうながしている。彼女は故郷を捨てて東京へ出てきたハイマートロスであり、代替の実家としてのこの家にわれわれ以上の愛着を持っているのであろう。

 タクシー分譲で京王プラザホテル。実は札幌のこのホテルに入るのははじめて。2階の広間にて、だが、開始までしばらくロビーで待たされる。今日は薬業界中心の会であり、主役は豪貴で、われわれは単に出席するだけで、何の役目もない。来場する人々の品格の月旦をなをきたちとして時間をつぶす。紋付姿のえらそうな人が来たので誰かと思ったら千葉哲平(高校時代の友人)の親父さんだった。×姉も来る。昨日の日記で書いた147億借金亭主の元奥さんである。亭主がいきなりそれだけの借金を抱えてヤクザに追われ、雲隠れしたという凄まじい経験をしながら、今ケラケラと笑っているのが、何か不思議なような、人生重く考えることないというような。薬業関係の人で、昔の私の顔を見知っている何人かにも挨拶される。が、もうそういう人も数えるほど。むしろ若い人たちが、クスリエッセイで私の顔を知っており、“来るとわかっていれば本を持ってきてサインいただいたんですが”などとはしゃいだりしている。“来るとわかっていれば”って、親父の一周忌に長男が出席するのは当たり前ではないか。

 やがて会が始まり、発起人、業界代表の挨拶、それから薬局を代表して豪貴の挨拶などが続く。献花ということになり、皆整列してしめやかに白いバラを遺影の前に備える。その際に故人の生前の声のテープが会場に流れる。演出に凝ったわけだが、これが漢方薬勉強会での公演の記録であり、お題が“湿疹と漢方”。いきなり“こういう風になるとですね、水ぶくれの皮が剥けてきまして……”とか、“下半身の湿疹は主に股ぐらから……”などと言うセリフがぼこぼこ出てきて、その中を大まじめな顔でみな、献花する。笑えて困った。

 料理、まあこういうホテルのは……とバカにしていたのだが、和食中心であり、へえ、と驚くレベルだった(あくまでもホテルのこういう料理としては、だが)。ごま豆腐ウニ乗せからはじまって、お造り(最初トコブシと思ったくらい小なりとはいえアワビがつくのは凄い)、フカヒレ入り茶碗蒸し、海老と茄子と湯葉の蒸しもの(これが絶品)、特上牛ハラミ肉ステーキ、かにの酢の物、黒豆おこわ、デザートにメロンという豪華版。ステーキがなくもがなだったが、あとは満足。私が満足したくらいだから他の客たちも口々に料理は褒めていた。おこわの黒豆が甘く煮てあったのは減点対象。これは、北海道ではお赤飯に小豆のかわりに甘納豆を入れるという蛮習があり、そのデンで不祝儀事のおこわもと甘く煮たものだろうが、烏滸の沙汰なるかな。ともかくも、この意外の好評に母の目論見のお持ち帰りパックは陽の目を見ぬ仕儀と相成った。酒はビールに日本酒、それと父が会長だった漢方団体から特に提供されたサントリー『山崎』の水割り。親父はこの山崎が大好物で、どこへ行っても“山崎の水割!”で通していたそうだ。これは私には初知識であった。家では親父はビールとワイン、それに熱燗(冷酒というのは嫌いだった)しか口にせず、蒸留酒を飲む姿というのは見たことがない。やはり外で飲むときはうちとは違う人格にスイッチングがなされていたんだな、と思う。

 最後は母の挨拶。かわいらしい未亡人を演出。うますぎ。とはいえ、演技をしているという自覚もないのだろう。地と演技のキャラクターが未分領というのは私の家の特徴か。もっともK子なんかの方に濃いように見えるが。よしこさん(なをきの奥さん)もキャラと言えば、母が“ちょっと、あの恥ずかしい袋(パックとかを入れた手提げの紙袋)を頂戴”と言ったら“え、恥ずかしい袋って金玉袋ですか?”と、マイペースをくずさぬのがさすが。終わって皆を送り出したあと、豪貴夫婦は仕事関係の連中との二次会。私たち(私となをき夫婦)は母と喫茶店でしばらく雑談。今日来ていたNさん(からさわ薬局の初代番頭さん)のオート三輪で、小児マヒの私が毎日、豊平の整体医院に送られて行ったという話をしたら、母は“うちにオート三輪はあったことがない、それは別の自動車よ”と言う。記憶が混乱したか、と思ったが、よく考えると思い出した。その、店の小型運搬車が事故で修理中に、代替車としてNさんが借りて来たのがオート三輪だった。その異様な形状に、子供心には、ずっとそれで通っていたかのように印象に刻み込まれたのであろう。それにしても昔のことをよく覚えている母子である。

 なをき夫婦はそこから夜行の飛行機で帰京。私たちはタクシーで帰宅。少し休む。客用の布団というのは節々が痛むものである。9時にヤキソバとビール、500円のチリワイン(ちゃんとフルボトル)で乾杯。K子、なおこの家を売るなと母にからんでいる。NHKで『市民ケーン』、母が見ながらいちいち“これは誰だ”“なぜこの男はこういうことをするのか”“この女性はそれからどうなる”などと説明を私に求 め、往生する。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa