裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

16日

木曜日

ケツアルコアトル三度ある

 タイトルに意味はない(ひさしぶり)。朝7時ジャスト起床。一度6時ころに目が覚めて手洗いに立ったのだが、そこで久々というか二十年ぶりくらいに続きものの夢を見た。最初の夢は地方の遊園地のようなところに出かけていき、そこの映画資料館で昭和10年代の作品だという忍術映画を観る。主人公が洞窟の中で魔物に術を授けられるのだが、この魔物を稚拙ではあるが人形アニメーションで撮影しており、私が感嘆すると、いつの間にか脇にいた森卓也が、技術が下手だ、と文句を言い、“またこの爺さんは人が楽しんでいるものを”と、不満をもらす。連続ものの一編なので途中でストーリィは終わり、後はわからず、外へ出て遊園地のボートパレードなどを見る、という夢。目が覚めて、さっきの人形アニメの映像のイメージなどを思い浮かべつつ、面白い夢だった、とトイレに行き、帰ってまた布団にもぐりこんでうとうとしたら、その続きを見た。さっきの映画の続きのシナリオが載っている映画雑誌を図書館で借り出して読む夢。それから先が敵討ちばなしになって忍術合戦があまり出て来ないので、物足りないではないか、と何か憤慨していた。

 朝食、ウズラ卵の目玉焼き(これ、外国にあるものなのかな)とハム、トースト。食後日記つけ、入浴、洗顔歯磨きその他。Web現代の原稿、こないだ産経新聞のサイトへのリンクが有料になるので外して書き直したが、さらに読売新聞のサイトへのリンクも、そのサイトにあがっている写真に写っている人の肖像権ウンヌンということでNGが出て、書き直しになった。ネット情報というものはネットの名の通り、あちこちにリンクが貼られて情報と情報の思いがけない意外なつながりが生まれることで、立花隆センセイのいわゆるグローバル・ブレイン足りうるのである。新聞系のサイトはそこらへん、旧態な考えからいまだ脱していない。21世紀の情報時代に、新聞系サイトが主流足り得ないことはこんなことでもわかる。……とまあ、NGの出た腹いせに普段バカにしているグローバル・ブレインなんて概念を持ち出して八ツ当たりしてみる曇り空かな。

 人間国宝・柳家小さん死去。87歳。芸としては好みではなかったものの、その存在が重石として、ありとあらゆる落語界の問題の噴出を上から押さえ込み、何とか安定させていたことは確か。さて、その重石が消失した今、その混沌の中から何が飛び出してくるか? それはそうとその死去を報じたスポニチアネックスの記事の“人情ばなしを得意とした”ってのは何だ、と首をひねる。大物落語家が死ねば必ず“人情ばなしを得意とした”と書くもの、と思いこんでいたのではないか? すぐその後に“長屋ものや職人ものを得意とした”とも書いてある。落語に対してあんまり知識がない記者が書いたのか、それともよほど混乱して書いたのか。まあ、他の誰かの訃報記事からのコピペをもとにしたものであろう。

 芸能プロダクション時代、うちのような弱小に使えるレベルでない大物ではあったが、それでも思い起こせば2回ほどお仕事をさせていただいたことがある。横浜そごうホールでの寄席興業のとき、当時小野栄一の弟子で漫才をやっていた東野しろうという男が、自分は落研出身で太鼓の叩き方から仕込まれていると日頃自慢していて、じゃアと楽屋の名前札を書かせたら、“林家小さん”と書いて出しやがった。本人の入り寸前に同じく漫才で出演していた笑組さんが気がついて教えてくれてことなきを得たが、すぐその場でクルリときびすを返して帰られても、文句の言えない失態である。人を信じるもんじゃないな、と青くなって書き換えたのを思い出した。もう一回は平成三年の、これも横浜の教育会館寄席。入りが遅れるから、と電話があり、やがて入ってきたのを見たら、マネージャーの女性(生代子夫人亡き後の内妻だったというウワサがあったが)ともども、喪服姿だった。その朝、春風亭柳朝師匠が亡くなったのであった。

 不思議と、楽屋での小さん師匠の姿というのは覚えていない。教育会館のとき前方をつとめ、袖に降りてきた花緑(当時は小緑)に、“おまえ、何演ったンだい”と訊いて、その口調が祖父のそれと師匠のそれとが微妙に混淆された自然な感じで、実によかったことを覚えているのだが、さて、本人が何を演じたかも覚えていない。一緒に仕事した芸人さんの高座はたいてい記憶しているのだが、小さん師匠のときだけ、袖でマイク調節しながら大いに笑ったのは確かだが、後は空白である。私の中にある噺家の美学(文楽、志ん生、圓生を頂点とする)に合わない人だったからなのだろうか。“芸人は色っぽくなくっちゃいけねえ”という基準からすると、やはり小さんという人は武骨に過ぎた。もっとも、それだけに子供にはわかりやすくて、私が落語を聞いて大笑いした最高記録は小学生のとき、この師匠の『浮世根問』において、である。あの時は笑い過ぎて死ぬかと思ったものだった。落語という遊蕩芸術がテレビにのることが危険視されずに家庭にとけ込めたのは、この人の存在が大きかったのだろう。話の時代背景を微妙にぼかすのがクセで、『道具屋』の“ライスカレーはさじで食わい”とか、『強情灸』の“アイスクリームみてえなのこさえちゃったナ”とかいうクスグリがいかにもとぼけた落語調で、九代目文治の“蕎麦をクーデター”とか、圓生の“わいろ、袖の下、コンミッション”などという英語使いの、そこだけ際だたせる方式とは違って、江戸情緒の中に自然にそういう言葉が入ってくる、不思議な味を出していた。

 円丈の『御乱心』に、圓生脱退騒動のときの小さんの態度を弟子の夢月亭歌麿が絶賛するシーンがある。包容力があり、あわてず騒がず、落ち着いてはいるがここ一番でピシリと最も効果のある手を打つ。ここらへんは軍隊経験がものを言っているのであろう。あるいは武道をやっていたことからくる不動心か。芸至上主義の圓生と違って若手の自由な発想の高座を大いに認めていた(川柳川柳こと三遊亭さん生の芸を最初に認めたのは師匠の圓生ではなく小さんだったという)ことも小さんの考え方の柔軟性を物語る。ただし、落語協会に問題が多発しだしたのは、圓生から小さんに会長がバトンタッチしてからのことだ、ということも見逃してはいけない。柔軟性故に大量真打ち昇進、試験制度などという、そもそも落語界の体質に合わない制度を取り入れたことで、混乱は解決するどころか、さらに拍車がかかった。人の意見をよく聞くのはいいが、人の意見に態度が左右されがちだったという弱点もあった。圓生のように、最も芸の上手い人間が独裁制を敷く。はっきり言えばこれが団体を円滑に運営していくベストの方法なのである。しかし、時代の流れと小さんの性格は、そのような方式を受け入れられなかった。落語というものの存続に対する小さんの苦悩は、そのまま、現代の落語というものの抱える苦悩である。

 おりしもロフトプラスワンの斎藤さんから電話。次回(6月7日)の立川流トークライブの件であった。惹句の冒頭を、前回の“志ん朝という巨星を失った2001年の落語界”から“志ん朝に続き小さんという巨星をも失った、2002年の落語界”に替えてもらう。巨星の前に赤色、とつきそうな感じではあったが、しかしどうにもタイムリーに過ぎる。そう言ったら斎藤さんに“いかにもカラサワさんですね”と言われた。ナンデスカ。

 昼は冷凍庫にあった牛肉をネギと一緒にニンニク醤油で炒めて、生卵をかけて食べる。国分寺にあるという『サッポロラーメン』の名物、スタ丼(スタミナ丼の略か)の、豚肉を牛肉で代用したもの。これを作ったのは、こないだ行った大塚幸代さんのサイトに作られた『食べてみたいな小事典』で読んでいたから。この事典は日本国内にある(あった)、ちょっと変わった名物料理やアイデア料理などを集めたもの。掛け値なしに面白い。ネットだけでよくこれだけ集めたもんだと大感心する。
http://www03.u-page.so-net.ne.jp/ra2/yukiyoo/sp3/sp3-2.html

 3時半から『ブライド2』最終試写。時間が迫っていたのであわててタクシーに飛び乗り、ヘラルド試写室まで飛ばさせるが、運転手がカーナビに頼ったせいか、赤坂の方から大回りで行くという道をとり、とうとう開始時刻に間に合わず。あきらめて地下鉄で青山まで行き、買い物して帰宅。時間を無駄にする。『鉄人28号大研究〜操縦器の夢』(飯城勇三・編、講談社ソフィアブックス)が届いている。以前原稿を書いたやつだが、読んでみるとかなり軽めの作りである。しまった、こういう本だったのか。私はちと、生真面目に思い出を語ってしまい、浮いているようなイメージを与えてしまっているかもしれない。失敗した。

 昨日ドタバタで遅れなかった井の頭こうすけ氏への図版用ブツをバイク便で送り、7時、家を出て高田馬場へ。K子が馬場に引っ越したハルビン料理店『チャイカ』に行きたいというので。雨は降っていないが気圧は大乱調、左足の関節が腫れたようになって曲げられなくなる。傘を持っていってよかった。杖代わりにして歩く。チャイカは芳林堂ビルの2階に引っ越していて、マネージャー氏(浅沼さんというそうだ)が新宿二丁目時代と変わらぬ民族衣装姿でいた。前菜(ザクースカ)の盛り合わせの味付け、壺焼キノコ(グリブイ)、ボルシチ、いずれも結構。多少なりとレストラン料理に洗練させているロゴスキなどに比べ、このチャイカはハルビンの家庭料理の田舎くささ(おかったるさ)を非常に色濃く残しており、そこがうれしい。ザクースカはケター(サーモンの油漬け)、セリョートカ(ニシンの油漬け)、カプスタ(キャベツの酢漬け)、ククルーズ(コーンとカニのサラダ)、カルトッフェリ(ジャガイモとビーツのサラダ)、それとキュウリのピクルス。壺焼キノコはデミタスカップでほんのちょっとだったがこの味は絶品。コースで頼んだので、大好物のニシンの酢漬け(セリョートカ)がひときれだけだったのが残念。次は別皿で頼んで食べよう。マネージャー氏に新宿時代から来ていた、と言ったらうれしがられる。去年五月に引き移ったそうだ。早稲田が近いから、露文のゼミの学生たちが喜んでくるらしい。ただし、ロシア料理というのは結局、ザクースカが一番おいしく、メイン料理がどこもあまりパッとしない。ここも例外ではなく、串焼き(シャシリク)のソースも味付けが濃すぎるし、K子の頼んだチョウザメのソテーも、とりたてて言うほどのものでもない。とにかくここはザクースカとグリブイ、ボルシチ。これにつきる。トリスチナヤウオツカを一杯、それとグルジアワインのムクザニ。これだけ食って飲んで、お値段も格安。

 店を出たらまだ8時半、足も調子よくなっていたので、K子とビッグボックス内のカラオケで一時間。『スターウルフ』ひさしぶりに歌って燃える。『キャプテンウルトラ』と同じく、主題曲のレベルのみが突出している番組であった。もっとも、放映時には野田昌宏氏周辺でさえ“なかなか頑張っている”と好評だったのだ。昔の特撮ファンは今よりずっと心が広かったのである。ニール・ヘフティの『BATMAN』(『怪鳥人バットマン』)があったのに驚いた。もっとも三十秒で終わる。帰宅10時。井の頭氏からちょうどブツ届いたとの電話。と学会MLなどに書き込みをして、 就寝。

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