9日
木曜日
大神宮サン
わが大日本帝国の象徴こそ、あの大神宮である! 朝7時半起床。ゆうべの酒、いささか腹がゆるい感覚ではあるものの、あれだけ飲んだにもかかわらず今朝はいささかも頭痛胸焼けなどなく、さわやかな目覚め。よほど昨夜の席が楽しかったと見え、ストレス発散のせいかあの病的な肩凝り感覚がすっかり消え去っていた。まあ、気圧が低め安定というせいもあるか。ワイドショーによるニューカレドニアの日本人女性殺人事件、石の上で焼かれていたということで昨日はみんなで“焼いて食われたんではないか”“石の上で焼くなら石焼きか”“ビビンバにするつもりだったのでは”などと無責任なうわさ話をしていたが、今朝の報道では、どうも現地人のタブーに触れて禁断の場所に立ち入り、殺されたらしいとのこと。日本人の宗教軽視が招いた惨劇ということか? 少し面白すぎ。
朝、植木不等式氏のサイト日記をのぞこうとしたが凄い文字バケ。メールして問い合わせたら、朝方アップした日記ファイルに、誤字があったので外からジオシティーズの編集機能ページ経由で直したのが、どうも悪さをしていたようだとのこと。
こないだ日記に書いたサイトの開設者さんからメール。歌舞伎とアニメの関係などについてアップしたとのこと。さっそく行って読んでみる。まあ、今更隠すわけにも行かないので白状すると、私が書こうとしているのは東浩紀氏の『動物化するポストモダン』への反駁で、彼の書にある「大きな物語を必要としない世代」「データベース消費」「日本的スノビズム」といったタームが、実は現代のオタク特有の現象でもなんでもなく、日本の大衆文化受容の中にずっと昔からある形の再生産であり、殊に江戸時代からの歌舞伎の表現形式及びそのファンたちの思考と行動に、現在のオタク文化の原型はすでにして顕在しているのであって、オタクたちの表面的行動を取り上げてオタク特有、現代特有と指摘する東氏の論説は大衆文化的知識の欠如から生まれた視野狭窄的発言でしかないことを指摘したいというのがその動機だった。
で、そこを指摘するからには歌舞伎についてもう少し勉強する必要があると思い、参考資料などを読み込んでいた矢先に、そこのサイトで、東氏の見解が単なる無知に基づいた独断にすぎぬ、という開設者氏の発言を読み、非常に興味を持ったというわけである。そして、それに関する私自身の、これまでの東氏へのツッコミの甘さがとりもなおさず歌舞伎に関する知識不足から来る、という指摘には苦笑しながらも、その通りデスと頷かざるを得なかった。ここのサイト開設者は六世中村歌右衛門に大変に傾倒しているのをはじめ、江戸歌舞伎に対し相当深い知識と眼識を有しているらしい(私がそういうものに乏しいので、そう思えるだけかもしれないが)。オタク文化を、リアリズム演出と異なる様式美の極めて日本的な受容と再生産方式ととらえている私にとっては、このサイトでの東氏の著書批判は先を越されたという思いであり、かつ自説がその知識により裏打ちされたという痛快さもあわせて感じられ、ここでの批判があれば、わざわざ私が乗り出すまでもなく、東氏の誤謬、及びそれを評価する人々の知的怠慢に関しても言はすでに尽くされている、という感じだった。
で、そのことなどを開設者にメールしたら、さっそく返事をいただき、かつ、東氏の誤謬には私(唐沢)自身のミスリードが大きく影響を及ぼしており、そのことを次の日記に指摘しようと思っているのでご一読願いたい、とのことだった。非常に楽しみにその掲載を待って、さっそく一読した次第である。とりあえず、この日記の読者の皆さんもまず、そこの記述を読んでからこの先に進んでいただきたい。
http://home.interlink.or.jp/~5c33q4rw/index.htm
『絶望書店日記5月9日 オタク的教養とは何か2』
……いかがだろうか。かなり私に対しても痛烈な批判を展開しているようだが、私は一読、非常な知的満足を感じた。こうした、通説を独自の視点から論破する大胆な説は私の最も好むところであり、かつ、オタク系、歌舞伎系事項に対する該博な知識に支えられた自信が文中から伝わってきて、多少の文中の礼を失した表現も、稚気愛すべしという感じで気にならない。マンガやアニメを現代的リアリズムの観点からしか評価できないオタク、非オタクの不勉強連中には大きな刺激となり得る記述であろう。
ただし、その観点には、(あたかも東氏の著作と同じような)独断が多く、これで私が納得するか、というと、残念ながら全くダメとしか言いようがない。開設者氏の歌右衛門丈に対する愛情と入れ込みはわかるが、そこを根拠に現代のオタク観を全てひっくり返そうとしても、それは少々力業が過ぎて無理というもんじゃアありませんか、という感じである。日記の中での言い切りで止めておくならともかく、どこかに論説として発表などしようというのであればその論旨の恣意性を突かれていっぺんでアウトであろう。つまりは、アカデミズム界での論争に慣れているであろう東氏などには何の痛痒もない文章にしかなっていないところが非常に惜しい。
いちいちのポイントに駁論していたらキリがないので(私には私の書くものに対する意見全てに目を通したり答えたりしている暇はまるでない)よしておくが、いくつか絶望書店主氏のカン違いは指摘しておきたい。まず、私がこの日記で以前、東氏の『不過視なものの世界』におけるリミテッド・アニメの定義の誤りを指摘したことについて、“これは日米のアニメの違いについて話しているのであって、日本のアニメを指す適切語がないためにリミテッドという用語を使っている”、したがってそこで“そもそもリミテッド・アニメとは、と解説しはじめるのはちぐはぐ”、という意見は、東氏の発言をもよく読解していない弁護でしかないだろう。日本式もアメリカ式もなく、東氏は同著の中で堂々と
「自然な動きを一秒二四コマでできるだけトレースするのではなく、むしろ、一秒一六コマという限定された世界で、動きのメリハリをどれだけ劇的に演出していくかの技法」
とリミテッド方式を定義しており、これはどう逆立ちして読んでもデタラメ以外の何物でもない(たぶん8ミリカメラの16コマ撮りが頭にあった故の誤解だろう)。ここまでの無知をさらしている相手にはリミテッドという方式からこれは説明していかないとどうしようもないという判断を私がくだすのも無理ないのである。
また、手塚治虫へのディズニーの影響を軽視した発言は、そこにどういう根拠があるのか、逆に質問してみたい。
「『白雪姫』などディズニー長編が日本公開されたのは『新宝島』や初期三部作のあとで、手塚まんがはむしろディズニー以外から大きな影響を受けており、そのなかには戦前の日本独自のまんがや絵巻物などの伝統的日本美術も含まれている」
とあるが、はて、日本に厳密な意味での“独自の”マンガがあったのか。コママンガという形式自体がアメリカからの輸入であることを忘れているのではないか。そして、この発言もまた、ディズニーと言えば長編映画、という戦後の勝手な思いこみに支配されたものでしかあるまい。戦前の日本でディズニーと言えばむしろミッキーマウスやドナルドダック、それにシリィ・シンフォニーの短編がその代表とされていた時期があり、ニコニコ大会などと称して、ローレル・ハーディなどの実写喜劇との併映は日本におけるアメリカ文化の最も大衆的な普及の例だった。エノケンの映画などにおけるその影響、というよりロコツないただき精神を見るとき、日本の影像作品全般の大きな原点にディズニー作品があると言わざるをえないことは、ちょっと戦前の映画関係資料をあたれば明らかなはずである。この影響から少年手塚治虫のみが逃れ得ていたということは考えられない(というか、無謀な仮設としか言い得まい)。
その影響の例として、たとえば徹頭徹尾ミッキーマウスの短編映画のパクリで成り立っている『ミッキー忠助』などという珍品も昭和九年には発行されている。この作品を読むと、大ゴマを使った群衆シーン、スピーディな動きを表すコマの分割など、手塚治虫が発明した、と言われている手法が、確かに技術こそ稚拙ではあれ、しっかりと取り入れられている。それはこの本の作者、廣瀬しん平が埋もれた天才であったということを意味するものではない。多分、この作者は無意識にマンガ映画のシーンを紙の上に移す作業を行い、その必然的結果として、これらの手法を取らざるを得な かったというだけの話である。それは、絶望書店主氏が
「ちょっと考えれば判ることだが動いているアニメをそのまま紙の上のまんがに移しても同じになるはずはない。止まっている絵でもディズニーアニメのように動いて視える独自の方法を編み出さなければならなかったのだ。つまり、ディズニーの影響を受けたために、ディズニーとはまったく違った方式を取ったのだ。同じことだが紙の上で映画を再現するために、映画とは根本的に違った方法論を確立した処に手塚まんがの革新性があったのだ」
と主張するようなその革新性が、必ずしも映画を紙の上に移す作業には必要なわけではない、ということを示している。映画が動いて見えるのはフィルムが流れているからであり、基本は一コマ一コマの静止画の連続なのであるから、それを紙上に再現し、展開させることは容易、と、誰もが思いつく(実際にそれが容易であるか否かは別として)ことだろう。
実際、手塚の革新性の代表のように言われている『新宝島』の、映画のカット割りを再現して何コマにも及ぶ車の疾走シーンを描くというようなテクニックは、すでに戦前にオットー・ソグローが『リトル・キング』などで使用しており、また当時の日本でこのリトル・キングがミッキーやベティ・ブープと並ぶ人気者であったことを考えあわせると、絶望書店主氏の日記でもそれを必然的前提としている手塚治虫の革新性は、かなり割り引いて考えなくてはならないことになる。このことはすでに呉智英が宍戸左行の『スピード太郎』を引いて、必ずしも映画的手法をマンガに取り入れる ことは手塚が先覚者ではないことを指摘していたはずだ。
手塚が革新性を過大評価されたのは、日本のマンガ界で手塚以前に天下をとった田河水泡の『のらくろ』が芝居の描き割りのような背景と、登場人物(犬物だが)の、上手下手からの出入りを律儀に守った方式があまりに有名になったからであり、あれは決して戦前の日本マンガ全てにおける特徴ではない。そして手塚よりも世代が古い田河にこのような方式を無意識に取らせたのが、歌舞伎をはじめとする演劇の素養にあったことはまず、明白であろう。絶望書店主氏の主張する日本独自の歌舞伎的センスは、むしろ当初は日本マンガを束縛する存在として、手塚等若いマンガ家の前に立ちふさがったのである(田河の方式を無意識と言ったが、その様式性を大胆に取り入れた手法はかなり演劇を意識的に取り入れていたかとも思わせる。ここらは今後の研究課題であろう)。
ともかく、東氏と絶望書店主氏の双方に共通した誤謬は、フル・アニメーションがリアリスティックなもの、という固定観念によるものだろう。それは実写映画の演出法を長編アニメに取り入れて制作されたディズニーの初期長編から与えられた印象で全てを語るというミスに起因するものだ。戦前の日本文化人の基礎教養であったディズニー、フライシャー等の短編アニメが徹頭徹尾フル・アニメーションでありながらいかにリアリスティックの地平から遠く離れたものであったか、東氏が上記著作で鬼の首を取りでもしたかのように言及している
「実写映画とアニメーションというのは、もともとかなり異なった方を向いたジャンルだと思う」
などという発言は、一度でもそういった作品を観ればまず恥ずかしくて言い出せないほど常識以前の性質のものなのである。
そして、これは戦前期における大衆派アニメーションの、おそらく技術的な極致を示したひとつであろうフライシャー兄弟の『スーパーマン』が、その大きく様式化されたアンチ・リアリスティック演出の基本に、徹底したリアリズム(メカニズムの質感、スーパーマンの飛翔の軽快感などなど)を置いていることを思うとき、絶望書店主氏が親の仇のように言うフル・アニメーションのリアリズム演出が、実はその様式性を最も効果的に見せる手法のひとつである(ひとつでしかない)ことも、容易に理解できると思う。と、いうか、この『スーパーマン』の中のロボットの動きとデザインと演出をそっくりそのままパクって(これはパクったと宮崎氏自身公言している)『さらば愛しきルパンよ』を作った宮崎駿氏を賞賛しといて日本のアニメがアメリカアニメの影響下にあるとする論を否定するのはどう考えたって暴論でしょう、絶望書店さん。宮崎演出は確かに日本の伝統文化の様式性を大きく受け継ぎ、発展させている。しかし、その発展させた土壌自体は、アメリカ映画の影響というよりは露骨な模倣、コピーによって培われた演出法なのである。
これは、絶望書店主氏がアンチ・リアリズムの牙城と主張する歌舞伎の世界にも相通ずることなのであり、歌舞伎の持つ現代性はいわゆる“生世話”と称する当時のリアリズム演出から多くが連なっている。リアルな世界をリアルに描き得ない者に非リアルな世界は決して描けない。リアリズムと様式性は相反する要素ではない。須永朝彦も『歌舞伎ワンダーランド』の中の郡司正勝との対談で『四谷怪談』の生世話の要 素を賞賛し、郡司はそれを受けて
「だからかえって飛躍した幻想が生きてくるっていうことが言える」
と指摘しているではないか。絶望書店主氏はメールによると大友克洋をそのリアリズム性ゆえに全く認めていないようだが、彼の絵のリアル性が単なる創造性の欠如ではないゆえんはすでに『B級学』の中で指摘している(ついでに私なりのリアリズム論も展開している)のでここでは詳しく論じない。
前にも言ったが、手塚は自分の手でアニメの制作をやりたいばかりに、『鉄腕アトム』の制作費を極端に安く受けた。そのため、動画の枚数を大幅に減らさねばならなくなり、動画の質が非常に荒くなってしまった。なんとかこの荒さをカバーしなければならない。手塚がそのために考え出したのが、“止メ”の多用だった。“止メ”とは、動かない絵をずっと撮影することで、これにセリフと音楽をかぶせる。まあ、紙芝居のようなものだが、変にギクシャクした動きを見せるよりは、こちらの方がアラは見えにくい。苦肉の手法ではあったが、手塚自身の回想(手塚治虫全集別巻『手塚治虫エッセイ集』所収)によれば、こういう窮余の策を善意に解釈し、
「歌舞伎の見得の応用による、いかにも日本的で強烈な印象を与える手法と発想」
と評価してくれた批評が新聞に載って、かえって赤面してしまったという。結句、絶望書店主氏の手塚式リミテッド擁護も、この評価と同様の類の、善意の誤解の一種に過ぎないように思える。ただし、私もまた、この窮余の策がその後の日本における独自のアニメの発達を生んだという意見であり(この見解は昨年北海道新聞紙上に連載したオタク通史の中で触れている)、歌舞伎の舞台を『鉄腕アトム』の中に登場させたほどの手塚に、その影響や手法の応用を見ない評論が片手落ちであるという指摘については深く同意したい。これからもこのサイトでは、その見地からのオタク文化解析を深く望むものであります。
午前中に『フィギュア王』10枚半を片付け、1時にカットハウスへ。その前に何か腹をこしらえねば、と富士そばで冷やしタヌキ。まずかった。カットのあとでお兄ちゃんが肩を揉んでくれて、“うわあ、凝ってますね”と言う。いや、今朝はこの数 年のうちでももっとも肩がほぐれているうちだ、と言うとオドロいていた。
帰宅していくつか用事すませ、新宿へ出る。歌舞伎町『末広亭』裏の喫茶『楽屋』にて小野栄一夫妻と打ち合わせ。小野伯父、元気な様子である。ただし、この人が元気ということは躁状態であるということであり(躁と鬱の中間がない)、注意を要することである。雑談から10月の会の打ち合わせに入るが、案の定、予算や客寄せのことに関しては“大丈夫だよ、全部やってくれるっていう後援者がいるから”“安心してよ、問題ないよ”と言うのみ。以前の失敗のことを持ち出して注意を喚起するととたんに不機嫌になり、“ここ(楽屋)でそういうこと言われると困るんだよな”などと言う。しかしこの問題に関してはこっちも譲らず。嘉子伯母に言って、その後援者の人に頼るのではなく、むしろその人にプロデューサーとしてスタッフに名を連ねてもらい、金銭の問題に関しこちらが考慮しなくていい、というより向こうに責任を持ってもらう、というスタイルを取るよう提案する。そこがクリアしない限り、公演は怖くて出来ない。で、7月までにサッチモ人形を新しく制作することも約させる。それが完成しなければ私は演出から降りるつもり。あと、芸術祭に関してはその公演のカタチが見えてきてからにしようとか、談志とのことをあまり吹聴しないようにとか、コトコマカな注意を与える。子供に話して聞かせるようで気がひけるが、こうしないと伯父の勝手な暴走を止められない。とりあえず、そのスポンサー関係の報告があるまでこの件は保留。
5時、別れて紀伊国屋で本を物色、一旦帰宅。鶴岡からの電話に応対。朝、彼からメールでいろいろな家庭内の事情のことを伝えてきたが、その報告を聞く。アスペクトからバイク便で『ウラグラ!』の契約書届く。印税の支払日がこちらの思っていたのより大幅に遅く、ちと困ったことになったと思う。書庫をざっと整理。
7時、参宮橋に出て、『クリクリ』角でK子と待ち合わせ。代々木方面への道を降りたところの中国家庭料理『仙園』で萩原夫妻と会食。ここは元喫茶店だったのをそのまま居抜きで中華料理店にしたもので、中華料理店とはちょっと思えぬ外観と内装である。しかし、料理は本場上海の人がやっているそうで、本格的。萩原夫妻もよくいろいろこういう店を見つけてくるもんだ。前菜で出たレタスサラダはレタスとキュウリを中華風ドレッシングであえただけの極めてシンプルなものだが、これがなかなかの味。シンプルなだけに、その腕が問われる一皿だが、これで期待度が高まった。
次が『小節箏揚』というもので、中国のヒメ竹を揚げたもの。ゴボウみたいな外観だが、これが非常にうまい。何か醤油につけてから揚げるんだと思うが、パリパリとシンナリのちょうど中間の歯触りと相まって、いくらでも食べられる。青島ビールに非常によく合う。さらに鶏肉と春雨の酢の物。この春雨が細切りにしたものでなく、ひも状に切った手製のものなのが珍しい。味はまあ、普通の春雨サラダだが。それからフカヒレスープ、これはカニ肉入りとアワビ入りの二種類頼んだが、アワビの方がはるかに優れた味わい。貫禄の差を見せつけた。ただし、どちらも普通の中華屋のフカヒレよりずっと淡泊で上品な風味。油淋魚片はムツの切り身を自家製XO醤で食べるものだが、これは逆に極めて濃厚、これと御飯があればランチはOKといううまさであり、萩原さんも私も鼻息を荒げて食べる。ここまでで青島ビール三本、瓶出し紹興酒ボトル二本を四人で片付けており、“白酒はないの?”と聞いたら、マオタイを出してくれる。さらに“洋阿優曲”とかいうあちらの焼酎、これは極めてモダンなボトルの焼酎で、その分味も安っぽい。さらに加えて、ただの一升瓶入りの焼酎をストレートで飲まされ(いや、飲もう飲もうと言ったのは私かも知れないが、もうここらへんでベロベロになっていて、くわしくは思い出せない)、さらに頼んだ牛肉の土鍋煮が黒胡椒が効いておいしかったことまでは記憶しているが、そのあとのおこげ料理はあやふやで、もう一皿何か頼んだはずだったが、もうそれがなんだかわからなくなる。危険を察知したK子が私を店から引きずり出して、萩原夫妻を残してタクシーで帰宅し、漢方薬だけのんでひッくり返る。私には植木氏の日記のような、全ての皿を丁寧に記録し、評するようなことはとても出来ぬと痛感。