裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

19日

金曜日

バチがあたるぞ

 朝、朝食とってすぐE社本文分ゲラチェック。10時に取りに来たKくんに手渡す。単行本の年末進行に続いて雑誌連載年末進行の波状攻撃。朝『創』メールし、イラスト指定をK子に書いて渡す。それから薬関係の業界誌コラム。書いて送ったら、ラストの部分で、ちょっとメーカー批判にも受け取れるところがあるので変えてくれ、という電話。忙しいさなかだったしどこが問題なのかもピンとこないので、問題ないような表現にそっちで変えてくださいと言っておく。そんな忙しいさなかに、裏モノ会議室の裏として作っている替え歌パティオにSPGFがらみの替え歌をやたらにUPする。テンション上がっているから幾らでも出来る。これがレクリエーション。

 F社Yさんから“目を剥きました”というメール(笑)。書きます々々と言っていながら日記を読むと昨日はまだ書いてくれていないようですね、などと言う。殺す気ですか。週末からやり始める予定。昼飯(神戸らんぷ亭牛皿定食納豆トロロつき。トロロのたれ甘くて閉口)のあとでパルコブックセンター内ぶらついているうちにアイデアまとまる。

 抑えているうちに風邪が腹に入ったようで、ちょっとシクシクする。その状態で塚本晋也『バレット・バレエ』試写。映画自体はいいのだが、塚本監督独特の手持ちカメラの不安定な構図、濃淡を強調した白黒の画像の光の点滅に、身体の状態がどーんと落ち込み、吐き気がして眼圧がドッと高まり、死にそうになる。こらいかん、と思い、終了後、あわてて薬局へ飛び込み、黄連解毒湯(のぼせを下げる漢方薬)のドリンク剤を飲んで家へ帰り、1時間ほどぶっ倒れていたら、なんとか回復した。

『バレット・バレエ』、 塚本晋也の映画は独自の映像美と、監督自身がその肉体から発している強烈なメッセージを感覚で受けとめるものであって、ストーリィから読み取れるものが云々、などと一般映画のように批評するのはスジ違いなんだろうが、あえて邪道な“普通の”見方で感想を述べさせてもらうと、私と同世代の、若い連中にはオヤジと言われ、上の世代からはまだガキと見られる中途半端な年齢になった塚本監督が、その中途半端な存在である40代のコッケイなツッパリを描こうとした作品として傑作である。真野きりなのような若い連中のように死をもてあそぶにはこの世に未練を残しすぎ、井川比佐志のように人生に見切りをつけたドスをきかせられる年齢でもない。監督自身、その中途半端さにいらだち、そのいらだちを、自ら演ずる主人公合田の弱さカッコ悪さに収斂させて現している。
 ・・・・・・それにしても、『ウルトラQ』に傾倒して白黒の映像美を追い求めてきた世代が、もうオヤジ呼ばわりされる時代になったか!

 元気回復して、K子と編集者のササキバラゴウ氏と、青山ベルコモンズのゆば料理店『梅の花』で会食。引き上げゆばというやつで、豆乳の鍋を火にかけ、表面に膜が張ったらそれを箸で引き上げてタレで食べる。風邪あげくの腹には非常に結構な料理だった。ただし、原宿だの青山だののおしゃれな店の料理というのはどれも若者向けか、タレ類が甘すぎる。K子はカメラマニアのササキバラ氏のおすすめの、何とかいう超高級機を買うらしい。

 水木しげる『異界への旅3』をなにげなしに再読。巻末の呉智英との対談がヒジョウに面白い。水木しげるというと作品ちゅうでは仙人のような生き方を理想としているようなことを言っており、本人もそういう人、とみんな思っているが、その考え方は超貧乏を経験しているだけに極めて実際的。“紙芝居で勉強させられました。面白い話を作らんと飴が売れんのです。必ず客を引きつけねばならない”という思想が身についている超一流エンターテイナーとして読まないと、作品を必ず見誤る。鬼太郎がヒットしたとき、映画化の話があったが、それだとテレビにはならない、“初めに映画になってしまうと、テレビ化しにくい、それで映画は断った。そうしたら、ほどなくしてテレビ化の話が来ました”などというのは、ギリギリの生活の中で体得した生きるための感覚、なのだろう。
「駄目になるのは努力をしてないのが多い。バチです。バチが当たったんだなぁ」
 というセリフが水木の口から出るということに驚嘆。こういう考え方に比べれば今の若いの(例えば鶴岡法斎)などの人生感の方がずっと仙人ぽい。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa