裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

26日

月曜日

チュウネン・ブドリの伝記

イーハデーブ火山局のブドリです。

※台本書き(不捗)

朝11時までぐったり。
打ち上げの疲れというより、雨のせいであろう。
気圧の乱れで、立ちくらみならぬ寝くらみ起した感じ。

寝床でニュースいろいろ見る。
小学館が『小学五年生』『小学六年生』を休刊とやら。
愛読していたのに残念である。もっとも、もう大学に行くか
行かないかという時期だったが。1976〜77年ころである。
『小学六年生』を毎号買って、高校生の弟と一緒に熱心に
読んでいた。
“ハロー6ワイドショー”というコーナーがあって、そこで
描いている二人のマンガ家が抜群に面白かったからである。

それが、ろくだのぼる(現・六田登)とみく・さとみ
(現・御厨さと美)の二人。みく・さとみは“みくちゃん”、
ろくだのぼるは“どくたー・のぼーる”が愛称だった。

基本的に読者のお便りを紹介しつつ二人がマンガで雑談しながら
進行していく形だったのだが、その雑談のセンスが他のオトナ
向け雑誌の読者コーナーをはるかに飛び越していて、兄弟して
「これを小学生にだけ読ませておくのは勿体ない」
と思っていた。ときには、自殺をにおわせる手紙などもあって、
それにろくだが真摯に返事して、
「わかるけど……生きようよ」
と答えていたり。

やがて二人はそれぞれ、“ちゃんとした”マンガを描きはじめ、
それぞれに代表作を世に問うて(まったくタイプの違う)
マンガ家として名を成すが、この時期の二人のこうした形の
マンガディスク・ジョッキーの新鮮さは、私と弟の印象に深く
残ったし、彼らのその後のマンガ家としての成功は認めるものの、
こういう形のものをまたやってくれないか、とずっと思っていた
(御厨は、超短期に終ったが双葉社の『少年アクション』で、
同じような読者コーナーを後にやって、これがまた大傑作で
あったけれど)。

思えば唐澤商会などというエッセイマンガコンビを組んだのも、
元はこの『ハロー6ワイドショー』を再現したい、という兄弟の
意志の現れだったかもしれない。
小学六年生、正直言うとまだ存続していたのか、という思いでは
あったが、少し残念である。

起きだして雑用片づけ。
12時、昼食。
塩ジャケ、けんちん風味噌汁。味噌汁旨し。
ご飯軽く1.5膳。

昨日の演劇祭の記録をつける。
記憶や感動のできるだけ新鮮なうちに、と思い。
しかしナマものは面白いなあ。

酒井法子の公判に6600人以上の人間が並んだそうである。
まあ、マスコミの雇ったバイトが大半だろうが、それにしてもすごい。
これを民度の低さ、とハナからバカにするのは間違っている。
なぜ人が一人死んでいる押尾事件よりも酒井法子の方の報道が
多いのか、これは押尾の裏に政府関係者の息子がいるためで
のりピーはそのカムフラージュのため仕立て上げられた、
などという陰謀論をしたり顔で述べる人たちも多いが、
実のところは酒井法子の報道の方が格段に視聴率がとれるからに過ぎない。
正味な話、日テレをトップにどの局のワイドショーも視聴率は
普段に比べ倍増に近かったという。
これは押尾と酒井の活動していた時代の差である。

テレビで雨の中、傍聴券希望者にインタビューしていたが、
ほぼ全員が40代という感じだった。今から20年前、
80年代後半にどれほど彼女が若者(だった彼ら)を熱狂させて
いたか。あの時代は今とは比べ物にならないほど、アイドルという
存在が時代の先端を走っていた、その文化の全盛期だったのだ。
彼らが“のりピー”を見に走るのは、単なるミーハー精神ではない。
自分の青春時代の再確認なのだ。ここまで堕ちたのりピーを
見捨てないことこそが、自分のアイデンティティの肯定につながるのだ。
そして、今のテレビが彼女の報道以外視聴率がとれずに苦戦している
のは、まさに80年代から先、テレビが国民の関心から外れてしまった
という事実、それ以降“文化リーダー”になれなかったという
事実の反映だろう。

演劇祭関係者からメール、それに返事など。
私は少なくとも、50代になったいま、リアルタイムで
心を打ち込めるものを持っている。多幸であると思う。

寒い。仕事場に暖房入れ、梅昆布茶をすすって暖をとる。
あっという間に夕方となった。
買い物に出る。雨、微雨となっていた。
夕食の材料買う。
ラム肉を買って豆もやしと一緒に蒸篭に入れ、蒸しジンギスカン。
それと惣菜のイワシ。

家飲みは逆に酒量が増える。ホッピー、マッコリ割の他に
梅干しサワーまで飲んでしまった。
気圧のせい気圧のせい。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa