16日
木曜日
ひとつ人の世イクチオステガ
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/5218/ikutiosutega.html
ふたつ不埒なアンキロザウルス。
※石川賢死去、『ポケット!』打ち合わせ、『鵺(NUE)』観劇
朝6時半起床。入浴して日記つけ。毎日いろんなことがあるので日記が長くなり、困る。9時朝食。青豆のスープ、王林。
原稿書き続ける。マイミクの方々の日記が何か騒がしい。更新頻々。
どうも、石川賢さんが亡くなったらしい。突然死だったようだ。不謹慎だが、この突然の“打ち切り”がいかにも石川賢の死、という感じである。
ウルトラマンタロウのコミック版で、子供向けに特化したテレビ版とはまったく異なるオリジナルな世界観(なにしろ宇宙線の影響で世界各地に出現する怪獣が“奇形獣”という名称!)ウルトラの一族と人間との関係性にSF解釈による神の設定を持ち込んだりして、ただの子供向けマンガ家ではない、とこちらを瞠目させた。
永井作品のカバーが初期は多かったが、『キューティーハニー』の、夢使いの老婆との戦いのエピソードがよかった。自在に人に夢を見せる能力がある老魔女がハニーに母親の夢を見せて油断させるが、ハニーはアンドロイドゆえに母を持たない。罠とさとって逆襲、倒した敵に向かって
「おばば……あなた何でも知っているのね……知らなかった母さんを見せてくれて、ありがとう」
と静かにつぶやく。永井豪よりもこの人の方がストーリィテラーとしては上なのではないか、と思ったものだ。
『伊賀淫花忍法帖』では永井豪と絵が相似なことを逆手にとり、兜甲児そっくりの美形ホモ忍者を主人公にして巨根忍者とアナルセックスをさせたりして、私の知りあいの女性オタクたちを狂乱させていた。これはやおいマンガの原形ではないかと思う。
圧倒されたのは『少年アクション』の看板連載のひとつだった『魔獣戦線』。隔週発行の雑誌なのがもどかしいくらいの面白さだったが、壮大な復讐譚の、まだほんの突端近くのところで無念やな、雑誌が休刊。これに限らず、掲載誌にあまりめぐまれない人だった。とにかく、設定が壮大に過ぎ、あるいは展開がどんどん加速していっておさまりがつかなくなり、途中打ち切り、第一部完、といった状態のまま放り出された作品が極めて多かった。
情念の作家、という言い方があるが、石川賢は情念過多の作家、だったと思う。その情念が作品の構築をぶち壊してしまうまでに全面に出て、結果、ラストで話を収斂できず、多くの作品未完に終ってしまったのであろう。今回の訃報で嘆声をあげるファンがとにかく多いのも、これら中断作品をいつか完結させてほしい、という希望がこれで断たれたことへの悲鳴だと思う。
師匠の永井豪も似たような情念型の作家だが、彼の場合はまだ、広げた風呂敷を“たたまない”こと、あるいは“読者の見ている前で破り捨てる”ことを芸(作風)として成立させていた。石川賢の場合はそんな芸も計算もない、まさに自爆で作品を打ち切っていた。それ故に、まさにその作家としての才能の破綻ゆえに、大成度は師匠にはるかに及ばないにも関わらず、石川は永井を超える、すさまじい石川賢フリークのファンを多数、抱えていた。今回の急死は、ひょっとして石川賢の名を神格化にまで持っていくのではないか。そんな気がする。
11時半、家を出て、三軒茶屋へ。区役所の前で12時ジャストに待つが誰も来ず。オノに電話したら12時半ということだった。詮方なく、近くの喫茶店で時間をつぶす。天気よく、学生時代、この通りにあった古書店に足しげく通ったことを思い出す。
12時半、駅の方に向かったらI井D、イニャハラさんの二人にばったり出会う。オノと携帯で場所確認。今日の打ち合わせが三軒茶屋だったのは2時から、半田健人くんの出演している舞台『現代能楽集/鵺(NUE)』がシアタートラム(駅に隣接)で行われているので、それを観に行くため。
駅ビル二階の喫茶店でランチ(炊き込みご飯)食べながら、明日の『ポケット!』打ち合わせ。中野貴雄さんがゲストなので、何も別に用意することもなさそうだが、しかしやはり話題は大切。例によりああだこうだとやりとりする中で、007、というキーワードが浮かんだので、それだそれだと一気に決まる。あと、次週のゲスト選定。笹公人さんの名前を出す。他、今後のゲスト予定者は中川翔子、植木不等式、芦辺拓氏ら。
いろいろ打ち合わせしているうちに開演5分前になってしまい、あわててシアタートラムへ。チケット代金支払って入る。マネージャーのN氏がいて、終ったらロビーで待っていてください、と。
『鵺(NUE)』はその題名の通り、能の『鵺』を題材、というかインスピレーションの素材として、宮沢章夫が書いた戯曲。どこの国とも知れぬ空港のトランジット・ルームに帰国の便のトラブルで長時間閉じこめられている、国際的に高名な劇作家(蜷川幸雄がモデル?)と、彼の作品に出演して海外公演を成功させたばかりの役者たち、そのマネージャー、劇作家の秘書、そして劇作家の行動をビデオに収め、ドキュメンタリーを作ろうとしている映像作家。劇作家は功なり名遂げている現実に、どこか自分でもわからぬいらだちを感じている。俳優たちにも秘書にも、そのいらだちの理由はわからない。
そうこうするうち、このトランジット・ルームにいつからいるのか、黒づくめの奇妙な男がいることにみんなは気づく。妙に彼らのことにくわしく、禁煙の施設内でタバコをふかしても誰にもとがめられず、皮肉をまじえて、本音を発しない彼らの耳に痛いことを吹き込む謎の男。やがて、彼は70年代に、新宿で劇作家と一緒に演劇活動をしてきた役者であることが徐々にわかってくる。あの頃、新宿は渾沌として、みんながタバコの煙にまみれ、酒を飲んでは演劇論を戦わせ、深夜まで騒いでいた。あの失われた時代と青春への追憶が、劇作家をいらだたせていたのだ。しかし、本当にこの黒づくめの男は実在の人間なのか……?
まあ、ざっとこのような内容。半田くんがこのあいだ、この作品の台本を読んで、これは僕のための戯曲だ、とのめり込んだ理由がわかった。そう、1970年代オタクの彼としては22歳にして、この50代の劇作家に易々と感情移入できるだろう。
1956年生まれ、50歳の宮沢章夫の個人的心証をほぼストレートに表出させたこの戯曲を、『夢の遊眠社』にいた上杉祥三(劇作家役)と、『天井桟敷』出身の若松武史(黒づくめの男役)の二人が、自分たちの演劇活動に重ね合わせて失われた演劇都市・新宿への思いを語るという二重構造、さらには劇中劇として(若き日の宮沢が熱中したであろう)清水邦夫の戯曲の一部分が演じられるという複雑な構成である。
2006年、ある意味活況を呈しているように見える演劇界に、時の帝を悩ませた鵺の鳴き声のように、本当にいまの演劇は活況なのか、と問いを投げかけようという宮沢のたくらみはよく理解できる。しかし、それが個人的な感傷や追憶を超えて、さまで70年代新宿に思いを(半田健人ほど)抱いていない観客にどこまでそれが伝わり得るか、となると、やや疑問としか言えない。“能”を現代演劇に換骨奪胎する、ということで、やや様式(現代演劇の)に足をとられすぎてしまったのではないか、そんな気がした。半田くんの出番も思ったほどなかったのがやや(“やや”が多い感想だが)、残念だった。
終ってロビーで待つうち、河出書房で私の本の担当をしてくれたSくんと遭遇。かなり痩せた。Nマネ来て、楽屋まで案内してもらい、半田くんと挨拶。劇中、彼がギリシアの哲学者のことをウィキペディアみたいにぺらぺらと語るシーンあり、彼の知人曰く
「あそこ、普段の半田みたいだったよね。哲学者を筒美京平に変えれば」
と。呵呵。
そこからタクシーで事務所へ。オノとスケジュール打ち合わせした後、肩がもう限界なので、仕事切り上げてタントンへ久しぶりに。揉まれながらウトウトする。買い物して帰宅、安売りの小柱をワケギと一緒に胡麻油で炒め、醤油と日本酒で味付けしたものを肴に日本酒。
明日のポケット用に『007/ゴールドフィンガー』を見直す。あと、中野カントクが紹介していた
http://www.youtube.com/watch?v=srA862GJ2JI&mode=related&search=
↑“『私を愛したスパイ』のオープニングを熱く語る男”も改めて。
その他あれやこれや見ているうちに寝るのが3時過ぎになる。