11日
水曜日
ウヨはまだ16だから
単純な国粋主義論をわめくのも仕方ないか。
朝7時10分くらいに目が覚める。久しぶりにちょっと二日酔い気味。もっともこれは目覚めが早い時間だったからだろう。8時まで寝ていれば完全に醒める程度のアルコール量。
入浴して9時朝食。トマトスープ、柿、種オレンジ。北朝鮮が二回目の核実験をやったようだ、というニュース。後刻、これはガセとわかった。食べて日記つけて、すぐ出る。11時からNHKで『週刊お宝テレビ』収録。しかも本日はそのすぐ後、日帰りで静岡で講演というハードスケジュールである。
柳家小せん師匠死去。今では名前を知っている人も少ないだろうが、『笑点』と並ぶ落語家総出演番組の『お笑いタッグマッチ』レギュラーで昭和40年代の落語ブームのスターの一人だったのである。林家三平が“ヨシコ”、月の家圓鏡が“セツコ”と奥さんの名前を必ず呼ぶのがウリになったが、小せん師匠は“ケメ子”という、どこからひねりだしたのだかわからない女性名を連呼して、これが折からのナンセンスブームに乗って流行語になり、1968年にはザ・ダーツの『ケメ子の唄』なんてものまで出現し、そのヒットで作られた特番の司会をやって若い連中と一緒にゴーゴーを踊っていたりした。モー娘。の保田圭のあだ名が“ケメ子”で、ケメ子の唄もカバーしているそうであるが、その元祖、元ネタはこの師匠なのである。落語ブームの終焉と共にテレビからは消えたが、あのボケキャラをブーム後もすくいあげるディレクターがいたら、と思う。
その後は寄席で見かけるだけになったが、『犬の目』などの
「わしがドイツに渡米した折りに……」
なんてレトロで楽しいギャグがこれほど似合う人もいなかった。今の若手噺家には、うまい人もいればトンがっている人もいるし無茶苦茶に笑える人もいる。しかし、出てきてホッとするような、そんな芸風、いや、人格の芸人さんが非常に少ないような気がするのである。そんな噺家さんの筆頭の人だった。訃報が多すぎるなあ、最近。
10時30分、家を出る。西門から入って11時ジャストにNHK着。テレビマンユニオンの女性とオノが待っていた。そのまま5階スタジオへ。5階での撮影は初めて、ではないと思うが久しぶり。NHKの建物が外からではとても8階建てとは思えない、とオノが言う。私も以前(イッセー尾形の収録についていったときだからだいぶ以前だが)局内で迷子になった経験がある。これはもし、例えば軍のクーデターのようなことがあって放送局を占拠されそうになったとき、クーデター側の連中を中で迷わせるためにわざとこうわかりにくく作ってあるんじゃないか、などと話す。
楽屋、和室だが畳替えをしたばかりで、青畳の香りがうれしい。ドライをすぐ済ませ(3分くらいで終わる。われながら早くて驚いた。ちなみに前にも書いたが放送用語のドライとはドライ・ファイアリング、つまり空砲射撃の意味で、映画の場合カメラにフィルムを入れずに回すことから)、あとは13時リハ、14時本番というまで時間が(昼食タイムとかはあるといえ)かなりあく。仕事場が近いのだから帰って仕事したいのだが、そうもならず、どうもイラつく。
ちょうど、次回の私出演の回(11月)の担当のテレビマンユニオンの人が来て、ちょっと内容につきご相談を、というので楽屋で担当のMさん相手に、『サインはV!』論を説く。途中でNHKのYくんから電話、明日、新潟講演の件で打ち合わせ兼用の昼食を、と。
「いまNHKにいるんですよ」
と言ったら驚いていた。
弁当は楽屋に用意されていた。今半のものだったが、シャケ弁でなぜかご飯が鳥飯、いなり寿司、沢庵ののり巻きという取り合わせ。オノ曰く“外人観光客向けの弁当じゃないですかね”と。やがてメイク。メイク担当のお姉さんといろいろ会話。
「男性のメイクさんってゲイの人が多いですね」
と言ったら、隣でメイク待ちしていた人(『たべもの新世紀』の出演者の人)が吹き出して、
「そうですよねー! あれ、どういうんでしょうか」
とちょっと盛り上がる。
結局、1時間の空きなんてのはなんだかんだですぐツブレてしまうようで、なんか逆にあわただしく本番。本番で初めて今日のゲストの飯星景子氏が入る。かなりSF好き少女だったようで、少年ドラマシリーズもSFしか見ていないとのこと。高野浩幸のファンであったらしい。私の解説、ドライ、リハ含め本番が一番うまく行ったのでまず、ホッとする。飯星さんのキャラはNHKぽくなくてかなりよろし。
『タイム・トラベラー』のことをちょっと話して
ケン・ソゴルという名前が出たら
「キャア、そうそう、ケン・ソゴル! 未来人はケン・ソゴル!」
と騒いでいた。
飯星さんは所属のホリプロを通じて、この番組に出演を打診しれきたそうだ。プロダクションというのはそこまでやるのが本来だなあ、と感心すると共に、その努力に見合う出演料を貰っているのか(私の出演料の額から類推するに)と疑問に思う、やはりNHKに出るということは大きいのか。
私の出番シーン収録を終えてメイク落とし、楽屋に帰るが誰も連絡に来ないので、これはもう帰ってもいいということかとオノと話して判断し、事務所に向かう。そしたらユニオンの人から電話で、タクシー券を出したのに、と言うので、じゃあ東京駅まで出してくれますか、と頼んだら出すということだったので、オノ、貰いに行く。
出社したバーバラなどと雑談、4時10分、家を出てタクシー券で(ありがたいありがたい)八重洲まで、5時9分の新幹線で三島まで。さらにそこから各駅のこだまに乗り換えて一と駅、新富士まで。静岡市民大学講演。市の(多分)係の方が車で迎えに来てくださっている。
控室に通されて、そこで開演まで一人。オノの方から、時間を考えて主催者に“軽食を御用意ください”と連絡が行っていたらしいが、見ると、この会場(建物は非常に大きく立派)の食道から届けられたサンドイッチ。このサンドイッチが、もうなんというか、実に“昭和”な代物でうれしくなってしまった。固めの食パンに薄い圧縮ハムをはさんだもの、キュウリとトマトの薄切りをはさんだものが二つでワンセット、これが三セット。それにパセリとポテトチップス。噛ってみると少年の日、喫茶店で食べたサンドイッチの味。その味をもてあます自分が悲しい。
やがて時間が来て、講演の会場であるホール袖へ。司会が私のプロフィールを読み上げるが、これは地方仕事用のものを別個に作らないといけないな、と思った。カルト物件の発掘と再評価、なんてのはお年寄りにはなんのことだかわからないし、そもそも毎回々々、必ず『トンデモ本の世界』を“とんでも、ほんのせかい”と区切って読まれる。で、『トンデモ一行知識の世界』は“とんでもいちぎょう、ちしきのせかい”である。イントネーション記号をつけて渡さねばなるまい。しかも、プロフィールの現在の仕事の中にTBSの『大人の時間割』を入れてある。紹介終って壇上に立ち、
「ただいまご紹介にあずかりました中に、TBSラジオの話がございましたが、静岡というところは『大人の時間割』の中で金曜の私の放送だけ、月曜の所ジョージさんのと入れ替えている(月曜は地方局制作の番組が入る)というところでございまして、ホントはこういうところでの講演というのは断ろうか、と思ったわけでございますが、逆にそれだからこそ唐沢の声が聞きたい、という声におこたえしてやってきたわけでございます」
と最初に言って笑いをとる。
講演は年配の方を中心に500人ほどの聴衆相手。『大人もトリビアを』というタイトルだったが、例によってレジュメも原稿も作らず、出たとこ勝負で行き当たりばったり。それでも、これまでの講演中、一、二を争う反応のよさで、静かな波ではあるが笑いもひっきりなし、うなづいてくれる顔もたくさん。私もしゃべりもうわずらず、堂々巡りにならず前半は雑学ブームの裏話ということでウケをとり、後半は第二の人生の充実のさせ方ということで梅田佳声の話をする。ラストでまた笑いをとり、時間キッカリに〆る。市の教育長さんが楽屋に来て、いいお話だったとお礼を言いに来た。それからスタッフのみなさんと記念写真。行きの時の係の人(中年の人と運転の若い人)が駅まで送ってくれるが、中年の上役がはしゃいで、運転手くんに
「ほら、お前もせっかくセンセイとお近づきになったんだ、何か雑学を教えてもらえ」
というのに苦笑。
この日記のモデルである『夢声戦争日記』で徳川夢声は芸人である自分の地方回りの仕事のことを淡々と書いている。戦後、一流文化人となった夢声だが戦前はそこらの寄席芸人と一線を画しているもののやはり立場は一芸人であり、地方回り仕事も生活を支えるためと割り切ってこなしていて、旅行が出来るのは有難いがそれほど嬉しい仕事ではない、と思っていたようである。今の私もまさに当時の夢声と同じ年代(当時夢声50歳)で、同じような立ち位置(文化人の部類ではあるが所詮オタク芸人)であり、同じような扱いを受けている。私はかなりの夢声フリークであり、その人生に自分を重ね合わせようとしているところがあるが、似てくるもんだなあ、とときどき不思議に思う。夢声も、地方での仕事のそこはかとないみじめさを時折にじませながら、しかし、ウケたりすると芸人の本性で、嬉しくてニヤついたりするのである。
帰りの新幹線は乗り換えなしに、そのまま東京駅まで。それを知らずに一旦降りて、あわててまた乗り込む。モバイルのパソコン、トンネルだらけでうまく使えず。10時半、東京駅着。飯はどうしようと考えて、東新宿までタクシーで行き、幸永でホルモン。今日の日記メモつけながら、極ホルモンと桜ロース、レバ刺しに黒ホッピー二杯。〆は冷麺にしたが、テールスープとライスの方がよかったかな、とちょっと後悔。帰宅して、さすがにバテ、すぐに寝る。