裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

21日

水曜日

汗ばんでる星人

キャプテンウルトラ、ここは暑いな!

昨日の日記で書き忘れていたが、宝塚劇場を出たらファングループの子たちが、そろいのTシャツ(引退が悲しい、という意味だろう、泣き顔のついているやつ)に着替えて、ずらりと列を組んで(隊列と言いたいくらいの数)出待ちの準備をしていた。終わったばかりで、あれから和央ようかなり花總まりなりが出てくるのに優に1時間以上はかかるだろうから、それまでずっと立ち詰めなわけだ。大変だなあと思うが、たまらなく充実しているんだろうなあとも思った。

朝8時起床、急いで入浴。私のような寝汗かきにとり、朝の入浴はかかせない。9時15分朝食。大豆のスープにスイカ、キウイ。青汁。健康的なことである。自室に戻りモウラのイラストの手配とその他いろいろ。

昼は弁当。卵焼きと焼きタラコ。大根とミョウガの味噌汁。熱い味噌汁で腕まで汗になる。母はこれは腎(腎臓ではなく、エネルギー系をつかさどる内蔵器全般をさす漢方医学用語)の弱りだという。五苓散を勧められた。確かに異常な汗。シャワー使って下着まで着替えた。

1時事務所。今日は誰も出勤しておらず。電話数本。PR雑誌の編集部などから。3時半、日比谷に出る。二日連続。東宝ビルのあった一角を歩き、一瞬アレ? 道を間違えたかすごいカン違いをしていたか? と思う。あ、東宝本社はビルごとなくなっていましたか。試写状をもう一度見て、シャンテビル11階に試写室が移ったことを知る。毎日新聞Mさんからいただいた試写状に名刺添えて。

で、『日本沈没』。まだこれからも数回は見る作品だろうから詳しいことはそこでまた言及するとして、オドロイタことがいろいろ。いや、映画としちゃ十二分に楽しめた(言われているほどひどい出来では決してない)のだが。

・及川光博が怪演でないのを初めて見てオドロイタ。
・石坂浩二の髪形にオドロイタ。
・富野由悠季が出ていたのにオドロイタ。
・丹波哲郎(旧作)のあのセリフが突如出てきたのにオドロイタ。
・なにより○○が○○○○いのにむちゃくちゃオドロイタ。

小松左京の原作は、現在の小学館版がどうなっているかは知らないが、私が読んだ光文社版では最後が
「第一部・完」
で終わっていた。実は小松左京が書きたかったのは日本人が世界を放浪する第二部なのだが、その発端となる第一部で力尽きた、という感じである。そして、その後長く小松左京は第二部を書かなかった。やっとこの映画にあわせ、谷甲州と組んで第二部が完成したようだが、予告を見る限りでは、日本人が“技術”を武器に世界の危機に挑んでいくという、娯楽大作の風味の強い作品になっているようだ(谷氏がリードをとればそうなるだろうが)。“民俗学作家”小松左京のファンとしては“日本民族”という概念が、国土を失ってなおユダヤ民族のように存続していくことが出来るのかという壮大な仮説SFが読みたいのであるが。

この映画と原作の設定の違いがそこらへんで非常に気になったところだった。脚本・橋本忍、監督・森谷司郎の旧作のコンビは、それでも最後に、“いつか、世界のどこかで……”という字幕が出て、主人公たちに代表される日本人のその後(つまり原作のテーマ)を暗示して終わっていた。しかし、この新作では、主要登場人物たちは誰も日本を離れない。“日本人とは何か”がこの新作で非常に印象的に示されるのは、避難先の集合所でなお、“もんじゃ焼き”の提灯をかかげ、キャベツをきざみ、もんじゃを食って日本酒を飲みあう主人公たちの姿である。自分たちが日本人である、というアイデンティティが、もんじゃ焼きに凝縮されている。日本人以外にはわからないだろうな、これは。

宗教もない、血で血を洗う民族間闘争も経験しない、それこそ旧作で、島田正吾演ずる渡老人が
「二千年もの間、この暖かくやさしい四つの島のふところに抱かれて、外へ出て行って痛い目にあうとまた四つの島に逃げ込んで……子供が外でケンカに負けて母親のふところに鼻を突っ込むのと同じことじゃ」
と喝破した日本人の姿が、そのまま出ているシーンである。

それを思うと、この新作に渡老人が出てこないのは象徴的だ。今の日本には、このように自分たちを叱ってくれる、明治(日本人がたぶんただ一度だけ、世界と日本、ということを真摯に考えた時代)生まれの人間がいない。

「もう誰も面倒を見てくれないのだ、世の中に出て苦労をしろと尻を叩いてくれる人間はいない。もんじゃを食いつつ滅んでいくのが日本人のあり方だ、という引きこもり的な諦念のもとにみな、生きている。以前、私はこの日記に“国のアイデンティティ自体が引きこもりなのだ」
と書いた(2003年12月)。まさにそれを象徴するシーンだった。

若い頃は知らず、今の私は、この新作の『日本沈没』の中の日本人の方に、よりシンパシーを感じる。旧作を観、原作を読んだ中学3年生の私は
「もしこのような事態になったとき、いかに日本を脱出し、いかに世界で生きるか」
を必死に考え、シミュレーションをした。今の私なら、こう考える。
「もんじゃ焼きが食えない世界で生きていてどうなるのか?」
と。

日本人は成熟したのかもしれない。成熟とは、夢や思想ではなく日常を生きるということである。パニック描写や脚本・演出上のことは、また日を改めて。

出て、すぐ地下鉄で荻窪に向かう。6時からコムテツ稽古だが試写が終わったのが5時45分。助川くんに電話で6時半になる、と伝えるが、地下鉄の連絡がうまくいかず到着が7時まぎわ。もっとも今日は7時までダイレクトメール発送作業にかかっていた。
改訂版シナリオを渡される。私の出のシーンに改定やたらあり。しかし確かにやりやすくなっている。貴さんとのやりとり、乾ちゃんとのからみのシーン、コムテツと対決のシーンと三場面連続であたる。コムテツとのからみの場面がなかなか心理芝居で難しい。NC赤英がまるで舞台監督のように細かい演出意見を述べる。親川、渡辺、珠里のからみのシーンでは珠里さんがこれまた自分のセリフ等にシビアな意見を。緊張感と笑いとのいい感じの混交のうちにあっという間に9時。

タクシー使い四谷三丁目。K子と待ち合わせて居酒屋『あさま』へ。以前、ブンちゃんとよく来た店だという。大羽イワシ刺身、イワシ一夜干し、メヒカリ唐揚げ、それとおひたしなど。女物の鳥打ち帽かぶったお爺さんがいて、ここの主人らしい、いろいろとイワシについて講釈を垂れる。最近はまずイワシが入荷しなくなったが、今日は偶然、昔出していたようないい大羽イワシが入った、という。

一夜干しの方は秋田の市場まで行って以前食べておいしかった一夜干しを探し、やっと見つけた絶品のものをずっと入れていて、そこは送ってくる箱に特注のものを使っていたが、最近は入荷も減って、特注のものを使えなくなったのだろう、普通の箱になってしまった、という。イワシの食えなくなった日本にも、私はいたくないかもしれないな。

爺さんの説明は面白いのだが、下の歯が一本抜けていて、そこから盛大にツバキが飛ぶので、料理や酒にかからないよう、気をかなりつかった。飯類はあまりここはパッとしない、とのことでわざわざ新宿二丁目まで行き、へぎそば・昆でそばをたぐって帰宅。12時、就寝。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa