16日
金曜日
ハナラビ法典
目には目を、乱杭歯には乱杭歯を。
渋り腹。これが毎朝のことで、これでは旅行などに出かけたらどうなるのか、不安になる。もっとも、いいところは体重もこれであまり上がらないようセーブされていることで、今朝はかったら2キロも減っていた。
8時起床。雨である。入浴、洗顔。朝食は母が買っておいてくれたベーコン入りエピとコーヒー。何もやる気が起きず。一日引きこもりになっていようと思ったが、阿部能丸くんから電話で、今日の下町ダニー・ローズ公演、席をとってあるから、と逆リコンファームあり。それで逆に喝を入れるか。
佳声先生が某件で、こちらの説明不足でちょっと誤解されて怒っておられる由、聞いてあわてて詳しい説明のメールを佳枝さんに送る。話としては絶対佳声先生にいいこと、であるはずなのだ。
『ウォーホル日記』。珍しくコロラド州アスペンのスキーリゾートで1982年の正月を過ごすが、テイタム・オニールやソニー・ボノ、ジャック・ニコルソンなどが滞在している高級スキー場で、スキーの初心者コースで転んで救急医療施設へ行くと、背骨を骨折して首から下が動かなくなり、“ここは天国かい?”などとうわ言を言っている男とか、足の骨が太ももから飛び出ている若者などが大勢いて、怖気をふるっている。日本のスキーリゾート地も裏ではこうなのだろう。そう言えばこのアスペンで恋人のスージーと結婚式をあげた(牧師に“汝らソニーとシェリー”とかつてのコンビと言い間違えられた)ソニー・ボノも、1998年、スキー事故で死んでいる。
事務所に2時、行って、講談社モウラのナオシ原稿を入れたり。NHKの仕事での円谷プロ取材(今回は取材でなくテキスト表紙用の写真撮影)の日程が月曜になったのでへアセットをせねばなるまい、と代官山のエドエドを予約したり。
佳声評伝テープ起こし続ける。山本弘さんもミクシィ日記で書いていたが、人間はふつう、会話の中では文法や語順をきちんと話していない。と、いうより、かなり支離滅裂、めちゃくちゃな話し方をしているものだ。以前、自分のしゃべった内容を機械的にそのままテープ起こしした文章を読んだが、ほとんど精神異常者の言葉のようなものだった。考えてみると人間の脳というのは、耳から入ったそういう無茶苦茶な言葉を、無意識のうちに構成しなおしつなぎなおして、意味の通る内容に直して理解しているのである。凄いなあ。
もちろん、それが可能なのは、聞いてる内容についてこちらにある程度の知識があってのことだ。まるで知らない内容のことについて話を聞いたりしていると、脳が構成しようがなく、タモリのハナモゲラみたいなもので(古いね!)、日本語ではあるのだがまったく何を言っているのか理解できぬ、奇妙な言語としか聞こえない。
内容はもう、私のような昔のもの好きな人間にとっては抜群の面白さなのだが、テープ起こしの人にはそういう知識が皆無だったらしく、ハナモゲラ部分が非常に多い。苦労して何度も聞き直したのだろうが、まるきり『空耳アワー』の様子を呈している(タモリつながり)。それをこっちは、
「何と聞き間違えたのか」
逆推理しながら正解を出していかねばならない。
『モロッコ武士』→鴨緑江節
『イツミ天然』→泉天嶺(活動弁士)
『ボタンにササニシ、タケにソラ』→牡丹に唐獅子、竹に虎
『ゲタが偽装』→ゲタが十足
イツミ天然なんてのはこっちに泉天嶺っていう名前の知識があるから何とか理解できる。鴨緑江節や牡丹に唐獅子もしかり。やっかいなのは“ゲタが偽装”のようなやつだ。最初は何のことだかさっぱりわからなかった。これ、実は地口であって、ゲタが十足で葛根湯(下駄《かっこ》が十でカッコトウ、カッコントウ)というので、そこから何とか類推して十足だろうと推理したのだがなんで十足が偽装なのか? と不思議に思っていた。やがて、佳声先生が見事な霊岸島生まれの江戸っ子弁を使うことを思い出して、あ、と気がつき、膝を打った。江戸弁では十足を“じゅっそく”とは言わない。“じっそく”と発音する。それをアルバイトさんが“偽装”と聞き違えたのですね。
あと、『製薬会社で作品を作っていた』というのも、うっかり読み過ごすところだった。製薬会社で作品? と気がついて吹き出した。わかりますか。そう、
「製薬会社でサッカリンを作っていた」
である。なまじ文章として通じているので、つい、読み過ごしてしまいそうになるのである。
事務所を出て、神楽坂。気がついたら昼飯を食い損ねていたがやむなし。神楽坂・シアターイワト。前回の『あ・うん』のときのような超々満席ではないが、すでに今回もチケットは完売らしい。大したものである。
『はなび』は志らくの新作落語を元にしたものだそうで「いわゆる『天国から来たチャンピオン』のようなもの」とサブタイトルがついているが、これは時代であって、私なら『幽霊紐育を歩く』(『天国から〜』はそのリメイク)のようなもの、と言ったであろう。
時は明治、江戸時代お取りつぶしになった花火屋“玉屋”の再興を誓う花火師与五郎(柳家一琴)とその恋女房おせい(柴山知加)の人情芝居。与五郎が親方の鍵屋夫妻(阿部能丸、山咲小春)のもとを出て独立したとき、その後について出た職人の辰吉が事故死してしまい、幽霊になってしまった辰吉はなんとか与五郎の夢の実現を助けるべく、現世に戻ろうとするがすでに自分の体は火葬されてしまっていて……という話。
この辰吉と、その弟分の吉蔵を演じる劇団TIMELAGの田中大輔、吉野俊哉の二人がフレッシュで好演。一途に自分の夢を追う与五郎とおせい、そしてその二人を慕う若い職人の悲劇的な死、というお涙人情ばなしを、ギャグを随所に入れながらも、じっくりと演じさせて、前公演の『あ・うん』に通じる芝居なのかな、と思わせておいて、辰吉の死から一転、彼の不慮の死(実は閻魔帳のミス)の帳尻をなんとかあわせようという神様(ラーメンズの片桐仁)とその部下の死神(原武昭彦)が登場した途端、小劇場的ナンセンスのギャグ芝居となる。そのアクセントというか、切り替えの面白さがキモ。片桐もいいが、原武の、うまいんだが下手なんだか、素人スレスレの“無存在感”がサイコー。
この対比が最後まで持続するところが演出のうまいところで、小劇場系の演出家だとつい、人情芝居の方は最初の設定だけにしてしまって、あとはなしくずしにギャグの数を多くしていく風に流しがちだが、ストーリィの芯をきちんと最後まで保持していたあたりで、感動と笑いの見事なコンビネーションが舞台の上に現出した。
その二つの間をつなぐ第三のエピソードとして、辰吉の入る肉体であるところの、因業大家の徳兵衛(立川志らく)と、その殺害をたくらむその妻(千宝美)と番頭(コンタキンテ)の件が挿入される。ここでの三人の怪演がよくて、志らくもがんばっていてさすがだが、コンタキンテのにじみでるアヤシゲさが最高。ここのエピソードは下手をすると生臭くなって他の二つから浮くのだが、コンタキンテのキャラクターがそれをうまい具合にギャグにしていた。ニヤリと笑うだけで陰謀キャラが表せるのは強い。ここの劇団は脚本より演出より、このキャスティングの妙が売りだなと毎回、思う。
ただ、前回の『あ・うん』でも思ったが、もともと志らくは映画の人なので、場面転換を全部“きちんと”やろうとする。そのためにせっかく入り込んだストーリィが各所で寸断されてしまうという欠点が生じる。かなりの数の場面転換がもし演劇的に演出するならば、セットなどを変えずにイメージで処理できて、話の進行にもっとテンポが出たと惜しまれる(ことに長屋の衆のくだりなど)。
あと、これはどちらがいいとは言えないと思うが、元となる映画では、死んだ主人公が新しい体に乗り移るところで、演じる役者も主人公替わり、観客には主人公に見えるのだが、映画の中では乗り移られたもとの人間に見えている、という非常に“演劇的な”処理がなされていた。それがこの舞台では乗り移られた段階で役者も替わる、という形で演じている。つまり辰吉という主人公の設定はあっても実体はない、という形になっていて、妙にリアリズム。映画が演劇的で演劇が映画的というのがちょっと面白い。
出てすぐ出会ったコンタキンテさんに挨拶。紀伊國屋の感想のお礼も言われた。次のライブとかにはぜひ、誘ってくださいよと言っておく。あと阿部さん、一琴さんにも挨拶して、今度食事でも、と。ヒロインおたまを演じた酒井莉加さんが列から一歩出て挨拶してくれた。次の企画にじつは女の子が欲しかったのだが彼女ではどうかな、とチラと思う。
飯田橋から新宿、タクシーで渋谷。コムテツの告知の手紙出しの折り込み中のオノと出勤してきたバーバラと雑談。今日の舞台の話とからめて、劇団が売れるということについて。それにしてもこのところ芝居づいている。
夏コミ同人誌作りの打ち合わせなどもして、原稿書き。週刊現代マンガ評、今日は取り上げる本の指定だけで原稿は月曜〆だが、ついでに原稿アゲて送ってしまう。そのあと、9時までテープ起こしチェック。
9時、『花暦』でK子と、アシスタントのS、Oの二女性、それとK子の簿記仲間の男性と会食。K子がやたらごきげんで酒を飲み、楽しげにしゃべっていた。30分遅れで加わったのだが、自分で注文したのはおでんの具くらいなもので、あとはみんなの頼んだものをつまんだのみ。生ビールに日本酒一杯。なんという少ない酒量。簿記の人、能登在住者だとやら。左手の中指の第一関節を事故で失ったとかで、その話からリー・バン・クリーフの話になる。彼もスターにもかかわらず、右手中指を事故で失っているんである。
10時半タクシーで帰宅、また原稿。途中で少し休もうとベッドに入るがそのまま寝てしまう。体力がやはり落ちている。傘を神楽坂に忘れてきてしまったことに寝床で気がつく。