裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

19日

月曜日

大井武蔵野館、ちょっと待ちたまえ

 いかに名画座不景気だとて……(なんて言ってるうちに無くなってしまった)。朝7時起床、K子は冷房が大の苦手なので寝る際は切っておくのだが、さすがにこの数日はつらい。7時35分朝食。ニンニクミソでカブ・キウリ・モロッコインゲン。分 厚いさやの中からのぞくモロッコインゲンの豆はちょっと不気味。

 8時25分のバスで通勤。プール学習なのか、小学生たちたくさん。男の子たちはおとなしく座っているが、女子たちがもう、ペチャクチャワイワイ、うるさいのなんの。で、男の子は集団で話すとき、特定個人に話しかけるときも周囲を意識しつつ、彼に大声で話しかけるのだが、女の子の方は、集団の中、個人に対しては必ず耳打ちで話す。周囲と話すときと個人での会話をきちんと分け、耳打ちで隣の子とか、あるいは伸び上がって遠くの子に耳打ちをする。そうだそうだ、私が小学生の頃も、女子はこういう話し方をしていた(それがどうしても耐えられなくって、イヤだった)と 思い出す。子供なんて、進歩しないものである。

 仕事場着、一晩じっくり温められたかまどの中のような部屋に入るのがどうにも。ざっと仕事関係のメールのみチェックして、その後、意を決して、湯浅監督のお宅に 直接電話をかける。奥様が出られた。
「あのう……私、以前監督の本を書かせていただきました、唐沢と申します。ご無沙汰しております……実は、先日、知人から監督が亡くなったと聞きまして……」
「あ、はい……先月でございます。大変失礼いたしました。突然のことで、皆様にお報せもいたしませんで。長く寝込んでいたということもなく、14日に脳梗塞で倒れて、そのときにはもう、心臓が停止しておりまして」
「あ、やはり、お亡くなりに……ちっとも存じませんで、大変に失礼を……」
「いえいえ、普段から、“死ぬときは誰にも気づかれずに、いつの間にかみんなの前から消えていきたい”と言っていましたもので、監督協会にだけは伝えたんですが、会社の方からも、“ガメラを愛している人たちも多いんだから、せめて送る会を”とお申し出があったんですが、それも辞退させていただきまして」
「……監督らしいと思います。本当に、生前はお世話になりました。では、まことに残念ですが、ご遺志を尊重して、お焼香とかは遠慮させていただきますので、悪しか らずご了承ください」
「ええ、ええ、それはもう、一切おかまいなくお願いいたします」
「……ただ、雑誌やサイトなどで、監督のことを追悼するというようなことはかまいませんでしょうか」
「ええ、それでしたら、当人も喜ぶと思います。ぜひやってあげてください」
「では、本などが出ましたら、送らせていただきます。御霊前にお供えください。本当に、監督とお会いできて、お話を伺えて、嬉しかったです。唐沢がそう申していたと、監督にお伝えください。では、失礼いたします……」

 奥様(女優出身かと最初思ったほどの美しい方という記憶がある)の受け答えが、何か本当に心を割り切っておられる感じで、ところどころに笑声などが混じるのが、何とも意外というか、逆に、ああ、夫が何を望んでいるか、きちんと分かり合っていたご夫婦だったのだな、と思えて、電話を切ったあと、逆に悲しみが深く胸にこたえてきた。監督と奥様は十歳の年齢差がある。これくらいだと、夫をいつか失うということも、奥様には元から覚悟の上での結婚生活だったのだろう。……最後に交わした挨拶が、葉書のやりとりになってしまったが、単なる時候の挨拶ではなかったのがせめてもの慰めか。産経新聞の『ライバル物語』という連載記事で、ゴジラとガメラを取り上げて、湯浅監督のコメントが掲載されていたときに、肩書が“元・映画監督”となっており、この“元”という表記にちょっとカチンと来て、あれには憤慨しましたと葉書に書いで出したのだった。ほどなく返事が来て、
「監督は自分で引退を表明しなければ一生監督だ! と開き直って、今は毎日、プールで歩いて体調維持を心がけています」
 と、あった。まだまだお元気だな、と、子供や主婦たちに混じってプールで悪戦苦闘しているその姿を思い浮かべ、可笑しく思っていたのだが。

 アルチザンという人にもいろいろ会った。会うたびに彼らの言葉には感銘し、感嘆し、これこそが人生にとって本当に役に立つ金言なのだ、と、空虚な思想系の言葉が紙くずのように思えてきたものだったが、中でも湯浅憲明という人の、徹底した職人ぶりには舌を巻いたものだった。ただ、その職人性は、いいものにこだわって、頑固に自分の作品性を守り続ける、というものではない。クライアントの注文に従って、納期と商品性を完全にクリアした上で、どんなものでも、またどんな条件下でも作り上げる、という、そちらの方面での職人だった。職人というよりは“プロ”という言 葉が、より似合っていたかもしれない。

 この融通性は、父が映画俳優の星ひかる(戦前、かなり活躍した喜劇俳優である)で、祖父も祖母もみんな映画人という、撮影所で生まれたような生い立ちにも関わっているだろう。湯浅憲明にとり、映画とはあこがれとか理想を持って足を踏み入れるところではなく、生活の糧を稼ぐための日常、であった。『ガメラ』の監督が回ってきたとき、助監督としてついた井上梅次監督(これまた職人監督の典型)のもとに、
「こういうのをまかされたんですが、どうやって演出したらいいでしょう?」
 と訊きにいったときの言葉が、
「こういう映画に必要なのは演出やない。計算や」
 というものだったという。この言葉に、半ば反発を感じながらも、若き湯浅憲明は徹底して計算(合成やミニチュアにかかる予算、時間、当時の機材における撮影の限 界など)を始めた。

 ……後に、『大怪獣ガメラ』で美術を勤めた川村清という人が、文芸雑誌に『ゴメラの笛』という、撮影当時の実録小説を書いているが、その中で、湯浅監督は星野という名前で、若い、理論派の、古い映画人の美学を頭からバカにする嫌われ役として登場する(後でお詫びに酒をおごられたそうだが)。
「撮影日数を五十日とすると、一日平均五カットとして二百五十カット、この仕上げにかかる予算は……」
 と、常に数字を並べてものを言う秀才の姿は、確かにそれまでの、こだわりの意味での職人気質の映画人からは、嫌味な奴だと徹底して嫌われたろう。だが、天下の円谷英二を擁し、戦前から特撮映画を作り続けていた東宝に対抗して、何のノウハウもない、新興の映画会社が特撮怪獣映画を作るとき、何よりも必要だったのは、そういう“計算”で映画を作っていく才能だった。日活、松竹といった老舗が挑戦した怪獣映画がのきなみコケた中、唯一、大映のガメラのみが、ゴジラに対抗する怪獣映画として残っていったのは、湯浅憲明という、徹底したプロ意識の持ち主が現場にいたか らであったろう。

 ……湯浅監督の、そういったプロ意識は、ガメラ映画を、“いい映画”ではなく、“当たる映画”に徹させることに注がれた。制作費のかかる怪獣映画は、当たれば大きいが、一方でリスクも大きい。ガメラ登場時はすでにゴジラも子供向け映画としての路線が引かれたころで、徹底した春休みお子様向け映画としてガメラの映画的性格は決定された。ゴジラのように、その誕生に戦争の影を引きずっていないガメラにはそれは比較的簡単なことだったし、その方向性は、60年代末になって、大映が経営不振に陥ってきたあたりからより一層顕著になった。今のように、ビデオやDVDなどの売り上げがある時代ではない。映画は入りが全てであり、監督に課せられた役割は、一人でも多く、映画館に観客を呼び込むこと、だけであった。映画を低年齢向けにすればするほど、興業収入は増す。つきそいの大人が必ず一緒に来るからであり、また子供向け料金の差額は館内で売るグッズやお菓子などの配収で、十二分にモトが取れるからである。実際のところ、末期ガメラは一人で(と、いうか一匹で)大映を背負っていた。『対ギャオス』までは特A級(本編部分と、特撮部分にそれぞれ映画一本ぶんの予算がつく)であったガメラシリーズは、その後大映に余裕がなくなり、普通の映画一本の予算の中で、本編も特撮シーンも撮らなくてはならなかった。普通の監督なら、出来るか、と尻をまくっておかしくない場面である。しかし、そこを、“それならそれでなんとかしてしまいましょう”と撮りあげてしまうのが、“プロ”である湯浅憲明の腕、なのであった。

 怪獣映画ファンには、映画として評価できるガメラシリーズは『ガメラ』『バルゴン』『ギャオス』の三本まで、であろう。それは私も同意見だ。しかし、“湯浅憲明ファン”の目で見るならば、格段に後期シリーズの方が興味深い。予算を削られ、機材やスタジオなども自由に使えず、撮影日数もフィルムのフィート数もどんどん削られていく中で、どうやって特撮怪獣映画を作るのか、その苦労と工夫が如実に見てとれるからである。例えば、『バイラス』の中で、バイラス円盤が人間やガメラをとらえるために発射するキャッチ光線というものがある。これに捕らわれると、半球形のカプセルのようなものに閉じこめられるのだが、金があれば合成で処理するであろうこの特撮を、湯浅監督は、半透明の塩化ビニール製のカプセルを一個発注し、全てをこれでまかなった。倒れている人間や、ガメラのぬいぐるみの上にこの半球の塩ビをかぶせ、あとでフィルム処理でキラキラさせれば、それで新兵器スーパーキャッチ光線になるのである。もちろん、中に入る人間の身長や、ぬいぐるみの大きさなど、全 てを“計算”した上で発注したことは言うまでもない。

 怪獣映画の大きな副収入のひとつが海外への版権売買である。その売買を容易にするため、後期シリーズには必ず外人の子役をひとり、入れた。この、子役が全員白人の子であることをとらえ、“この当時意識され始めた「国際交流」ということなのだろうが、この時代の日本人にとっては白人だけが交流すべき外国人だったのだ”と、“文化的”見地からアカデミックに(?)批判しているサイトがあったのには呆れたものだ。そんなものは買い手からの注文に決まっているではないか。そもそもがガメラは、東宝がルートを一手に握っていたアメリカを避け、ヨーロッパ中心に売られていた。東欧・北欧バージョンのガメラのビデオを見せてもらったことがある。黒人の 子などを出しても、そういう国には売れないのである。

 これに限らず、映画マニアが“大人の目で”怪獣映画を語る際に、まず昭和ガメラシリーズは目の敵にされることが多かった。子供時代にあれだけワクワクしたものを大人になって再見して、そのあまりの安っぽさに愕然とし、それにかつて大喜びした自分を恥じるのだろうか、躍起になってガメラをくさすのが、自分をマニア的な高度な目を持っていると自負するファンの定番だった。そういうサイトを見つけるたびに苦笑し、なら、なぜこんなに安っぽい映画に、当時の自分が熱狂したのか、その裏に 隠されている監督の腕に気がつけばいいのに、と思ったものだ。
「“もう少し、お金かけたら”という感じだ」
 などと言うが、そのかける金がなかったのである。金をかけずに、金を儲ける映画を湯浅憲明は作り上げた。末期ガメラシリーズの、なりふりかまわず子供受けを狙ったことによる安定したヒットにより、滞っていた給料が支払われ、息子を学校に上げてやることが出来た社員、会社をつぶさずにすんだ下請けスタジオなどが、どれだけあったことか。それが社員監督としての、彼の務めであった。

 もちろん、監督はガメラ以外の作品も撮りまくった。関根(現・高橋)恵子主演の『成熟』(71)は、会社から資金がまったく下りず、山形県の鶴岡の文化振興会が地元の宣伝のためにと六百五十万の制作費を出してくれたのを受け、オール山形ロケで撮影を行うという異色の体制下で作った作品であった。スト中の労組の横槍をくぐりぬけて撮影し、やっと完成にこぎつけたこの作品が、大映の事実上最後の公開作品となる。湯浅憲明は旧・大映株式会社の最期を看取った監督でもあった。劣悪な撮影環境の中でも工夫を重ね、とにもかくにも映画を作り上げてしまうその器用さとプロ根性のエピソード群は、聞くたびに感嘆せざるを得ないものばかりだった。しかし、そのような逆境で撮ったハンデが常にその作品にはつきまとい、ビデオ時代になって現在の目でその作品を観た、マニアな映画ファンからの誤解を受け、監督としての評価を低くしてしまったところが湯浅監督には少なからずある。悲劇の人、と言っても 過言ではないだろう。

 そして、これは亡くなった今だから言えることだが、そのような自分のプロとしての腕に絶大な自負があり、また、会社の最後を支えたという意識は、代々の江戸っ子の資質と相まって、監督を徹底した毒舌の人とした。聞き書き本を作ったときに最も頭を抱えたのはここである。話が毒舌(しかもそれが圧倒的に面白い)だらけでは、第三者に対してはばかりがありすぎ、しかしそこを全部削ってしまっては、内容の面白さがほとんど出なくなってしまうのである。こういうタイプの人は、周囲に敵を作りやすい。まして、その人に本当の才能があれば、なおさらである。これは、本には入れないで欲しいと言われたエピソードだが、監督が後にテレビで『奥様は18歳』『コメットさん』『刑事犬カール』などを演出、ヒットメーカーの名をほしいままにしていた頃、あるテレビ局の重役に呼ばれ、
「いつまでも旧会社に義理立てして、大映テレビなどというところの社員監督でいてはいい仕事は出来ないでしょう。どうです、私らがバックアップしますから、独立して、湯浅プロダクションをお作りになっては。大丈夫、会社設立から仕事まで、ぜんぶウチで引き受けます」
 と言われたそうだ。年齢としても脂が乗り切っていた時期であり、男としてふるい立たざるを得ない話であろう。だが、監督は詳細をぼやかしていたが、その件が半ばまで進行したとき、その成功をねたむ者の讒言があって、周囲から有形無形の圧力がかかり、独立の話は夢と消えたという。もし、とつい、IFを考えるが、その話が実現していれば、われわれは昭和50年代にもっと数多くの、良質なエンタテインメント番組を見ることが出来たかもしれない。そう思うと、歯がみをしたくなるほど残念なエピソードだ。監督が歯に衣着せぬタイプでなく、周囲の和を尊ぶ性格であったなら……もっとも、それであれば、あの独自の湯浅演出は生まれたかどうか。所詮は仮定の夢ばなしではあるのだけれど。

 全ての昭和ガメラファンにお願いする。迎えに来たガメラの背中に乗り、空へ去っていく(ガメラは“空に”去っていかなければならないのだ。絶対に)監督に、初めてガメラを見た小学生の頃に戻り、窓の外に飛び出し、思い切り手を振って別れを告げて欲しい。ガメラはきっと帰ってくる。ガメラは子供の味方なのだから。

 昼は金沢のS井さんから送られた8番ラーメンを仕事場で茹でて食べる。ほぼ3ヶ月ぶりに仕事場の台所でガスを使い、料理する。辛味大根がついてきているのだが、それを下ろす下ろし金が、新中野に持っていってしまってない。スリバチがあったので、それでゴリゴリと下ろして用いる。毎年のことながら、麺の甘味が抜群で、具な どなにも入っていなくてもおいしい。

 暑さのせいかパソコン不調。ドリームウィーバーの不調、ついに全く日記をアップできなくなる。パイデザにデータを添付して送って、調べてもらう。気圧も乱高下、湯浅監督の件で精神的にも参り、ちょっと気分を変えようとタントンマッサージに出かける。小柄な女性の先生だったので、思い切り強く揉んでくださいと注文をつけるが、この先生の揉み方、いや痛い痛い(これが目当てなのでホメ言葉である)。1時 間たっぷりと揉み込まれ、全身綿の如くなる。

 帰宅して少し横になって休み、それから猛然と仕事。ウェブ現代を一本アゲて、講談社とK子にメールする。パイデザの尽力で日記も復調。8時半まで仕事他のものをやり、9時に新中野に帰宅。今日は久しぶりに夫婦と母三人のみの夕食。“Nさんという人から干物がお中元で来たけれど”と言われ、一瞬考えて、それが牧沙織の結婚後の姓とわかる。実家の福島から干物が届いた。ヤナギガレイはわかるが、もうひとつ、メザシのように連なっている魚が、表記がないので何だかわからない。焼いて食べてみると、脂がたっぷりで、身が柔らかくホクホクとして、頭も尻尾も全部食べられる。メヒカリなのではないか、と意見を述べる(後で彼女に確認したら、まさにメヒカリだった)。東京で食べるメヒカリは正直言ってこれの三分の一の鮮度もない。最後のご飯は札幌のユウコが送ってくれた筋子で。今日は昼の8番ラーメン、夜のメヒカリに筋子、それから飲んだビールと、全てがお中元でまかなえられた。家計が助 かるのは嬉しいねえ。

 DVDで『アタックNO.1』と『みんなのうた』。みんなのうたの中の『誕生日のチャチャチャ』は、本放送(72年)以来一回も聞いていないが、完璧に歌えるのに我ながら呆れる。これ以降の歌はほとんどがそうだ。『勇気ひとつを友にして』は逆に、他の歌番組や、いろんな合唱コンクールで聞いているので、もっと情感込めた歌い方の歌だったと思っていたが、原曲は案外駆け足という感じで歌っている(放送時間の関係だろうが)。“♪むかしギリシアのイカロスは、ロウで固めた鳥の羽根、両手に持って飛び立った、雲より高くまだ遠く、勇気ひとつを友にして……”で始まり、最後はイカロスの死の後、“だけど僕らはイカロスの、鉄の勇気を受け継いで、明日へむかい飛び立った、僕らは強く生きていく、勇気ひとつを友にして”となる。わがトラウマ曲のひとつ。聞くたびに涙がにじみ、胸がじいんとあやしく高鳴る。名曲である。これを聴いて泣かない奴とは話をしたくない、とさえ思う。そして、ここ が不思議だが、心のどこかで、その当時から
「これは本当の感動ではないんだ、この歌にダマされてはダメなんだ」
 と思い続けていた。それは、すでにこの曲を初めて聴いた時点でギリシア神話についての知識があり、イカロスが決して勇気をモチベーションにして飛び立ったわけではないこと(親父のダイダロスと共に幽閉された搭からの脱出だった)や、その墜落も、若者らしい無謀さとはしゃぎ方が原因の、父の制止を振り切って太陽に近づきすぎた故の自業自得の事故であったこと、などを知っていたからだろう。はっきり言って、あの話をこういうロマンにして若者を賛美するオトナを汚い、とさえ思った。このおだてに乗るのは危ない、と心のどこかが反応したのである。思えば湯浅監督の、ミもフタもない映画撮影苦労ばなしが大好きだったのも、そこに、変なロマンの介入する余地がなかったからかも知れない。伝説にはなりづらいだろうが。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa