裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

18日

木曜日

信玄なんてラララー

 信玄なんてラララー、信玄なんてラララー(上杉謙信・歌)。朝、寝床の中で長い長い、“極太一本麺”を開発して、この麺をつかったうどん料理でチェーン店を展開し、業界を制覇するまでのど根性ストーリィの夢を見る。極太一本麺というのは、ゴムホースくらいの一本のうどんが丼の中でとぐろを巻いている、というきびの悪い食い物であった。寝床読書は、整理中の棚で見つけた現代教養文庫『ファウスト物語』(関泰祐、1965)。旺文社文庫の佐藤通次・訳『ファウスト』を初めて読んだのは高校二年生くらいだったから、そのあたりに参考書として買ったものか。ファウストの第二部のストーリィというのは難解混沌で有名で、これまでに私も二度ほど通読しているが、結局のところはよくわからん、というのが正直な話だ。わかりにくい原因のひとつは、後代の人間にはもう何を指しているのかわからぬ比喩や風刺、謎があちこちに散りばめられまくっていることで、それらをかなり大幅に整理して解説してくれるこのような本は、読書家にとって極めて有り難い代物だろう。そうして、こういう通俗解説本を最もありがたがらないのも、また読書家という連中である。

 この第二部のはじめのあたりに、メフィストフェレスが皇帝をそそのかせて大規模な仮想舞踏会を執り行う場面があるのだが、ここでも比喩や象徴がてんこ盛りで、巨大な象に乗って勝利の女神ヴィクトリアが登場するのだが、付き従う三人の女神たちのうち、一人は象を御し、あとの二人は象の足元に鎖で縛り付けられている。ここで象は“大陸において最も古い歴史を持つ生物であるから”これは国家を意味しているのだそうだ。そして、その象を御している女神は“知恵”であって、国家を運営するには知恵が必要であるということを表し、縛られている二人の女神は“恐怖”と“希望”で、前者は国民を萎縮させ、後者は国民を狂乱させる。必要であるから付き従えてはいるものの、国家の経綸のためにはこの二つには制限を加えておかねばならないという。“恐怖”への制限は誰もが思いつくことだろうが、“希望”にも制限が必要というのは、さすがはゲーテ、一国の首相まで務めた人物だけに、きれいごとではものごとを済まさない。小泉サンは果たして“恐怖”と“希望”を鎖につなげられるであろうか。

 7時半、階下に降りて朝食。大根を基本にした野菜サラダ、半熟卵、トースト、それにベーコンとサヤエンドウの炒め物。量はどれも少ないがバラエティ豊かで、実家なるかなといった感じ。とはいえこの実家、二階のトイレは水道管が不具合で使えなくなり、親父の書斎だった部屋はいきなり電球が切れてつかなくなった。取り壊しが決まった時点で、家自体が少しづつ“死んで”行っているような、そんな感じがする のである。

 メールチェック、講談社Yくんから『近くへ行きたい』の原稿受領の報告。それに加えて、この連載の単行本化の企画が会議を通ったそうで、帰京早々打ち合わせを、とのこと。出来るだけ早めに出したい、営業の方針であろう。営業がせっつく本というのは有り難い。あと、児玉さとみさんからは紙芝居ライブのお礼とその後の報告。某ベテラン声優さんとお会いしたときに紙芝居ライブに出た話をしたら、その声優さんが子供時代に見た紙芝居屋さんは、
「おまんこでんでん、おまんこでんでん」
 と声をかけながら子供たちを集めていたという話をしてくれたそうだ。まあ、親たちが教育に悪い、とさわぐわけだわなあ。

 こちらは時間がたつのが非常にゆっくりである。いかに東京での日常が雑用の分刻みであるか、ということなのかも知れない。まあ、モバイルがウインドウズで使い勝手がいまいちなので、日記もこっちではつけず、仕事も(持ってくる予定のものを忘れてしまったので)やらず、ということなので、飲み会や、明日の打ち合わせをのぞけば、確かにすることがない。昼食は作り置きのカレーに炒めた夏野菜を加えたベジタブル・カレー。羽田で食べたものの三倍はうまい。この三倍という数字は、最初に ベースとして炒めたタマネギの量の比率でもあるだろう。

 K子は札幌三越で二十世紀を買いに出る、と言う。母が11月に上京する際のパックチケットを買うので、一緒に出る。私も出るつもりでいたが、何か急にめんどくさくなったので、留守番を決め込むことにする。二階にひきっぱなしのフトンの上で、横になって本を読んでいたら眠くなって、ぐっすりと寝込んでしまった。二時間くらいして眼が覚めたが、空は急に曇り始め、ポツポツと雨も降り出してきている。はは あ、このせいであったかと思う。

 メールチェックしたらフジテレビから相談ごと、ちょっといろいろ今の仕事とからんでくるので考えるが、混乱を防ぐためににも引き受けることにする。要は『トリビアの泉』のネタ選定にもう少し深く関わることになるということ。確かにネタの希釈度というのも前回で底打ち(岡田さんはまだまだ、と言っているが)だろうし、少しはマニアック度を上げてもいい、と、局側で判断したのかもしれない。まあ、程度問 題だろうが。

 このメールのあと、なぜかモバイルの調子が悪くなり、ニフティにつなぐ際に保存していたパスワードなどが全部消えてしまった。まあ、東京へ帰ってからでいいや、と、全部投げ出す。実家というのはダラけていけない。もっとも、このダラけも今年限りであるが。K子はモモちゃん(古書薫風堂の娘さん)と一緒に帰宅、彼女にマンガを実践講義している。日本のマンガはコマが右上から左下に進んでいくので、原稿のペン入れもつい、右上のコマから入れはじめたくなるが、それだと左のコマにペンを入れるときにこすれて汚れる。ペン入れ、ベタ塗りは左上から右下に進めていくのが基本、などという具体的な指示に、なにやら“日本の職人”というような単語が頭 に浮かぶ。

 7時半、いつもの古書店主人たちが来宅して宴会に……なるはずであったが、来たのはすがや夫妻とじゃんくまうすの奥さんのみ。待ち合わせたはずの薫風堂さんが現れず(その前に電話で待ち合わせ時刻と場所は確認済み)、そこらを歩いているかも知れない、とじゃんくのご主人が今、探しに行ってるという。しかしながら、薫風堂さんもじゃんくさんも携帯を持っていないのである。K子が“連絡が一番必要な人に携帯持たせないでどうするの!”とカンシャクを起こす。やがて、薫風さんから、娘の桃ちゃんに電話。どうも待ち合わせ場所をカン違いしていたらしい。そこで待っていて、と命じ、さて、今度はじゃんくさんが帰宅するのを待って、トンボ返りでまた駅まで行ってもらうことにする。やれやれ。しかしまあ、無事でよかった。すがやさんからは『用心棒』公開時のパンフレット、それから葬儀社の業界誌『SOGI』などをいただく。冒頭グラビアが著名人の葬儀模様(声優の高橋和枝など)というのが浮世離れしていていい。

 母の料理、昨日のアスピックゼリーに、ハムと野菜の揚げ春巻、マグロと蛸のバルサルミコソース和え、能登のこうでんさんから貰った栗(虎の子で渋皮のまま揚げたのをK子が気に入って、家でも作らせた)、いかにも家庭料理のアイデアという、焼き鳥をウナギのタレで焼くというもの、それに特製メンチカツ。どれもお見事で、なかんずくメンチカツは、この一品を看板に洋食屋が開業できる、というレベルであった。じゃんくまうすの奥さんが一品ごとに歎声を上げ、いちいち
「これはどうやって作るんですか?」
 と質問していた。わが家で母の料理を食べた女性(それも人妻)も多いが、K子、よしこ、ユウコと三人も嫁がいて、レシピを訊ねて自分で作ろうという姿勢を見せた者は一人たりといない。じゃんくさんの奥さんが開闢以来である。ふむ、普通の主婦というのはこういうものであったか、と、ちょっと新鮮な感覚だった。酒に酔ったみなさんを二階に案内、始末する本で好きなものをどうぞ、と進呈。バラの早川SF全集などがすぐなくなった。薫風さんが並ぶ雑書の中からすぐ、青土社のビアス『悪魔の寓話』(“辞典”の続編)を見つけだしたのはさすが。でも、酔っていたのか忘れ て帰ったが。

 飲む方も、ワイン二本、ビール、お客さん持参の日本酒五合瓶二本、それと沖縄焼酎などかなり行った。オニギリまで食べて、12時近くお開き。寝る前にK子の携帯に、桃ちゃんから今日のお礼と、“父は帰り道、地下鉄の中で奇声を発したりしていましたが、無事帰りつきました”という報告あり。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa