裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

16日

火曜日

亀レスとアキ

「向井亜紀です、すいません、代理母募集で忙しくレスが遅れました」。朝、今日は7時までぐっすりと眠っていた。体調よし。若い頃から体力に自信のない者のいいところは、中年になっても“ああ、われ老いたり”というように身体の衰えを嘆く場面が少なくてすむところである。最近、目がショボショボして寝床の中で細かい活字の 本を読むのに苦労するが、まあそれくらいか。

 朝食、昨日のあのつくんのトマトと枝豆。今日は新聞休刊日で、阪神優勝の記事を読むことが出来なかったが、テレビで道頓堀に5300人が飛び込んだ、という報道に“へぇ”。確か18年前の優勝時には飛び込み者は数十人だったはず。18年で、100倍に膨れ上がったか。在フランスの阪神ファンがセーヌ川に飛び込むシーンも映し出された。同一人物かどうか確認はとれていないが、この人、どうも外人部隊に所属していた元・傭兵であるらしい。傭兵のイメージが変わる。
http://www.sponichi.com/soci/200308/14/soci126871.html

 朝、井の頭こうすけ氏からイラストの件で電話、いくつか確認。母からも電話。墓参りなどの相談。さらにコアマガジン社からトリビア関係のコラム一本、依頼。まず通常の午前中業務。郵便局に行き、変奇堂さんへの古書代金を払い込む。それから新宿へちょっと雑用。夕方にまた新宿(対談仕事)なので、そのとき一度に済ませられれば能率的なのだが、そういうことは出てから気がつく。用事すませて王ろじでとん丼。ここでタイガース関係の記事を店内のスポーツ紙で読む。18年ぶりの優勝は確かにめでたい。そこまで持っていった星野監督にも心から尊敬の念を抱く。さはさりながら、マスコミ全てがこういう全面賛美、全面めでたやの報道であるというのは、やはりちと不気味。“本当に”日本人はかくまでタイガースが好きだったのか。そうとは思えない。ワールドカップの時にも言ったが、何でもいい、とにかくタガを外せさえすればいい、という理由がこの騒ぎに繋がっているとすると、日本人の心理の底にかなりの、対象の見えない鬱屈や憤懣が澱のように溜まっているということなのではないか。コメント欄にずらりと居並ぶ文化人の誰ひとり、そういう指摘をしていないのは、文化人たちが文化人としての機能をもう果たしていないということではない のか?

 とにかく、若者たちが大騒ぎすることに、それが何であっても、嫌味でもやっかみでもなく、常識の見地から“いかがなものか”と言えるご意見番がいなくなったことは痛切に感じる。なんでいなくなったかというとアタリマエの話で、そんなことを言うと若者に徹底して嫌われるからだ。今の日本ほど、若者の立場が強く、老人の立場が弱い国はまず、あるまい。老人たちは常に若者の顔色を見ながら、コソコソとものを言うしかないのである。最近の若者は、とちょっとでも口にしようものなら、マスコミだの学者だの“若者の味方を装うことでメシを食っている連中”の徹底したバッシングにあう。

 こういう国は(論理が飛躍してすまないが、長くなるのではしょらせてもらう)いつか、戦争に向かっていく。“自分では戦場にいかぬ老人たちが若者を死地に追いやる”なんて図は、戦後、数の少なくなった若者をおだてようと一部のマスコミが言い出したウソッパチだ。515も226も青年将校が老人支配のぬるま湯政治に不満を爆発させて起こしたものではないか。惨殺されたのは老人たちではないか。だから、あの事件は今にいたるも若者の心をはずませるのだ。若者はいつの時代も、戦争に行きたくて行きたくて仕方がなかったのだ。いや、戦争でなくても、ものの破壊、制度の否定であったらなんでもいいのだ。反戦運動であった60年安保だって、あれは、戦争の代替行為だったのである。真珠湾のときの日本も、9・11のテロリストたちも、たまりにたまった鬱屈をあの一撃で発散させて大喝采を博した。阪神ファンとして言わせてもらうが、ここまで、日本国民がこぞって、18年のタイガースの鬱屈に自分の心象を重ね合わせられるというのは、決して褒められたことではないと思う。

 食後、紀ノ国屋アドホックのコミック売場に行こうとしたら改装中だった。本店の臨時売場でせがわまさき『バジリスク〜甲賀忍法帖2』を買う。帰りの車中で読みはじめたが、もう、面白くて面白くて。巻をおくあたわずどころか、立て続けに三回、読み通してしまった。オビ文には“『甲賀忍法帖』を待望の漫画化、まったく新しく生まれ変わった”とあるが、“まったく新しい”どころか、実はこの作品のおもしろさの最大理由のひとつが、驚くほど原作に忠実な漫画化である、ということにあるのはあきらかなことではないか。変に新解釈を加えず、原作のカンどころ、原作のキャラクターを、ほぼ忠実に絵として再現しているからこそ、私のような原作フリークにも面白く感じさせるのである。前に言った、医学的解説が全てカットされているなどの不満ももちろんかなりあるが、それらの変更は作者の恣意的なものではなく、文字のものをマンガとするにあたっての限界を認識した上で、不都合のある部分を削り、絵的に効果がある場面を創出(第一巻の鵜殿丈助の顔面白刃取りなど)する場合か、現代の読者の好みに多少あわせたサービス(第二巻の、夜叉丸への蛍火の愛情表現など)を加える場合にのみ止めて、本質的な部分はそっくりそのままと言っていいほどに取り込んでいる。作者がかなり徹底して原作を読み込んで、絵にした場合の構成に頭をしぼっていることがはっきりとわかる。これこそ、原作に対する敬意というものであり、“名作の漫画化(視覚化)における理想型”、であろう。『キューティーハニー』や『キャシャーン』を映像化しようとしているやつばらは、まず、このせがわまさきの作品を百回読んで、自分の心の中に本当に原作への敬意があるのか、と自問自答してもらいたい。

 面白いものを読んだあとは得した気分になるが、仕事が手につかなくなるのは完全な損、である。Web現代原稿、書きながらちと筆につまると、また本を手にとってパラパラと読んだりして、さっぱり進まぬ。そうこうするうち時間になって、3/4まで書いて中断、対談仕事で新宿へ出る。中村屋5階の中華料理のなんとかという店で、『創』対談。お題は例によって『トリビアの泉』。岡田斗司夫さん、先に来ていた。中華料理食べながらの会話だったが、話というものを食べながらさせるというのはあまり利口な手ではないのではないかと思う。雑談なら食いながらの方が話がはずむが、なにかそれらしいまともなことを言わせようと思うなら、ただ話すだけ、の方 が面白くなる。

 詳しい内容は対談の載る『創』を読んでいただきたいが、岡田さんもやはり、あの番組の成功の秘密は“マニアどっか行け”な姿勢にあること、と断言していたのが、やはり見えているな、という感じ。あと、大儲けとか大成功というものが案外つまらん、ということも岡田さん話す。いろいろ実例を出して話してくれるので、対談としては使えない材料ばかりなのだが、ゴシップ的興味としてはまことにもってオモシロイ限り。もっと秘話とか話さねばいけない私が岡田さんの話を聞いて大笑いしていただけなので、対談としてはどうなのか? S編集長、私がバイザー料の額をコレコレと(もちろんオフレコ部分で)言ったのを聞いて“えっ、カラサワさん、そんなにもらってるの?”と驚いていた。私はあれだけの視聴率の番組であれしか貰えんことに 驚いているんだが、やはり出版業界というのは基本的にビンボー根性である。

 みんなと別れ、K子に電話、マイシティ下のタクシー寄せから下北沢まで。茶沢通りにあるすし店『すし好』でK子と待ち合わせ。この店は仕事終えた『虎の子』の萩原夫妻がよく行くという店(朝4時までやっている)で、あの舌の肥えた二人が案外褒めているので、どうかと思い行ってみたもの。店内は明るく、広く、ちょっと落ち着けないかな、という感じだったが、カウンターに座って、若い職人さんに白身とコハダを握ってもらって食べて、ふむ、とK子と目を見合わせてうなづく。さすがに、すがわらのような突出した味ではないが、参宮橋の北澤倶楽部よりははるかにマシ。

 K子はメニューにあった松茸土瓶蒸しをさっそく試してみていたが、これはまあ、お遊びみたいなものであろう。ネタの種類も豊富だし、食べ方も今風に気をきかせているし、普通においしい寿司を食べたいな、という感じで行くには文句なしという感じである(私は寿司屋や居酒屋には“隠れ家”的雰囲気を求めるので、そっちの条件はちょっと満たさないけれど)。私たちについてくれたのは若い兄ちゃんの職人さんだったが、昔かたぎらしく、中働きの職人で、遅番だからと言って酒を飲んで入った男を、“帰れ!”と言って下がらせていた。仕事場の規律がしっかりしているところは信頼できる。最初に入っていた客がざっと引き揚げ、私たちだけ、という状態がしばらく続き、やがて二組ほど一度に入ってきたあたりで引き揚げようとしたら、その職人さんに
「つないでいただいて、ありがとうございます」
 と礼を言われた。いや、そんな大層なつもりじゃなかったのだが。そして、肝心のお値段だが、たっぷり飲んで食って、北澤倶楽部でこないだ食ったときの半分であっ た。エライ。11時過ぎ、タクシーで帰宅。

 明日の荷造り少しして、『バジリスク』四回目読みながら寝る。夜叉丸に化けた如月左衛門が妹のお胡夷と指先の暗号で会話を交わすシーン、顔は夜叉丸だが、キャラは“あにさま”左衛門として、可愛い妹と最後にこのような状況で会話を交わす悲痛な情を込めねばならない。小説なら比較的簡単に描けるこの場面が、マンガで描く場合いかに難しいか。あの小山春夫バージョンでも、頑張ってはいたが、完全にマンガ表現として消化しきれていなかった。それを、目だけを左衛門のそれにして描く(左衛門の目を特徴的な細目として描いていたのは、このためだったか)という工夫で処理しているのは、まことにもって上手い。映画でもアニメでもなしえぬ、マンガだけに可能な内面表現である。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa