裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

11日

木曜日

十一種のユダヤ人

 えーとアシュケナジム系、セファルディム系、ファラシャ系、ミズラヒム系、サブラ……あ、それから日本民族系もあるか。朝、7時25分起床。朝食はトウモロコシと枝豆。日本橋高島屋の二十世紀(一個々々セロファン包装してあり、“二十世紀”と名札がついている)。新聞に“水爆の父”エドワード・テラー博士死去の報、95歳。ハンガリー出身で、母国名テッレル・エデ。ハンガリーは日本と同じく、姓の後に名がくるのである(5へぇくらいか?)。

 水爆の父、という称号を彼は嫌がるどころか、生涯、誇りにしていたらしい。なにしろ、科学が現代のように人類をおびやかす脅威ではなく、未来への希望、人類の発展という言葉と100%結びついていた時代に生きていた人である。彼がどれほど科学を純粋に信奉していたかは、自分の息子に、“アストロ”という、鉄腕アトムか、というような名前をつけたことでもわかるだろう。ちなみに、このアストロ・ボーイならぬアストロ・テラー氏も当然科学者になって、今、人工知能の研究をしているそうだ。……だって、こんな名前をつけられたら、科学者になるしかないではないか。

 親父のテラー氏の研究への没頭ぶりは、『カール・セーガン科学と悪霊を語る』に詳しい。自分の作った水爆の平和利用を熱心に唱え、港や運河を造ったり、山を除去したり、大量の土砂を片づけたりするときには核爆弾を使用したらいいとか、一般相対性理論の証明には太陽の向こうで水爆を爆発させればいいとか、月の化学成分を調べるには、月面で水爆を爆発させ、その閃光と火の玉のスペクトルを調べればいいとか、実にもう、うれしくなるほどのマッド・サイエンティストぶりである。その極めつけが彼と宇宙人の結びつきで、宇宙人来訪説信者には、エリア51でテラー博士は宇宙人J−RODと何度も対談した、と信じられている。彼が伝説の科学者であればこそこういう話も生み出されるのだろう。トンデモ科学者自体が、最近は小粒になってきてしまったなあ、という感じである。

 ……などと朝食を取りながらぼんやり考えていたら、階下でいきなり、グジュズズズ……と、異様な音が響いてきた。何だ、と思って行ってみると、階段の真上の天上から大量の水がジャバジャバと流れ落ちているではないか。仰天して、あわてて階段のところに積み上げている本を片づける。二十数冊がぐっしょり濡れてしまい、雑誌付録数冊は汚い茶色に汚されてしまった。ゆまに書房で復刻予定のものも水にひたっていて、ギャアと思ったが、こっちは水が汚れていなかった(最初に汚水が落ちてきて、あとは普通の水だったらしい)ので、急いで表紙をぬぐって、何とか無事に保護 できた。 みると、階段部分の天上から、赤茶色のサビみたいなヘドロが壁を伝わっている。急いでK子が管理会社に電話して、対処を依頼する(依頼というより脅迫みたいな口調だったが)。あわてて管理人が飛んできたが、水漏れは数分で止まった。たぶん、上階の部屋の水道管の、使用していないもの(このマンションは古いので、もう使っていない古い水道管や配水管がいくつも壁の裏を通っている)に、地震などでヒビが入り、中にたまっていた水が流れ出たのだろう。なにしろ築40年以上である。あち こちガタが来ているのである。

 そんなことで1時くらいまで時間がつぶれる。昼は外に出るが、いや陽光のまぶしいこと。この陽の光、この暑さが一ヶ月前に来ていてくれれば。セミも、“まだ鳴かんとあかんのか”という感じで鳴いている。兆楽でルースーチャーハン。あといくつか買い物もあるのだが、今日は3時に光文社と打ち合わせで、その席で『カラサワ堂怪書目録』の文庫化用の赤入れ本を渡さねばならないので、家に帰る。発汗淋漓であ り、シャツからパンツまで全部取り替える。

 冷凍白桃つまみながら赤入れ。この本の発行は1999年12月だが、まだ一人称に“僕”が使用されている。このウェブ日記をつけはじめたのがこの歳の9月で、そのときに、人称に“私”を採用、それ以来、エッセイでも談話でも、基本的に自分のことは全部“私”で統一することにしたのだが、この本はそれ以前の連載をまとめたもので、ちょうど作業時期が日記を始めた9月から10月にかけて。いまだ人称にはそんなに気をつけていなかったのであった。日記と言えば、本日、ニューヨーク国際貿易センターテロ事件から二年目であるが、さしたる感慨はなし。何故かと言えば、その当日のことはこの日記に詳しく書いてあるので、それを読めばことたりて、わざわざ記憶を探る必要もないからである。事件周辺の方に感慨はある。あのニュースを聞いたのは、新宿の寿司処すがわらからの帰りの車中だったが、最近あそこもご無沙汰になっちゃったなあ、とか。赤入れの最中に肩凝りと眠気がひどくなってきて、何度もオチそうになる。こりゃいかんな、とマッサージに予約。幸い、空いていた。

 3時、時間割にて光文社Oさん。いつの間にか、ヒゲ面になっていた。赤入れ本を渡し、しばし雑談。やはり話題はトリビアがらみになる。あの時間帯、始まったときには“雨傘番組”とかバカにされていたが、雨傘どころか、こないだ“やじうまワイド”で阪神優勝が決定する日はいつか、という話題が出たとき、“水曜日となると、『トリビアの泉』とかちあってしまうんで、ここは阪神も避けたいでしょう”などと言っていた。今年の阪神が裏になるのを避けたいと怖れるというのはいったい、どういう番組なのかと呆れたことであった。
「あれの人気の秘密は、“消去法で選ぶ”番組であることでしょうね。何か凄い個性がある番組だと、反発する視聴者が必ずいるんだけど、どこをとっても、とりたてて嫌う要素がない、ヒョウタンナマズ的な作りの番組なので、ザッピングの果てに、結局あれに落ち着いてしまう」
「知識を競う番組なのに、クイズ形式でないというのも強いと思いますよ。今の若い世代はとにかく競争ってものを嫌うでしょう。知識の量の多さを競うんじゃなくて、ただ、無責任に“へぇ”と言っていればいい。説明のあとでへぇを追加しても叱られないし、他の人よりへぇが多くても少なくても別にどうこう言われるわけじゃない。 あの気楽さが、時代にマッチしていますよねえ」

 30分ほど話して、外へ出る。まだ暑いが陽射しはだいぶ弱まった。青山まで足を延ばして、紀ノ国屋で買い物。まだ、引っ越しの告知はなし。移転でモメているか。パンや料理用酒類など買い込んで帰宅して、ダニエル・プール『19世紀のロンドンはどんな匂いがしたのだろう』(青土社)を読み始める。当時のロンドンは圧倒的に子供の数の多い街で、14歳未満の子供が全人口の三割から四割を占めていたとの記述に、なるほど、と膝を打つ。シャーロック・ホームズのベイカー・ストリート・イレギュラーズの存在もそういう子供人口の多さに支えられていたわけか。

 6時、新宿に出てサウナ&マッサージ。いくらでも出る、という感じで汗が流れ落ちる。マッサージ、全身が凝り固まっているという感じで、先生も呆れていた。とにかく、もういいトシで、もともと丈夫な質でもない、節制も健康法もなにひとつしていない肉体と精神を、救心と、麻黄附子細辛湯とここのマッサージとで、何とか賦活 させながら原稿を書いているんである。

 タクシーで渋谷に戻り、温石料理『船山』。今日は9月“紅葉の献立”。献立表がコシノヒロコ氏筆のものになっている。コシノ氏はここの店がお気に入りで、壁にかかっている巨大な魚の絵(メガマウスの魚拓みたいに見えるのだが)や、焼酎のボトルに描かれた顔などもコシノ氏の酔筆によるもの。お造り(メイチダイの刺身が新顔でなかなか)、朴葉味噌焼き(鴨、帆立、里芋など)、松茸土瓶蒸しなど、いずれも 結構。〆は栗ご飯。

 ご主人から話を聞いたが、花菜はやはり店を閉めてしまったとのこと。それも、金銭的な問題だったという。あれだけ流行っていて、NHK前で客が減ることなどない店なのに、どうして金の問題で……と首をかしげる。そう言えば、最初は厨房に主人の他二、三人が常にいて、その他女の子が二人という大所帯だったものが次第に減っていき、最後あたりは主人と女の子の二人きりになってしまっていた。……原因はどうあれ、いい手打ち蕎麦の、しかも夜遅くまでやっている店が、近所になくなってしまったのは痛い。今朝の水漏れ事件で、そろそろ引っ越しを考える時期かな、とK子と話したのだが、ここの消滅も、案外大きな要素になるかも知れないと考える。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa