6日
土曜日
つつしんでオキアミ申し上げます。
鯨に食われたり、シオカラになったり。朝、7時半起床。アミールS飲んで朝食つくり。トウモロコシと枝豆。朝刊に『ナニワ金融道』青木雄二氏死去の記事あり、驚く。58歳、まだまだ死ぬ年齢じゃない。98年にまだ私が手塚治虫文化賞選考委員だったとき、優秀賞を受賞して大阪から上京し、舞台挨拶したのを同じ壇上の選考委 員席(つまり背中から)見ていた。
「ゆうべの晩、大阪の自宅でワシの頭の中に響いておりましたのは、村田英雄の『王将』の、“明日は東京へ出てゆくからは、何が何でも勝たねばならぬ”という文句でありまして、決意を新たにしたわけでありますが、しかしよく考えてみますと、受賞はもう決まっているわけでありまして、行けばくれるのはもうわかっておるんでありまして、勝たねばならぬと気張らんでも別によかったわけで……」
と、これをどうもギャグでなく素でしゃべっているらしくて、大阪人の自己表現スタイルの凄さよ、と感心したのを覚えている。この受賞を本当に喜んでいるらしく、上機嫌のあまり、あれだけブチ殺すとかいきまいていたいしかわじゅんとも仲直りし てしまったほどだった。
『ナニワ金融道』については、ストーリィには講談社の編集の手がだいぶ入っているらしいが、私にとってはそんなことはどうでもいい。そもそも、金貸しの話などというものに、あまり興味はなかった。私がはじめてあのマンガを読んで仰天したのは、その、表現というか構成というか、いわゆるマンガはこびが、それまでの、手塚治虫が手本を示し、石森章太郎が理論化した現代における“マンガの描き方”を一切、無視した(と、いうか知らなかったのだろう)ものであったことだった。
「おい灰原、これをあの家に届けてくるんや」
「はい、わかりました、これをあの家に届けるんですね」
この二つのセリフに二コマかけて、しかも、そのコマ同士の構図や人物配置は全く同じなのである。無駄なコマを使うな、コマごとの構図は変化させて読者を退屈させるな、表現は説明口調でなくソフィスティケートさせろ、等々、われわれ『マンガの描き方』世代の“常識”を一切守らず、しかも、その表現が呆れるほど面白かったのである。当時、徳間書店の『少年キャプテン』誌の編集者だった(現・SFジャパン編集長の)Oくんに
「ヤーイ、あんた方編集の言っているマンガのセオリーが一切ムダになった」
と言ったら憮然とした顔で、“ソンナことはないです、いまにあのマンガは破綻しますよ”と口をとがらかしたが、破綻もせず最後まで描き切ったのはお見事というしかない(もっとも、後半手慣れてからはかなり普通のマンガぽくなった)。手塚治虫がたぶん、最も自分から遠いと思ったであろう内容の作品で手塚治虫文化賞をとると いうのも皮肉な受賞であった。
正直、あの一作だけの人だろうなと思っていたし、その後文化人になっていろいろ出した本は、どれもアル中親父のヨタを聞いてるみたいな内容で、一顧だにする価値もなかったが、しかし『ナニワ金融道』一作のみで、マンガ界に不滅の足跡を記したことだけは確かであろう。むしろ死に時を得たというべきなのかもしれない。長生きするだけが人生ではない。上記手塚治虫文化賞のパーティで、挨拶した私をよほどエライ先生と思ったのか、深々と頭を下げて、自分の作品などをこんなおえらい方々が評価していただいて……と、クダを巻くような感じで話しかけてくれた。パーティ嫌いの私はいつでも、授賞式が済んだら早々に退去することにしていて、この時も、会場で話を交わしたのは、氏と、『蒼天航路』の原作者の李学仁氏のお二人のみであっ た。ご両人とも、すでにこの世の人ではない。無常迅速。
昼は青山まで外出、志味津でカレーライス。青山ブックセンター本店をちょっとブラつき(ここ、経営が成り立っているのだろうか)、紀ノ国屋スーパーで明日の弁当など買う。レジに並んでいたら、前の客が店員の子に、“年内で閉めるんでしょ? どこへ移るの?”と訊いていた。やはりあの情報は正しいのか。“まだ正式決定はし てないんですよ。決まったらお知らせしますから”とのこと。
帰宅して、講談社Yくんにご足労願って写真図版のCD−ROM手渡し。そのあとメール何通か書く。ちょっと長めの私信一本。雑信だが、その中に書いて、結局カットした一節。
「……今の若い世代はものを知らない、知ろうとしないと言いますが、確かに評論家や学者がものを知らないのは問題でしょう。彼らはものを知っていることを芸にしているわけですから。しかし、一般人が玉乗りの出来ないことを恥じないのと同じく、ものを知らないことを恥じなくても、それは不思議なことではない。むしろ、日本人は昔から、ものをよく知っているということで自分たちの上に立とうとしている者を胡散に思っていたのではありますまいか。その、顕著な例が『忠臣蔵』の高師直(吉 良上野介)の描かれ方ですね」
物知りは憎まれる。これを理解しないと世の物知りたちは人生をあやまる。私が、“役にたたない、くだらない知識の普及を”とあちこちで主張しているのは“知識を得るのは大切なことでも必要なことでもない、楽しいこと”である、ということをコモンセンスにしたいからである。いばれない知識こそ、本当に愛される知識である。三枝貴代さんはかつて“一行知識なんてものは本当の教養とは何の関係もない、役に立たないものです”と、見事に切って捨てた。あの人にとり、知識とは無知な他人をねじふせ、その上に立つための武器であったのだろう。たぶん、本当の教養をお持ちなのであろう三枝さんが現在、人々からどれだけ愛されているかということを考えれば、教養なるものの効果、一目瞭然である。
なをきからメールで、ゲスラ原稿、何を描くかが決まったら早く教えてくれということであった。彼もマンガを描くので、ネタがかぶらないようにとの配慮である。メモのようなものを送ろうかとも思ったが、850ワードほどの短文でもあるし、〆切は来週末だが、その時期は札幌だし、まあ、いっそ書いてしまえ、と、二枚半、1時 間ほどで書き上げてメール。
8時半、また家を出て神山町『華暦』。今日はやたら店内がガランとしていて、私らの他にひと組だけ(それもすぐ帰った)。土曜はこんなもん、なんだそうだ。女将もお休み。板さんと語る。生ビールもお通しも刺身もやけにうまく感じるのは、昨日と比較するからか。K子がいかに昨日のSがひどかったかを語って、店員の女性が体をよじるようにして笑っていた。刺身の柔らかさが抜群、ゴボウの唐揚げが美味。生一杯、日本酒熱燗(吉乃川)一合、ウィスキーダブル一杯。